【定義】
近代曹洞宗教団に於いて、宗派の布教を実施し、従来の檀家制度を一新するために設置された結社のこと。明治9年(1876)10月26日に曹洞宗務局?から発布された「曹洞宗教会条例」に因む明治期の曹洞教会と、昭和天皇即位に因んで結成された昭和期の曹洞教会と、大きく2つが存在している。両者は、宗制上は不連続の組織だが、宗門内には同一の組織であると理解されている場合もあった。現在は実質的に廃止されている。
【内容】
明治政府による大規模な宗教統制であった大教院制度が実質的に崩壊した明治8年に、近代曹洞宗教団が実施した第一次末派総代議員会議(後の曹洞宗宗議会)の「第一号議案 宗教恢張之事」に於いて、当時の宗務局・青蔭雪鴻師(後に大本山永平寺貫首)が次のように提案した。
この議案は、末派総代議員(後の宗議会議員)によって可決されたが、以下の事項が付帯された。
この官准を得てとあるが、国家に対し結社を設立するために必要な手続きを行うように促したものである。また、以下の付帯事項も知られる。
つまり、宗門全体で説教の体裁を1つとし、世尊や両祖(いわゆる一仏両祖はこの時に定められた)の深恩をよく感得させ、安心し帰依する先を定めるように促したのである。また、「説教講録指南編輯ノ事」も付帯条件とした。そして、翌明治9年10月26日に官准を得たため発布されたのが「曹洞宗教会条例」である。なお、この条例について、実際の起草者は大内青巒居士である。青巒居士は、明治維新後、仏教界を取り巻く状況が大きく転換していく中で、曹洞宗でも教会を作り、人々への布教教化を行うべきだとの意見がある中で、2つの問題があったとしつつ、自身の関わった内容を以下のように示す。
ここでいう「規則」が「曹洞宗教会条例」に当たり、当時の両大本山貫首より依頼された様子がわかる。なお、後者の「布教の標準」については、この時には決まらず、明治20年代に『修証義』編纂に関わっていくのである。そこで、「曹洞宗教会条例」は全5条23款に構成されており、第一条・大意、第二条・総教会、第三条・教会、第四条・結社、第五条・誓規となっている。また、「説教講録指南」については、辻顕高師(1824〜1890、第1・2篇は少教正、第3編は中教正)によって『曹洞教会説教大意併指南』(第1〜3篇)が執筆され、明治12〜13年に曹洞宗大教院から刊行されたが、この著作は未完となった。
・『第一篇』第一条「標準、釈尊」・第二条「報徳一講、達磨」
・『第二篇』第三条「報徳二講、道元禅師」・第四条「報徳四講、瑩山禅師」
・『第三篇』第五條「能所ノ縁」・第六条「安心ノ初歩」・第七条「起行ノ初歩」までの指南、第八条「安心ノ得所」以下第一三条「屋裏ノ禁諱」(指南無し)。
つまり、一仏両祖(と達磨大師)について採り上げた著作ではあったが、安心のあり方は定めないまま終わってしまった。なお、明治21年(1888)まで曹洞教会は113結成されている。一方で、この頃、宗門内の布教は、「随意布教」とも呼ばれる状態に陥り、統一された安心などは得られない状況であった。
そこで、明治20年4月13日に創設されたのが「曹洞扶宗会?」である。同会では、同年6月に在家者化導のために『洞上在家修証義』が編集されることとなり、翌21年2月に同会蔵版として刊行された。また、同年7月に宗務局が実施しようとしていた「曹洞宗寺院現住職資格試験法」に対して、同会入会を理由に試験が免除されることもあり、多くの僧侶が入会し、1,000以上の「扶宗講社」が設置された。
明治22年に第三次末派総代議員会議が開催されると、曹洞扶宗会と曹洞教会の合併が審議され、「洞上在家化導標準」が決議された。同標準により、曹洞扶宗会は曹洞教会に吸収され、更に『洞上在家修証義』は当時の両大本山貫首によって校正されて、明治23年12月1日に『曹洞教会修証義』として改めて発布されたのである。
その後、曹洞教会に関する動きだが、古域瑶舟師『曹洞教会安心問答』(進教会・明治28年)などを見ると、『修証義』によって統一的な安心が定まった様子が見られ、その後の『曹洞宗宗制』でも『修証義』を教化の基本としていることが分かる。ただし、曹洞教会としては、總持寺分離運動や戦争協力問題など、時代の流れによって徐々に活動が衰えたということなのだろう。
