【定義】
かつて存在した曹洞宗の結社、曹洞扶宗会の大内青巒居士によって書かれた『修証義』のこと、青巒居士は「著作者兼発行者」であり、実際の発行は鴻盟社。明治21年(1888)2月22日に刊行された。青巒居士の編集意図を見ると、「宗旨の標準」を定め、その上で在家信者に対して布教教化、そして仏教徒としての教育を行おうとしたようである。序にて、「在家男女の弁道となす」とされているのは、まさにこれが在家信者にとっての規範となるべき教典だったといえる。
【その後『曹洞教会修証義』への改訂】
【『洞上在家修証義』全文】
文章を掲載するに辺り、岡田宜法先生『修証義編纂史』(曹洞宗宗務庁)に掲載されたる原文があるが、これは畦上楳仙禅師の改訂草稿本であり、漢字を仮名にはしているものの、却って見辛い。よって、それを本来の原文に戻しつつ、明治21年に刊行された原本も参照しながら節なども再現するが、もともと章はなく、意味の区分けは段落のみであるため、そのまま掲載する。漢字は現行通常に用いるものに改め、句読点・濁点等を適宜補う。
洞上在家修証義 并序
高祖大師曰く、夫れ修証は一つに非ずと思へる、即ち外道の見なり。仏道には、修証これ一等なり。今も証上の修なるが故に、初心の弁道即ち本証の全体なり。故に、修行の用心を授るにも、修の外に証を待つ思ひ無れと教ふ。直指の本証なるが故なりと。今夫れ懺悔は宿業を浄除し、受戒は覚位に同入す、直指の本証現前せざらんや。発願して衆生を利益し、日々の行持報恩に回向す、通身の妙修現前せざらんや。此修の外に証を求めず以て在家男女の弁道となす。謹で之を正法眼蔵に質し、恭く祖語を集めて一篇と成し、名て洞上在家修証義と曰ふ。悉く典実あり、苟くも一辞を私せず。仏祖照鑑龍天加護。
懺悔滅罪 受戒入位
発願利生 行持報恩
(第一節)生を明らめ死を明らむるは仏家の一大事因縁なり。(第二節)大凡、因果の道理、歴然として私なし。造悪の者は堕し、修善の者は昇る、毫釐も差はざるなり、若し因果亡じ虚しからんが如きは、諸仏の出世あるべからず、祖師の西来あるべからず。(第三節)人身得ること難し仏法値ふこと稀なり、今我等宿善の助くるに依て已に受け難き人身を受たるのみに非ず、値ひ難き仏法に値ひ奉れり、最勝の善身を無常の風に任すること勿れ。(第四節)つらつら観ずる所、往事の再び逢ふべからざる多し、紅顔いづくへか去りにし、尋ねんとするに蹤跡なし、露命いかなる路の草にか落ちん、塚間の一堆の塵土、あながちに惜むこと勿れ、あながちに顧ること勿れ、無常忽ちに到るときは国王大臣親昵従僕妻子珍宝たすくる無し、唯独り黄泉に赴くのみならず、己に随ひ行くは唯是れ善悪業等のみなり。(第五節)人身は四大五蘊因縁和合して仮りに成せり、八苦、つねに有り、況や刹那刹那に生滅して更に留まらず、此刹那生滅の道理に依て、衆生乃ち善悪の業を造る、又刹那生滅の道理に依て、衆生発心得道す、此の如く生滅する人身惜むとも留まらず、昔より惜みて留まれる一人未だ無し。(第六節)善悪の報に三時あり、一には順現報受、二には順次生受、三には順後次受これを三時と云ふ、仏祖の道を修習するには、其最初より此三時の業報の理を習ひ明らむるなり、然あらざれば多く誤りて邪見に堕するなり、唯邪見に堕するのみに非ず、悪道に落ちて長時の苦を受く、冥より冥に入る憐れむべし。(第七節)今生遂に如来の真訣を聞かず、如来の正法を見ず、如来の面授に照されず、如来の仏心を使用せず、如来の家風を聞ざる、悲むべき一生ならん、今生の我身二つ無し三つ無し、徒らに邪見に落ちて虚く悪業を感得せん惜からざらめや、悪を造りながら悪に非ずと思ひ、悪の報あるべからずと邪思惟するに依て悪の報を感得せざるには非ず。
