【定義】
曹洞宗の大本山總持寺2世峨山韶碩禅師の法嗣で、總持寺5世の通幻寂霊禅師のこと。号は通幻、名は寂霊。峨山五哲の一。總持寺の輪住制確立に寄与。
生没年:元亨2年(1322)〜明徳2年(1391)
出身地:豊後国国崎郡武蔵郷(現在の大分県国東市武蔵町)
俗 姓:不詳
【内容】
通幻禅師の誕生は、京都や因幡国(現在の鳥取県)など異説もあるが、『通幻大和尚喪記』などを見ると、「豊後州武蔵郷人事」とあり、また18歳で太宰府の観世音寺にて登壇受戒していることから、九州、就中大分県生まれであると推定されている。通幻禅師の誕生は、或る説話となっており、その母は仏塔に詣でて懐妊したというのだが、出産直前に亡くなってしまい、その埋葬された墓の中で通幻禅師は生まれたと伝える。中国南宋時代の文献(洪邁『夷堅志』)に出る「子育て幽霊」という説話との関わりも指摘されている。
幼い頃から極めて聡明であり、学問を始めてから数年で、四書五経や中国の歴史書に通暁したという。その間は世俗と交わることをせず、ひたすらに学問に励んだ。暦応元年(1338)には、17歳で豊後にある大光寺の定山祖禅に参じて出家得度し、翌年には観世音寺で受戒している。
暦応3年(1340)には、加賀大乗寺の住持であった明峰素哲禅師に参じたが、その機会を作ったのは、明峰禅師の法嗣である大智禅師が、肥後(現在の熊本県)を中心に活動されていたこともあって、明峰禅師の名声が届いたためと推定されている。明峰禅師の下で10年余り、朝晩欠かさず修行に励み、他の修行僧は「精進幢」と称したという。
観応元年(1350)には、明峰禅師が遷化したものの、その後も大乗寺に留まっていた。しかし、2年後の春、總持寺の峨山韶碩禅師の道風が高いことを知ると、その門下に入った。峨山禅師は通幻禅師の力量を見抜き、侍者に任じるなど、總持寺教団の中でも重鎮として活動し、また峨山禅師から或る日、「身心脱落話」を聞いて大悟したという。それは、延文元年(1356)8月、通幻禅師35歳の時であるという。峨山禅師は大悟徹底の印可証明として、通幻禅師に衣法を授け、『仏祖正伝菩薩戒作法』を伝え、また自賛の頂相を授けたともいう。
通幻禅師にとって本師となった峨山禅師は貞治5年(1366)に遷化したが、その時には遺品として、袈裟と竹箆を授かっており、それから2年後には總持寺5世として晋住した。なお、この晋住の前には、通幻禅師は太原山聖興寺を開いていたとされている。
応安3年(1370)には、室町幕府の管領である細川頼之の帰依を受け、現在の兵庫県三田市に青原山永澤寺?を開創したが、その際の学人接化も逸話として残されている。それは、文字点検と活埋坑である。前者は、学人が文字の義解によって仏法を会得したと執着することを戒めるために、5日毎に衆寮などを点検して、書籍を見付けたら焼却処分したという。後者は、僧堂の前に大きな穴を掘って、新到の雲水に問答を試み、契わなかったら、穴に落としてしまったという。生きたまま埋める坑、よって活埋坑である。
なお、通幻禅師が總持寺に住持していたのは、何度か数えられているが、2度目は永和4年(1378)から永徳2年(1382)にかけて住持しており、總持寺仏殿の造立工事を行うなど、本寺に相応しい伽藍整備に携わっている。
至徳3年(1386)には、越後守であった安野泰久の招きに応じて、越前国府中にあった、太平山龍泉寺?の開山になっている。このように、永澤寺、龍泉寺、また總持寺五院の一である妙高庵、後には下総に移転する総寧寺?などの開山となり、特にこの四箇寺については、明徳元年(1390)に「通幻四箇道場」としてその住持職にある者の心構えなどを厳しく遺言されている。
嘉慶2年(1388)11月27日には、また總持寺に住持している。この時には、陸奥正法寺にいた兄弟弟子になる月泉?良印禅師に対して、總持寺に住持するように招請しているが、月泉禅師は応じなかった。通幻禅師は總持寺の伽藍や経済基盤の整備に非常に積極的であり、五院による輪住制の確立にも寄与したが、峨山禅師の弟子全てが同じ温度であったわけではない。
明徳2年4月には病を発し、5月5日(端午)には上堂することが出来たが、その日の内に臨終となり、弟子達を集めると、洞上の玄風を失墜させてはならないこと、我が門下は、文字言句・名聞利養に貪著してはならないことなどを遺誡して、「甲子を算計するに、七十年に満つ。末後の行脚、両脚天を踏む」と遺偈されて遷化した。遷化した場所は龍泉寺であるという。
世寿70歳、法臘52歳であった。語録として『通幻禅師語録』(1巻)、『通幻霊禅師漫録』(2巻)がある。また、弟子としては、「通幻十哲」とも称される、了庵?慧明禅師、石屋?真梁禅師、普済善救禅師、天真?自性禅師、天膺祖祐禅師、不見明見禅師、一径永就禅師、天徳曇貞禅師、芳庵祖厳禅師、了峰正杲禅師、量外聖寿禅師などの名前が挙げられている。特に関東に了庵禅師、九州に石屋禅師の系統が伸び、かなりの間、日本曹洞宗最大の派(通幻派)として活動しており、現状でも非常に有力である。
【参考】
当記事は、『曹洞宗報?』平成21年11月号に収められている納富常天先生「大本山總持寺宝物殿 古文書の世界 第十一回」を参照して書かれた。
