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【定義】

近代曹洞宗教団の曹洞宗務局?が刊行した洞門僧侶の修行方法・差定や、各種行持の日程などを規定する軌範のこと。明治21年(1888)11月に完成し、翌年8月に上中下の3冊本として刊行・頒布された。正式名称は『明治校訂洞上行持軌範』。なお、大正7年(1918)に改訂増補版が刊行され、更には昭和25年に全面的な改訂がされて名称が『曹洞宗行持軌範』となり、その後も踏襲されている。

【編集までの経緯】

近代に入り、統一された教団としての歩みを始めた曹洞宗ではあったが、江戸時代までの両大本山の「三衣論争」などの影響により、特に僧侶の威儀(衣体)及び、行持作法の統一は困難であった。そのため、明治期に入り、両大本山協和のために調印された明治5年及び明治12年の盟約では繰り返し衣体について触れられているものの、それは混乱の原因にならないよう、1つに統一せず、更には互いに異論を発しないようにするものであった。そして、明治18年に最初の『曹洞宗宗制』が成立しても、衣体の不統一はそのままであったが、翌19年5月13日、両大本山の貫首は連名で「曹洞宗衣体ヲ斉整スルノ諭告」(『明治十九年曹洞宗普達全書』5丁表〜6丁裏)全7条を発布し、突如として曹洞宗の衣体は統一された(勿論、以降猶予期間も設けられた)。

そこで、注目すべきは、同諭告の序文に見える以下の内容である。
衣鉢行法ニ差別ヲ存スルハ時勢ニ適スルモノト認メ難シ依テ衲等協議ヲ尽シ両山旧来ノ是非ヲ截断シテ専ラ簡便ヲ旨トシ一宗一体ノ法規ヲ確定センコトヲ要ス然ルニ行法ハ規式多端ニシテ咄嗟ニ画一ヲ講シ難シ自今凡ソ五ヶ年ヲ期シテ改正規則ヲ編纂セシム可シ

この結果を受けて、曹洞宗務局では以下のように編集方針を定めるに到った。
本宗行法ノ規式ヲ同一ニセンコトヲ要セラレ凡ソ五ヶ年ヲ期シテ改正規則ヲ編纂セシムヘキ旨明治十九年五月十三日両本山貫首懇切ニ告諭有之右ハ両本山旧来ノ是非ヲ截断シテ専ラ時勢ニ適スル一宗一体ノ法式ヲ確定シ区々ノ弊習ヲ洗滁セラルヽノ慈慮ニシテ軽々ノ業ニ非ス依テ能本山貫首親カラ之ヲ管掌被成適当ノ附属員三名ヲ挙テ当局内ニ法式改正係ヲ置キ明治廿一年一月ヨリ法式改正規則編纂ニ着手スベキ旨両本山貫首協議ノ上命示相成候儀此旨普達候事 明治20年11月25日 甲第14号普達 全国末派寺院向け

この時の能本山(能登總持寺)の貫首は独住第2世・畔上楳仙禅師であった。よって、畔上禅師管掌の下、3名の「法式改正係」を置き、新たな軌範の編纂に着手されたのであった。その際の方向性は以下の通り定められている。
但本件ハ永平大清規瑩山清規其他ノ諸清規ヲ折衷シテ大綱ヲ定メラルヽハ勿論ナリト雖モ従前各地方ノ叢林ニ別行スル規式ハ一切参考ニ供スベキ旨被申聞候今後当局法式改正係ヨリ特達有之節ハ各叢林慣行ノ法式進退ニ関スル書類ヲ呈出スルニ差支ナキ様予メ調査シ置クベシ 上記普達の副達

つまり、曹洞宗の両祖が定められた清規(『永平清規』・『瑩山清規』)に依拠することはもちろんだが、それ以外の各地の叢林(いわゆる僧堂)で行われている規式があれば、それを申し出て良いとしつつ、「法式進退に関する書類」提出のための準備をするように促したのであった。そして、この「特達」については、上記普達とともに発せられた。
本年甲第十四号普達ハ最モ重大ノ儀ニ付従前宗内各寺院慣行ノ規式日分月分歳分ノ諸行事臨時ノ法用津送追善念誦等改正ノ見込アルモノハ住職前住職徒弟ヲ問ハズ明治廿一年二月迄ニ各々意見ヲ充分ニ上申スベキ旨所轄内一般ヘ相達スベシ右ハ都テ参考ニ備ヘラルヘキモノトス尤モ文辞ヲ飾ラス廉書ヲ以テ趣意ノ明瞭ナルヲ主トセシムベシ 乙第三号 十一月廿五日 各府県宗務支局宛