(第八節)仏祖あはれみの余り広大の慈門を開きおけり、一切衆生を証入せしめんが為めなり、人天誰れか入らざらん、彼の三時の悪業報必ず感ずべしと雖も、懺悔するが如きは滅罪清浄ならしむるなり。(第九節)大凡仏法に証入すること、必ずしも人天の世智を以て出世の舟航とするには非ず、我心に善悪を分けて善と思ひ悪と思ふことを棄てて我身よからん、我心なにとあらんと思ふ心を忘れて善くもあれ悪くもあれ仏祖の言語行履に随ひ行くなり、仏在世にも手鞠に依て四果を証し袈裟を掛けて大道を明らめし倶に愚暗のやから痴狂の畜類あり、唯正信の助くるところ惑を離るる道あり、痴老の比丘の黙坐せしを見て設斎の信女さとりを開きし、智に依らず文に依らず言を待たず語を待たず、唯是れ正信に助けられたり。(第十節)仰いで仏祖の証明を憑み、誠心を専らして前仏に懺悔すべし、恁麼するとき前仏に懺悔の功徳力我を救ひて清浄ならしむ、此功徳よく無礙の浄信精進を生長せしむるなり、浄信一現するとき、自他同く転ぜらるるなり、其利益普ねく情非情に蒙らしむ、其大旨は、我昔所造諸悪業、皆由無始貪瞋痴、従身口意之所生、一切我今皆懺悔、是の如く懺悔すれば必ず仏祖の冥助あるなり、心念身儀発露白仏すべし、発露の力罪根をして銷殞せしむるなり。
(第十一節)既に仏祖の証明に依て身口意業を浄除して大清浄なることを得たり、是れ則ち懺悔の力なり、是の如く我に非ざる人身なりと雖も廻らして受戒するが如きは三世の諸仏の所証なる阿耨多羅三藐三菩提金剛不壊の仏果を証するなり、誰の智人か欣求せざらん。(第十二節)故に先づ仏法僧に帰依し奉るべし、仏弟子となること必ず三帰に依る、孰れの戒を受るも必ず三帰を受て其後に諸戒を受るなり、然あれば則ち三帰に依て得戒するなり。(第十三節)此帰依仏法僧の功徳必ず感応同交するとき成就するなり、天上人間地獄鬼畜なりと云ふとも感応同交すれば必ず帰依し奉るなり、已に帰依し奉るときは、生々世々在々処々に増長し必ず阿耨多羅三藐三菩提を成就するなり、知るべし三帰の功徳其れ甚深無量なりと云ふこと。(第十四節)一仏の名号を称念せんよりは、速に三帰を受け奉るべし、生をかへ身をかへても三宝を供養し敬ひ奉らんことを願ふべし、寐ても覚めても三宝の功徳を思ひ奉るべし、寐ても覚めても南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧と称へ奉るべし、是れ諸仏菩薩の行はせたまふ道なり、之を深く法を悟るとも云ふ、仏道の身に具はるとも云ふなり、更に異念を雑へざらんと願ふべし。(第十五節)徒らに所迫を畏れて山神鬼神等に帰依し或は外道の制多に帰依すること勿れ、彼れは其帰依に因て衆苦を解脱すること無し。(第十六節)次に三聚戒あり、摂律儀戒、摂善法戒、摂衆生戒なり、次に十重禁戒あり、第一不殺生戒、第二不偸盗戒、第三不邪婬戒、第四不妄語戒、第五不酤酒戒、第六不説過戒、第七不讃毀自他戒、第八不慳法財戒、第九不瞋恚戒、第十不謗三宝戒なり、此十六條の仏戒は諸仏の護持したまふ所なり、仏々相授あり、祖々相伝あり、法に依り教に随ひ或は礼受し或は拝受せよ。