しかし、昭和3年(1928)の昭和天皇即位に因む「大嘗祭」に合わせて、当時の宗議会では「曹洞教会法」などが制定・施行され、同年9月15日の諭達をもって、改めて全国組織としての曹洞教会が設立された。なお、同会の機関誌として新たに刊行されたのが『聖華』(編集者は茂木無文老師、初版50万部を予定)であった。同誌第1号巻頭に、当時の駒澤大学学長・忽滑谷快天師が寄せた文章が「正信」であったが、この文章に対して元曹洞宗大学教授だった原田祖岳師が反論したことで、いわゆる「正信論争」が惹起したのであった。
【明治期と昭和期の曹洞教会について】
昭和期の曹洞教会について、昭和3年9月15日の諭達では、「御大典記念事業として新設されたる曹洞教会」と謳っており、宗制上や宗務当局の見解としては、明治期の曹洞教会とは別組織として位置付けられている。ところが、先に挙げた原田師は、忽滑谷師への反論文「須く獅虫を駆除すべし」に於いて、「明治二十三年十二月一日に創立されて以来、長年の間没却されていた曹洞教会が、此の度び宗門四衆の下に其の実行方法が議定せられたのは誠に喜ぶべきことである」としており、宗門内に明治期と昭和期の同会を、連続性のある組織として考えていた事例が確認される。
【参考資料】
・曹洞宗総合研究センター編『曹洞宗近代教団史』曹洞宗総合研究センター・2014年
近代曹洞宗教団に於いて、宗派の布教を実施し、従来の檀家制度を一新するために設置された結社のこと。明治9年(1876)10月26日に曹洞宗務局?から発布された「曹洞宗教会条例」に因む明治期の曹洞教会と、昭和天皇即位に因んで結成された昭和期の曹洞教会と、大きく2つが存在している。両者は、宗制上は不連続の組織だが、宗門内には同一の組織であると理解されている場合もあった。現在は実質的に廃止されている。
【内容】
明治政府による大規模な宗教統制であった大教院制度が実質的に崩壊した明治8年に、近代曹洞宗教団が実施した第一次末派総代議員会議(後の曹洞宗宗議会)の「第一号議案 宗教恢張之事」に於いて、当時の宗務局・青蔭雪鴻師(後に大本山永平寺貫首)が次のように提案した。
民心を固結するは教法より善きは莫し教法を振作するは結社より善きは莫し故に闔国寺院其裁制を一途にし我檀越を一講社となし住職たる者其信男信女を保導し信心堅牢ならしめんとす 『曹洞宗務局普達全書』明治8年項、カナをかなにするなど読み易く改める
この議案は、末派総代議員(後の宗議会議員)によって可決されたが、以下の事項が付帯された。
敷教は目今の急務一日も不可忽依て結社は官准を得一般着手可致事 同上
この官准を得てとあるが、国家に対し結社を設立するために必要な手続きを行うように促したものである。また、以下の付帯事項も知られる。
説教体裁を一途にし帰着する処世尊及両祖の深恩に感ぜしめ安心帰向を定むべき事 同上
つまり、宗門全体で説教の体裁を1つとし、世尊や両祖(いわゆる一仏両祖はこの時に定められた)の深恩をよく感得させ、安心し帰依する先を定めるように促したのである。また、「説教講録指南編輯ノ事」も付帯条件とした。そして、翌明治9年10月26日に官准を得たため発布されたのが「曹洞宗教会条例」である。なお、この条例について、実際の起草者は大内青巒居士である。青巒居士は、明治維新後、仏教界を取り巻く状況が大きく転換していく中で、曹洞宗でも教会を作り、人々への布教教化を行うべきだとの意見がある中で、2つの問題があったとしつつ、自身の関わった内容を以下のように示す。
第一には布教の標準を一定せねばならず、次には教会を組織するに就ての規則を定めねばなるまいと云ふことであつたが、其の規則を造ることだけは、明治八年に当時の両大禅師から拙老へも御嘱託であつて、何の雑作も無く容易に出来たけれども、第一肝要なる布教の標準を一定すると云ふことに至つては、中々容易に決することが出来なかつたのである。 大内青巒居士『修証義講話』鴻盟社・大正11年、20頁