以上のように、各地の宗務支局(現在の宗務所)に対し、意見具申を求めたのであった。これは、当該地域にある行事や作法などを、積極的に伝えて欲しいという意向である。確かに、『洞上行持軌範』では、先に挙げた伝統的な清規に依りつつも、意図が不明瞭ながら、時宜に合わせて作法などが変更されることがあった。それは、この時の意見具申による過半の意見に従ったものであるのかも知れない。

ただし、こういう宗門全体から、広く意見を求めつつ新たな時代の軌範を作ろうとした意図は、非常に重要であり、当時の曹洞宗が、明治20年代に差し掛かり、極めて民主主義的な教団として運営されていたことが理解できよう。

【編集作業について】

編集作業や方針については、『洞上行持軌範』の例言から知ることが出来る。
一 本規編纂ハ明治二十年〈十一月〉曹洞宗務局甲第十四号普達ノ通リ能本山貫首法雲普蓋禅師親カラ之ヲ管掌セラレ加賀国金沢展徳院住職森田悟由東京愛宕町青松寺住職北野元峰石狩国樺戸郡月形村北漸寺鴻春倪ノ三名ヲ法式改正係ニ丹後国竹野郡鳥取村長命寺徒村上泰音ヲ同係書記ニ命セラレテ明治廿一年一月ヨリ着手シ同年十一月ニ至テ編纂完成ヲ告クルヲ得タリ

まずは、先の普達の通り、畔上楳仙禅師が管掌されたことが分かるが、その下で実質的な編集作業は後に大本山永平寺の貫首となる森田悟由禅師・北野元峰禅師、そして北海道の鴻春倪老師が中心となって進め、書記には村上泰音師とあるが、こちらは後に總持寺の貫首となる栗山泰音禅師のことである。つまり、後の曹洞宗で貫首となられる方々が、法式の改正に尽力された様子が伝わるのである。

そして、編集方針は以下の通りである。
一 本規ノ必要ハ従前洞上ノ行持法式区々ニ渉レルモノヲ一定セント欲スルニ在リ故ニ其大綱ヲ椙樹林指南記僧堂清規小清規ノ三ニ資ルコノ三規ハ洞上現行ノ法式ニシテ区々ニ渉レルノ根原ナルニ由ル而シテ之ヲ照スニ禅苑清規大清規瑩山清規校訂清規備用清規入衆日用清規幻住菴清規勅修百丈清規等ノ諸規ヲ以テシ更ニ各地方叢林ニ別行スル規式並末派僧侶中ノ建言上申及現今不文慣習ノ法ヲ顧ミテ得失ヲ参考シ専ラ時機ニ適応スル行持法ヲ差定セリ

先に挙げた普達では、『永平清規』・『瑩山清規』によることにしていたが、当時の宗門の行持作法について実態を調べた結果、江戸時代の『椙樹林清規』『僧堂清規』『永平小清規』の三規に依拠しつつ、そこから『禅苑清規』など他の清規を参照するという方針に切り替えたことが分かる。

【内容】

『洞上行持軌範』の構成は以下の通りである。

◎巻上
日分行事
月分行事

◎巻中
年分行事

◎巻下
附属法並臨時行持
諸疏類
諸図式
雑部類
手磬法
臨時類

【編集後の刊行・頒布について】

先に挙げた通り、明治21年11月には「法式改正係」による編集作業は終わっていたが、刊行・頒布まではまだしばらくの期間を要し、翌明治22年8月、以下のように「洞上行持軌範完成の告諭」が発せられた。
明治校訂洞上行持軌範編纂完成ヲ告ケタルニ由リ茲ニ之ヲ頒布セシム宗内僧侶一般ニ修習シテ従前区々ノ行持ヲ廃止シ明治廿四年一月一日以後同一ニ此ノ軌範ヲ修行スベシ 明治廿二年八月十五日 告諭

これは、当時の両大本山貫首(永平寺:滝谷琢宗禅師、總持寺:畔上楳仙禅師)の連名による告諭である。この結果、明治24年1月1日までに、よくよく本書の行法に親しむ必要があったことが分かる。そして、同年8月29日に全国末派寺院宛に発せられた普達甲第十五号では「洞上行持軌範拝請手続」を定め、一律50銭(配送料別)にて頒布されたのであった。

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