(第十七節)衆生受仏戒、即入諸仏位、位同大覚了、真是諸仏子〈衆生仏戒を受くれば即ち諸仏の位に入る、位大覚に同うし了る、真に是れ諸仏の子〉なり、諸悪莫作と願ひ、諸悪莫作と行ひもてゆく、諸悪つくられず成りゆく所に修行力忽ちに現成す、此現成は、尽地・尽界・尽時・尽法を量として現成するなり。(第十八節)是時十方法界の土地草木牆壁瓦礫、皆仏事を作すを以て、其の起す所の風水の利益に預る輩、皆甚妙不可思議の仏化に冥資せられて、近き悟を顕はす、此水火を受用する類、皆本証の仏化を周旋するが故に、是等の類と共住して同語する者、亦悉く相互ひに無窮の仏徳そなはり、展転広作して、無尽無間断不可思議不可称量の仏法を、遍法界の内外に流通する者なり。
(第十九節)我等幸ひに一分の妙修を単伝せる、即ち一分の本証を無為の地に得るなり、従来の光陰は設ひ虚く過すとも、今生の命未だ過ぎざる間に急ぎて発願すべし、自未だ度らざる先に一切衆生を度さんと発願し営むなり、設ひ在家にもあれ、出家にもあれ、或は天上にもあれ、人間にもあれ、苦に在りといふとも、楽に在りといふとも、早く自未得度先度他の心を発すべし。(第二十節)其形卑しといふとも此心を発せば已に一切衆生の導師なり、設ひ七歳の女流なりとも即ち四衆の導師なり、衆生の慈父なり、男女を論ずること勿れ、仏道極妙の法則なり。(第二十一節)若し菩提心を発して後に六趣四生に輪転すといふとも其輪転の因縁皆菩提の行願となる、生死を心に任す生死を身に任す生死を道に任す生死を生死に任す、刹那生滅流転捷疾にありながらも久遠の寿量忽ちに現在前するなり。(第二十二節)何れの処か仏国土にあらざらん、此発菩提心多くは南閻浮の人身に発心すべきなり、願生此娑婆国土し来れり見釈迦牟尼仏を歓ばざらんや。(第二十三節)初発心に成仏す、妙覚地に成仏す、或は無量劫行ひて衆生を先に度して自らは遂に仏に成らず、唯衆生を度して衆生を利益するも有り、設ひ仏に成るべき功徳熟して円満すべしといふとも尚ほ廻らして衆生の成仏得道に廻向するなり。(第二十四節)衆生を利益すといふは、布施・愛語・利行・同事は薩曙狽フ行願なり、布施といふは不貪なり、一銭一草をも布施すべし、此世他世の善根を兆す、法も財なるべし、財も法なるべし、唯彼が報謝を貧ぼらず、自が力を分つなり、舟を置き橋を渡すも布施の檀度なり、治生産業もとより布施に非ざること無し、自が所作なりといへども静かに随喜すべきなり、諸仏の一つの功徳を已に単伝し作れるが故に菩薩の一法を始て修行するが故に。(第二十五節)愛語といふは衆生を見るに先づ慈愛の心を発し顧愛の言語を施すなり、慈念衆生猶如赤子の念を貯へて言語するは愛語なり、怨敵を降伏し君子を和睦ならしむること愛語を根本とするなり、向ひて愛語を聞くは面を喜ばしめ、心を楽くす、向はずして愛語を聞くは肝に銘じ魂に銘ず、愛語よく回天の力あることを学すべきなり。(第二十六節)利行といふは貴賎の衆生におきて利益の善巧を廻らすなり、譬へば窮亀を愍み見病雀を養ふ、窮亀を見、病雀を見しとき、彼れが報謝を求めず、唯偏へに利行に催ほさるるなり、(第二十七節)同事といふは不違なり、自にも不違なり、他にも不違なり、海の水を辞せざるは同事なり、是故に能く水聚りて海と成る、明主は人を厭はざるが故に其衆を成す、人を厭はずと雖も賞罰なきには非ず、賞罰ありと雖も人を厭ふこと無し、唯応に柔なる容顔を以て一切に向ふべし。