曹洞宗の大本山總持寺2世峨山韶碩禅師の法嗣で、總持寺5世の通幻寂霊禅師のこと。号は通幻、名は寂霊。峨山五哲の一。總持寺の輪住制確立に寄与。
生没年:元亨2年(1322)〜明徳2年(1391)
出身地:豊後国国崎郡武蔵郷(現在の大分県国東市武蔵町)
俗 姓:不詳
【内容】
通幻禅師の誕生は、京都や因幡国(現在の鳥取県)など異説もあるが、『通幻大和尚喪記』などを見ると、「豊後州武蔵郷人事」とあり、また18歳で太宰府の観世音寺にて登壇受戒していることから、九州、就中大分県生まれであると推定されている。通幻禅師の誕生は、或る説話となっており、その母は仏塔に詣でて懐妊したというのだが、出産直前に亡くなってしまい、その埋葬された墓の中で通幻禅師は生まれたと伝える。中国南宋時代の文献(洪邁『夷堅志』)に出る「子育て幽霊」という説話との関わりも指摘されている。
幼い頃から極めて聡明であり、学問を始めてから数年で、四書五経や中国の歴史書に通暁したという。その間は世俗と交わることをせず、ひたすらに学問に励んだ。暦応元年(1338)には、17歳で豊後にある大光寺の定山祖禅に参じて出家得度し、翌年には観世音寺で受戒している。
暦応3年(1340)には、加賀大乗寺の住持であった明峰素哲禅師に参じたが、その機会を作ったのは、明峰禅師の法嗣である大智禅師が、肥後(現在の熊本県)を中心に活動されていたこともあって、明峰禅師の名声が届いたためと推定されている。明峰禅師の下で10年余り、朝晩欠かさず修行に励み、他の修行僧は「精進幢」と称したという。
観応元年(1350)には、明峰禅師が遷化したものの、その後も大乗寺に留まっていた。しかし、2年後の春、總持寺の峨山韶碩禅師の道風が高いことを知ると、その門下に入った。峨山禅師は通幻禅師の力量を見抜き、侍者に任じるなど、總持寺教団の中でも重鎮として活動し、また峨山禅師から或る日、「身心脱落話」を聞いて大悟したという。それは、延文元年(1356)8月、通幻禅師35歳の時であるという。峨山禅師は大悟徹底の印可証明として、通幻禅師に衣法を授け、『仏祖正伝菩薩戒作法』を伝え、また自賛の頂相を授けたともいう。
通幻禅師にとって本師となった峨山禅師は貞治5年(1366)に遷化したが、その時には遺品として、袈裟と竹箆を授かっており、それから2年後には總持寺5世として晋住した。なお、この晋住の前には、通幻禅師は太原山聖興寺を開いていたとされている。
応安3年(1370)には、室町幕府の管領である細川頼之の帰依を受け、現在の兵庫県三田市に青原山永澤寺?を開創したが、その際の学人接化も逸話として残されている。それは、文字点検と活埋坑である。前者は、学人が文字の義解によって仏法を会得したと執着することを戒めるために、5日毎に衆寮などを点検して、書籍を見付けたら焼却処分したという。後者は、僧堂の前に大きな穴を掘って、新到の雲水に問答を試み、契わなかったら、穴に落としてしまったという。生きたまま埋める坑、よって活埋坑である。
なお、通幻禅師が總持寺に住持していたのは、何度か数えられているが、2度目は永和4年(1378)から永徳2年(1382)にかけて住持しており、總持寺仏殿の造立工事を行うなど、本寺に相応しい伽藍整備に携わっている。
至徳3年(1386)には、越後守であった安野泰久の招きに応じて、越前国府中にあった、太平山龍泉寺?の開山になっている。このように、永澤寺、龍泉寺、また總持寺五院の一である妙高庵、後には下総に移転する総寧寺?などの開山となり、特にこの四箇寺については、明徳元年(1390)に「通幻四箇道場」としてその住持職にある者の心構えなどを厳しく遺言されている。
嘉慶2年(1388)11月27日には、また總持寺に住持している。この時には、陸奥正法寺にいた兄弟弟子になる月泉?良印禅師に対して、總持寺に住持するように招請しているが、月泉禅師は応じなかった。通幻禅師は總持寺の伽藍や経済基盤の整備に非常に積極的であり、五院による輪住制の確立にも寄与したが、峨山禅師の弟子全てが同じ温度であったわけではない。
明徳2年4月には病を発し、5月5日(端午)には上堂することが出来たが、その日の内に臨終となり、弟子達を集めると、洞上の玄風を失墜させてはならないこと、我が門下は、文字言句・名聞利養に貪著してはならないことなどを遺誡して、「甲子を算計するに、七十年に満つ。末後の行脚、両脚天を踏む」と遺偈されて遷化した。遷化した場所は龍泉寺であるという。
世寿70歳、法臘52歳であった。語録として『通幻禅師語録』(1巻)、『通幻霊禅師漫録』(2巻)がある。また、弟子としては、「通幻十哲」とも称される、了庵?慧明禅師、石屋?真梁禅師、普済善救禅師、天真?自性禅師、天膺祖祐禅師、不見明見禅師、一径永就禅師、天徳曇貞禅師、芳庵祖厳禅師、了峰正杲禅師、量外聖寿禅師などの名前が挙げられている。特に関東に了庵禅師、九州に石屋禅師の系統が伸び、かなりの間、日本曹洞宗最大の派(通幻派)として活動しており、現状でも非常に有力である。
【参考】
当記事は、『曹洞宗報?』平成21年11月号に収められている納富常天先生「大本山總持寺宝物殿 古文書の世界 第十一回」を参照して書かれた。
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