ここでいう「規則」が「曹洞宗教会条例」に当たり、当時の両大本山貫首より依頼された様子がわかる。なお、後者の「布教の標準」については、この時には決まらず、明治20年代に『修証義』編纂に関わっていくのである。そこで、「曹洞宗教会条例」は全5条23款に構成されており、第一条・大意、第二条・総教会、第三条・教会、第四条・結社、第五条・誓規となっている。また、「説教講録指南」については、辻顕高師(1824〜1890、第1・2篇は少教正、第3編は中教正)によって『曹洞教会説教大意併指南』(第1〜3篇)が執筆され、明治12〜13年に曹洞宗大教院から刊行されたが、この著作は未完となった。
・『第一篇』第一条「標準、釈尊」・第二条「報徳一講、達磨」
・『第二篇』第三条「報徳二講、道元禅師」・第四条「報徳四講、瑩山禅師」
・『第三篇』第五條「能所ノ縁」・第六条「安心ノ初歩」・第七条「起行ノ初歩」までの指南、第八条「安心ノ得所」以下第一三条「屋裏ノ禁諱」(指南無し)。
つまり、一仏両祖(と達磨大師)について採り上げた著作ではあったが、安心のあり方は定めないまま終わってしまった。なお、明治21年(1888)まで曹洞教会は113結成されている。一方で、この頃、宗門内の布教は、「随意布教」とも呼ばれる状態に陥り、統一された安心などは得られない状況であった。
そこで、明治20年4月13日に創設されたのが「曹洞扶宗会?」である。同会では、同年6月に在家者化導のために『洞上在家修証義』が編集されることとなり、翌21年2月に同会蔵版として刊行された。また、同年7月に宗務局が実施しようとしていた「曹洞宗寺院現住職資格試験法」に対して、同会入会を理由に試験が免除されることもあり、多くの僧侶が入会し、1,000以上の「扶宗講社」が設置された。
明治22年に第三次末派総代議員会議が開催されると、曹洞扶宗会と曹洞教会の合併が審議され、「洞上在家化導標準」が決議された。同標準により、曹洞扶宗会は曹洞教会に吸収され、更に『洞上在家修証義』は当時の両大本山貫首によって校正されて、明治23年12月1日に『曹洞教会修証義』として改めて発布されたのである。
その後、曹洞教会に関する動きだが、古域瑶舟師『曹洞教会安心問答』(進教会・明治28年)などを見ると、『修証義』によって統一的な安心が定まった様子が見られ、その後の『曹洞宗宗制』でも『修証義』を教化の基本としていることが分かる。ただし、曹洞教会としては、總持寺分離運動や戦争協力問題など、時代の流れによって徐々に活動が衰えたということなのだろう。
しかし、昭和3年(1928)の昭和天皇即位に因む「大嘗祭」に合わせて、当時の宗議会では「曹洞教会法」などが制定・施行され、同年9月15日の諭達をもって、改めて全国組織としての曹洞教会が設立された。なお、同会の機関誌として新たに刊行されたのが『聖華』(編集者は茂木無文老師、初版50万部を予定)であった。同誌第1号巻頭に、当時の駒澤大学学長・忽滑谷快天師が寄せた文章が「正信」であったが、この文章に対して元曹洞宗大学教授だった原田祖岳師が反論したことで、いわゆる「正信論争」が惹起したのであった。
【明治期と昭和期の曹洞教会について】
昭和期の曹洞教会について、昭和3年9月15日の諭達では、「御大典記念事業として新設されたる曹洞教会」と謳っており、宗制上や宗務当局の見解としては、明治期の曹洞教会とは別組織として位置付けられている。ところが、先に挙げた原田師は、忽滑谷師への反論文「須く獅虫を駆除すべし」に於いて、「明治二十三年十二月一日に創立されて以来、長年の間没却されていた曹洞教会が、此の度び宗門四衆の下に其の実行方法が議定せられたのは誠に喜ぶべきことである」としており、宗門内に明治期と昭和期の同会を、連続性のある組織として考えていた事例が確認される。
【参考資料】
・曹洞宗総合研究センター編『曹洞宗近代教団史』曹洞宗総合研究センター・2014年
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