(第二十八節)無上菩提を演説する師に値はんには、種姓を観ずること勿れ、容顔を視ること勿れ、非を嫌ふこと勿れ、行を軽んずること勿れ、唯般若を尊重するが故に。(第二十九節)況や今の見仏聞法は仏々面々の行持より来れる慈恩なり、仏祖若し単伝せずば如何してか今日に到らん、一句の恩なほ報謝すべし、一法の恩なほ報謝すべし、况や如来の正法を見聞する大恩誰れの人面か忘るるときあらん、世人の情ある金銀珍玩の蒙恵なほ報謝す、好語好声のよしみ心あるは皆報謝の情を励む病雀なほ恩を忘れず、三府の環よく報謝あり、窮亀なほ恩を忘れず余不の印よく報謝あり、人類いかでか恩を知らざらん。(第三十節)其報謝は余外の法は当るべからず、唯応に日々の行持其報謝の正道なるべし、謂ゆるの道理は日々の生命を等閑にせず、私に費さざらんと行持するなり。(第三十一節)百丈禅師已に年老臘高なり、尚ほ普請作務の処に、壮齢と同く励力す、衆これを傷む人これを憐れむ、師やまざるなり、遂に作務のとき、作務の具を隠して、師に与へざりしかば、師其日一日不食なり、衆の作務に加はらざることを憾むる意旨なり、之を百丈の一日不作一日不食の蹤といふ。(第三十二節)百千万劫の同生同死の中に行持ある一日は髻中の明珠なり、喜ぶべき一日なり、徒らに百歳生けらんは憾むべき日月なり哀むべき形骸なり、設ひ百歳の日月は声色の奴婢と馳走するとも、其中の一日の行持を行取せば一生の百歳を行取するのみに非ず、百歳の他生をも度取すべきなり、此一日の身命は尊ぶべき身命なり、尊ぶべき形骸なり、草露の命を徒らに零落せしめず、如山の徳を懇ろに報すべし、是れ則ち行持なり、恁麼の道理必然なり、一切の伝道受業是の如し、修因得果是の如し。
洞上在家修証義 終
かつて存在した曹洞宗の結社、曹洞扶宗会の大内青巒居士によって書かれた『修証義』のこと、青巒居士は「著作者兼発行者」であり、実際の発行は鴻盟社。明治21年(1888)2月22日に刊行された。青巒居士の編集意図を見ると、「宗旨の標準」を定め、その上で在家信者に対して布教教化、そして仏教徒としての教育を行おうとしたようである。序にて、「在家男女の弁道となす」とされているのは、まさにこれが在家信者にとっての規範となるべき教典だったといえる。
【その後『曹洞教会修証義』への改訂】
【『洞上在家修証義』全文】
文章を掲載するに辺り、岡田宜法先生『修証義編纂史』(曹洞宗宗務庁)に掲載されたる原文があるが、これは畦上楳仙禅師の改訂草稿本であり、漢字を仮名にはしているものの、却って見辛い。よって、それを本来の原文に戻しつつ、明治21年に刊行された原本も参照しながら節なども再現するが、もともと章はなく、意味の区分けは段落のみであるため、そのまま掲載する。漢字は現行通常に用いるものに改め、句読点・濁点等を適宜補う。
洞上在家修証義 并序
高祖大師曰く、夫れ修証は一つに非ずと思へる、即ち外道の見なり。仏道には、修証これ一等なり。今も証上の修なるが故に、初心の弁道即ち本証の全体なり。故に、修行の用心を授るにも、修の外に証を待つ思ひ無れと教ふ。直指の本証なるが故なりと。今夫れ懺悔は宿業を浄除し、受戒は覚位に同入す、直指の本証現前せざらんや。発願して衆生を利益し、日々の行持報恩に回向す、通身の妙修現前せざらんや。此修の外に証を求めず以て在家男女の弁道となす。謹で之を正法眼蔵に質し、恭く祖語を集めて一篇と成し、名て洞上在家修証義と曰ふ。悉く典実あり、苟くも一辞を私せず。仏祖照鑑龍天加護。
