【定義】
インド以来の仏典に出る外道で、セーニャ(先尼)という名の者を音写したものである。また大乗仏教の経論では「勝軍梵志」とも意訳される。その主張は、固定不変の実体我を認め、霊性の常住性をもとに、「心常相滅」を説く者である。特に『大般涅槃経』巻39に見える世尊との論争が有名であり、また道元禅師も実体我批判の対象として、先尼の名を『弁道話』、『正法眼蔵』「仏性」「即心是仏」巻などで採り上げる。
インド以来の仏典に出る外道で、セーニャ(先尼)という名の者を音写したものである。また大乗仏教の経論では「勝軍梵志」とも意訳される。その主張は、固定不変の実体我を認め、霊性の常住性をもとに、「心常相滅」を説く者である。特に『大般涅槃経』巻39に見える世尊との論争が有名であり、また道元禅師も実体我批判の対象として、先尼の名を『弁道話』、『正法眼蔵』「仏性」「即心是仏」巻などで採り上げる。
しめしていはく、いまいふところの見、またく仏法にあらず、先尼外道が見なり。いはく、かの外道の見は、わが身、うちにひとつの霊知あり、かの知、すなはち縁にあふところに、よく好悪をわきまへ、是非をわきまふ、痛痒をしり、苦楽をしる、みなかの霊知のちからなり、しかあるに、かの霊性は、この身の滅するとき、もぬけてかしこにうまるるゆえに、ここに滅すとみゆれども、かしこの生あれば、ながく滅せずして常住なり、といふなり。かの外道が見、かくのごとし。 『弁道話』
タグ
このページへのコメント
上記の引用、出典は「仏性」になっていますが「即身是佛」の誤りだと思います。
ご指摘ありがとうございます。
修正しました。