【定義】
大智禅師の法嗣で、大智禅師による開山寺院の後継者ともなった。
生没年:不明
出身地:不明
出 生:不明
【内容】
正平21年(1366)12月9日に書かれた「大智譲状」(『曹洞宗古文書(上)』「広福寺文書712」に収録)によれば、大智禅師より、親しく「禅古侍者」または「禅古上人」と呼ばれたようで、祗陀寺、そして肥前の円通寺、同じ肥前の本覚寺の3ヵ寺を譲られた。更に、多くの僧侶を養うための荘園(土地)も譲られている。このことから、大智禅師門下で重きをなしたことが分かり、その法嗣として法席を譲与されたことになる。
また、「仏舎利相伝記」にも名を連ね、当時の九州北部に延びた曹洞宗教団の中でも、重鎮であった者か。また、「広福寺文書」に同じく収録される「禅古附法状」などから、弟子には紹遠?を出したことが分かる。同書の日付から、伝法は明徳3年(1392)6月24日となっており、その頃までは確実に存命であったものと思う。
大智禅師の法嗣で、大智禅師による開山寺院の後継者ともなった。
生没年:不明
出身地:不明
出 生:不明
【内容】
正平21年(1366)12月9日に書かれた「大智譲状」(『曹洞宗古文書(上)』「広福寺文書712」に収録)によれば、大智禅師より、親しく「禅古侍者」または「禅古上人」と呼ばれたようで、祗陀寺、そして肥前の円通寺、同じ肥前の本覚寺の3ヵ寺を譲られた。更に、多くの僧侶を養うための荘園(土地)も譲られている。このことから、大智禅師門下で重きをなしたことが分かり、その法嗣として法席を譲与されたことになる。
また、「仏舎利相伝記」にも名を連ね、当時の九州北部に延びた曹洞宗教団の中でも、重鎮であった者か。また、「広福寺文書」に同じく収録される「禅古附法状」などから、弟子には紹遠?を出したことが分かる。同書の日付から、伝法は明徳3年(1392)6月24日となっており、その頃までは確実に存命であったものと思う。
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