懺悔滅罪 受戒入位
発願利生 行持報恩
(第一節)生を明らめ死を明らむるは仏家の一大事因縁なり。(第二節)大凡、因果の道理、歴然として私なし。造悪の者は堕し、修善の者は昇る、毫釐も差はざるなり、若し因果亡じ虚しからんが如きは、諸仏の出世あるべからず、祖師の西来あるべからず。(第三節)人身得ること難し仏法値ふこと稀なり、今我等宿善の助くるに依て已に受け難き人身を受たるのみに非ず、値ひ難き仏法に値ひ奉れり、最勝の善身を無常の風に任すること勿れ。(第四節)つらつら観ずる所、往事の再び逢ふべからざる多し、紅顔いづくへか去りにし、尋ねんとするに蹤跡なし、露命いかなる路の草にか落ちん、塚間の一堆の塵土、あながちに惜むこと勿れ、あながちに顧ること勿れ、無常忽ちに到るときは国王大臣親昵従僕妻子珍宝たすくる無し、唯独り黄泉に赴くのみならず、己に随ひ行くは唯是れ善悪業等のみなり。(第五節)人身は四大五蘊因縁和合して仮りに成せり、八苦、つねに有り、況や刹那刹那に生滅して更に留まらず、此刹那生滅の道理に依て、衆生乃ち善悪の業を造る、又刹那生滅の道理に依て、衆生発心得道す、此の如く生滅する人身惜むとも留まらず、昔より惜みて留まれる一人未だ無し。(第六節)善悪の報に三時あり、一には順現報受、二には順次生受、三には順後次受これを三時と云ふ、仏祖の道を修習するには、其最初より此三時の業報の理を習ひ明らむるなり、然あらざれば多く誤りて邪見に堕するなり、唯邪見に堕するのみに非ず、悪道に落ちて長時の苦を受く、冥より冥に入る憐れむべし。(第七節)今生遂に如来の真訣を聞かず、如来の正法を見ず、如来の面授に照されず、如来の仏心を使用せず、如来の家風を聞ざる、悲むべき一生ならん、今生の我身二つ無し三つ無し、徒らに邪見に落ちて虚く悪業を感得せん惜からざらめや、悪を造りながら悪に非ずと思ひ、悪の報あるべからずと邪思惟するに依て悪の報を感得せざるには非ず。
(第八節)仏祖あはれみの余り広大の慈門を開きおけり、一切衆生を証入せしめんが為めなり、人天誰れか入らざらん、彼の三時の悪業報必ず感ずべしと雖も、懺悔するが如きは滅罪清浄ならしむるなり。(第九節)大凡仏法に証入すること、必ずしも人天の世智を以て出世の舟航とするには非ず、我心に善悪を分けて善と思ひ悪と思ふことを棄てて我身よからん、我心なにとあらんと思ふ心を忘れて善くもあれ悪くもあれ仏祖の言語行履に随ひ行くなり、仏在世にも手鞠に依て四果を証し袈裟を掛けて大道を明らめし倶に愚暗のやから痴狂の畜類あり、唯正信の助くるところ惑を離るる道あり、痴老の比丘の黙坐せしを見て設斎の信女さとりを開きし、智に依らず文に依らず言を待たず語を待たず、唯是れ正信に助けられたり。(第十節)仰いで仏祖の証明を憑み、誠心を専らして前仏に懺悔すべし、恁麼するとき前仏に懺悔の功徳力我を救ひて清浄ならしむ、此功徳よく無礙の浄信精進を生長せしむるなり、浄信一現するとき、自他同く転ぜらるるなり、其利益普ねく情非情に蒙らしむ、其大旨は、我昔所造諸悪業、皆由無始貪瞋痴、従身口意之所生、一切我今皆懺悔、是の如く懺悔すれば必ず仏祖の冥助あるなり、心念身儀発露白仏すべし、発露の力罪根をして銷殞せしむるなり。
