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【定義】

扇子の一種。啓は開くことで、普通の扇子と違って、常に開かれている状態になっている。法戦式での首座弁事?などが用いる。

【内容】

現行『昭和修訂曹洞宗行持軌範』では、「中啓」の記述について、「年分行持?」の「首座法座(首座法戦式)」の項目にのみ該当用語が確認され、そこでは、上方丈の際に、侍者が首座と弁事(開口)に中啓(祝扇)を渡すように述べるに留まる。ここでは、「中啓」の色などは決めていない、しかし、「祝扇」とあることに注意したい。

江戸時代までの記述では、清規関係に中啓に関する記述を見出すことは難しく、臨済宗妙心寺派の無著道忠(1653〜1745)が著した文献に数カ所見える。
忠曰く、日本禅林兄弟の、執る所の金面の中啓扇子、上頭に深紅雲容を絵(えが)く。名づけて、頭末紅扇子と言う。  『禅林象器箋』第二十八類・器物門、「頭末紅扇」項

上記は用語的な解説に見られる中啓である。
時至れば位頭自り末位に到る。皆、掛絡・帽子・襪子を著け、中啓扇を持つ。戸外に各相い揖して、入って位に就く。 『小叢林清規』「書院題詠」

さて、前者に依れば、日本の禅宗寺院では、金面の中啓扇子は、上に深紅の雲の形を描いており、基本は金色であったのだろう。更に、後者に依れば、公の式典(この場合は、書院で詩偈などを詠む会)に臨む際に持つべきものであったことが分かる。

その上で、「中啓」の成り立ちを考えれば、『国史大辞典』(吉川弘文館)の「末広扇」項では、平安時代末期から、黒漆塗りで、赤の紙を地とした「皆彫骨(みなえりぼね)の扇」が用いられ、これが公家や武家の装束の備品となったという。よって、「中啓」の原型は日本で出来た器物である。特に「中啓」は、この扇の開きがやや緩やかになったものとされる。そして、公家では檜扇を扇の中でもっとも正式なものとしたが、中啓はその檜扇に次ぐものとされた。また、徳川家をはじめとする大名家では、「中啓」を直垂や大紋といった、正式な儀礼服着用の際の持ち物とされている。

そこで、現在の法戦式に用いられる理由だが、先に『小叢林清規』に挙げたように、公の式典に際して、主となる参加者が持って臨むのが「中啓」であった。「法戦式」の源流は道元禅師が興聖寺で、懐奘禅師首座として行わせた「秉払」に由来するとはされるが、中世に至り形式を大胆に改め、現在見るような「法問」形式にしたという。また、来馬琢道『禅門宝鑑』には、「法戦式」を考証して、「古来の説には殿中にて問答せるときの体裁を模したものたりとあり」という見解を示す。つまり、「中啓」は法戦式が、殿中、要するに武家の城や屋敷で行われたため(栗山泰音禅師「法問の由来」、同朋舎『曹洞宗布教選書』第14巻所収)、その場に臨む者が持っていた可能性があるということである。

したがって、この辺が、現在でも法戦式のみに「中啓」が記載される理由になりうると考察される。なお、法戦式については、尾崎正善先生『私たちの行持』(宗務庁出版部、2010年)でも、その由来が判明しないとしており、明治22年(1889)刊行の『明治校訂洞上行持軌範』でも、従来の説の不備を指摘するのみで、明確な由来を示さない。しかし、この明治時代の軌範編集時に現在の差定に近い形式に改めたことは分かるという。

また、現状は尊宿喪儀法の法儀等、多くの僧侶が随喜する法要が、「公の式典」と見なされる状況の中で、随喜する僧侶が「中啓」を持つ必要を想い至ったと思われる。しかし、「金面朱塗りの中啓」を用いることは「弔事に相応しくない」との意見が出て、法衣店・仏具店などで黒塗りの中啓や、白木の中啓などを作り、現在流通しているのだろうと思われる。

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