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【定義】

道元禅師の『正法眼蔵』の初めての註釈書を著した、道元禅師法嗣。後に京都に永興寺を開く。

生没年:不詳(道元禅師よりも若く、示寂したのも遅い)
出身地:近江(滋賀県)
俗 姓:源氏

【略歴】

幼い頃に出家した詮慧禅師は、比叡山横川にて天台教学を学んでいたという。しかし、宋から帰国した道元禅師の評判を聞いて、尋ねていき、その時に道元禅師が行った説法を聞いて門下に入ったという。その説法とは以下のものだと伝わっている。
上堂。直饒、周遍大法界と道得すとも、未だ春の夢に吉凶を説くことを免れず。直饒、出入微塵裏と道得すとも、未だ紅粉作美女を免れず。若し、也、真に一微塵裏を見、親しく恒沙界を見るは、忽然として従来枉用の功夫を省覚するなり。沙界、甚と為てか大と為る。微塵、甚と為てか小と為る。両般既に是、未だ実ならず。一句何ぞ的当堪き。従来法界の旧窠を打破し、従来微塵の旧鞋を脱落して、作麼生か道ん、海底の蝦[虫+麻]喫粥し、天辺の玉兎洗鉢す。『永平広録』巻1−2上堂

この上堂で詮慧禅師は道元禅師に弟子入りすることを決意し、長年侍者ともなって側に仕えてその法嗣となった。『建撕記』によると、恵達とともに博多に行った際に臨済宗の蘭渓道隆から手紙を預かってきたともいう。後に『永平広録』が編集される時には、1巻・9巻・10巻(ただし後の2巻は「詮慧等編」とあるので共編)の編集について主導的な立場を取った。

なお、詮慧禅師は京都に永興寺を興して永平寺を出た(他にも、関東地方に開山となっている寺院がある)。そして京都にて道元禅師が書かれた75巻本『正法眼蔵』についての註釈を書いて『正法眼蔵御聴書』(全10巻)が成立した。後に詮慧禅師の弟子である経豪は更に註釈書を書き進めて『正法眼蔵御抄』を編集した。

詮慧禅師は初期道元僧団で非常に重要な地位を占めていたことは明らかだが、生没年不詳という事実にも見えるように、その生涯は良く分かっていない。永平寺僧団に残らずに京都に出たということも少なからず影響しているのだとは思うが、さりとて最初の註釈書を作ったという金字塔を打ち立てた事実は消えない。

弟子には、経豪実智示真などがいたとされている。

【著作】

・先に紹介した『正法眼蔵御聴書』がある。
・『梵網経』の註釈である『梵網経略抄』を述べ、経豪が記したとされている。

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