(第十一節)既に仏祖の証明に依て身口意業を浄除して大清浄なることを得たり、是れ則ち懺悔の力なり、是の如く我に非ざる人身なりと雖も廻らして受戒するが如きは三世の諸仏の所証なる阿耨多羅三藐三菩提金剛不壊の仏果を証するなり、誰の智人か欣求せざらん。(第十二節)故に先づ仏法僧に帰依し奉るべし、仏弟子となること必ず三帰に依る、孰れの戒を受るも必ず三帰を受て其後に諸戒を受るなり、然あれば則ち三帰に依て得戒するなり。(第十三節)此帰依仏法僧の功徳必ず感応同交するとき成就するなり、天上人間地獄鬼畜なりと云ふとも感応同交すれば必ず帰依し奉るなり、已に帰依し奉るときは、生々世々在々処々に増長し必ず阿耨多羅三藐三菩提を成就するなり、知るべし三帰の功徳其れ甚深無量なりと云ふこと。(第十四節)一仏の名号を称念せんよりは、速に三帰を受け奉るべし、生をかへ身をかへても三宝を供養し敬ひ奉らんことを願ふべし、寐ても覚めても三宝の功徳を思ひ奉るべし、寐ても覚めても南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧と称へ奉るべし、是れ諸仏菩薩の行はせたまふ道なり、之を深く法を悟るとも云ふ、仏道の身に具はるとも云ふなり、更に異念を雑へざらんと願ふべし。(第十五節)徒らに所迫を畏れて山神鬼神等に帰依し或は外道の制多に帰依すること勿れ、彼れは其帰依に因て衆苦を解脱すること無し。(第十六節)次に三聚戒あり、摂律儀戒、摂善法戒、摂衆生戒なり、次に十重禁戒あり、第一不殺生戒、第二不偸盗戒、第三不邪婬戒、第四不妄語戒、第五不酤酒戒、第六不説過戒、第七不讃毀自他戒、第八不慳法財戒、第九不瞋恚戒、第十不謗三宝戒なり、此十六條の仏戒は諸仏の護持したまふ所なり、仏々相授あり、祖々相伝あり、法に依り教に随ひ或は礼受し或は拝受せよ。(第十七節)衆生受仏戒、即入諸仏位、位同大覚了、真是諸仏子〈衆生仏戒を受くれば即ち諸仏の位に入る、位大覚に同うし了る、真に是れ諸仏の子〉なり、諸悪莫作と願ひ、諸悪莫作と行ひもてゆく、諸悪つくられず成りゆく所に修行力忽ちに現成す、此現成は、尽地・尽界・尽時・尽法を量として現成するなり。(第十八節)是時十方法界の土地草木牆壁瓦礫、皆仏事を作すを以て、其の起す所の風水の利益に預る輩、皆甚妙不可思議の仏化に冥資せられて、近き悟を顕はす、此水火を受用する類、皆本証の仏化を周旋するが故に、是等の類と共住して同語する者、亦悉く相互ひに無窮の仏徳そなはり、展転広作して、無尽無間断不可思議不可称量の仏法を、遍法界の内外に流通する者なり。
(第十九節)我等幸ひに一分の妙修を単伝せる、即ち一分の本証を無為の地に得るなり、従来の光陰は設ひ虚く過すとも、今生の命未だ過ぎざる間に急ぎて発願すべし、自未だ度らざる先に一切衆生を度さんと発願し営むなり、設ひ在家にもあれ、出家にもあれ、或は天上にもあれ、人間にもあれ、苦に在りといふとも、楽に在りといふとも、早く自未得度先度他の心を発すべし。(第二十節)其形卑しといふとも此心を発せば已に一切衆生の導師なり、設ひ七歳の女流なりとも即ち四衆の導師なり、衆生の慈父なり、男女を論ずること勿れ、仏道極妙の法則なり。(第二十一節)若し菩提心を発して後に六趣四生に輪転すといふとも其輪転の因縁皆菩提の行願となる、生死を心に任す生死を身に任す生死を道に任す生死を生死に任す、刹那生滅流転捷疾にありながらも久遠の寿量忽ちに現在前するなり。(第二十二節)何れの処か仏国土にあらざらん、此発菩提心多くは南閻浮の人身に発心すべきなり、願生此娑婆国土し来れり見釈迦牟尼仏を歓ばざらんや。(第二十三節)初発心に成仏す、妙覚地に成仏す、或は無量劫行ひて衆生を先に度して自らは遂に仏に成らず、唯衆生を度して衆生を利益するも有り、設ひ仏に成るべき功徳熟して円満すべしといふとも尚ほ廻らして衆生の成仏得道に廻向するなり。(第二十四節)衆生を利益すといふは、布施・愛語・利行・同事は薩曙狽フ行願なり、布施といふは不貪なり、一銭一草をも布施すべし、此世他世の善根を兆す、法も財なるべし、財も法なるべし、唯彼が報謝を貧ぼらず、自が力を分つなり、舟を置き橋を渡すも布施の檀度なり、治生産業もとより布施に非ざること無し、自が所作なりといへども静かに随喜すべきなり、諸仏の一つの功徳を已に単伝し作れるが故に菩薩の一法を始て修行するが故に。(第二十五節)愛語といふは衆生を見るに先づ慈愛の心を発し顧愛の言語を施すなり、慈念衆生猶如赤子の念を貯へて言語するは愛語なり、怨敵を降伏し君子を和睦ならしむること愛語を根本とするなり、向ひて愛語を聞くは面を喜ばしめ、心を楽くす、向はずして愛語を聞くは肝に銘じ魂に銘ず、愛語よく回天の力あることを学すべきなり。(第二十六節)利行といふは貴賎の衆生におきて利益の善巧を廻らすなり、譬へば窮亀を愍み見病雀を養ふ、窮亀を見、病雀を見しとき、彼れが報謝を求めず、唯偏へに利行に催ほさるるなり、(第二十七節)同事といふは不違なり、自にも不違なり、他にも不違なり、海の水を辞せざるは同事なり、是故に能く水聚りて海と成る、明主は人を厭はざるが故に其衆を成す、人を厭はずと雖も賞罰なきには非ず、賞罰ありと雖も人を厭ふこと無し、唯応に柔なる容顔を以て一切に向ふべし。
(第二十八節)無上菩提を演説する師に値はんには、種姓を観ずること勿れ、容顔を視ること勿れ、非を嫌ふこと勿れ、行を軽んずること勿れ、唯般若を尊重するが故に。(第二十九節)況や今の見仏聞法は仏々面々の行持より来れる慈恩なり、仏祖若し単伝せずば如何してか今日に到らん、一句の恩なほ報謝すべし、一法の恩なほ報謝すべし、况や如来の正法を見聞する大恩誰れの人面か忘るるときあらん、世人の情ある金銀珍玩の蒙恵なほ報謝す、好語好声のよしみ心あるは皆報謝の情を励む病雀なほ恩を忘れず、三府の環よく報謝あり、窮亀なほ恩を忘れず余不の印よく報謝あり、人類いかでか恩を知らざらん。(第三十節)其報謝は余外の法は当るべからず、唯応に日々の行持其報謝の正道なるべし、謂ゆるの道理は日々の生命を等閑にせず、私に費さざらんと行持するなり。(第三十一節)百丈禅師已に年老臘高なり、尚ほ普請作務の処に、壮齢と同く励力す、衆これを傷む人これを憐れむ、師やまざるなり、遂に作務のとき、作務の具を隠して、師に与へざりしかば、師其日一日不食なり、衆の作務に加はらざることを憾むる意旨なり、之を百丈の一日不作一日不食の蹤といふ。(第三十二節)百千万劫の同生同死の中に行持ある一日は髻中の明珠なり、喜ぶべき一日なり、徒らに百歳生けらんは憾むべき日月なり哀むべき形骸なり、設ひ百歳の日月は声色の奴婢と馳走するとも、其中の一日の行持を行取せば一生の百歳を行取するのみに非ず、百歳の他生をも度取すべきなり、此一日の身命は尊ぶべき身命なり、尊ぶべき形骸なり、草露の命を徒らに零落せしめず、如山の徳を懇ろに報すべし、是れ則ち行持なり、恁麼の道理必然なり、一切の伝道受業是の如し、修因得果是の如し。
洞上在家修証義 終
タグ
コメントをかく