日本曹洞宗に関するwikiです。人名・書名・寺院名・思想・行持等々を簡潔に示しています。日本曹洞宗に関する情報をお求めの方は、まず当wikiからどうぞ。

【定義】

「道い得る」と訓ずる。
仏法道理を説き尽くすこと。
云く「一段の事を問うに、還た得きや」。師曰く「道い得るも却って道わず」。 『真字正法眼蔵』上84則

道元禅師の『正法眼蔵』の巻の一。仁治3年(1242)10月5日に、興聖寺にて示衆された。95巻本では39巻、75巻本・60巻本では33巻に編集される。

【内容】

道得という言葉は普通、口業説法の意で解されることが多いわけだが、しかし、道元禅師は「真理を表詮し得る」という意味で用い、口業のみに限定されず、身業説法に於いてもそれが可能であると示す。
不言は不道にはあらず、道得は言得にあらざるがゆえに。 『正法眼蔵』「海印三昧」巻

「道得」巻本文では、まず始めに「諸仏諸祖は道得なり」として、真理を表詮し得た存在としての仏祖が定義づけられる。そして、「趙州不離叢林?」話を用いて、議論を展開する。趙州は、一生叢林を離れず、ただ兀坐して余計なことをいわない存在は、諸仏も及ばないとしているのである。道元禅師はよって、以下のように提唱される。
しかあれば、十年五載の在叢林、しばしば霜華経歴するに、一生不離叢林功夫弁道をおもふに、坐断せし兀坐は、いくばくの道得なり。 「道得」巻

そして、兀坐こそが道得であるとし、言葉による説法が無いことを論う無意味さをも指摘するのである。
ただ兀坐を弁肯すべし、不道をいふことなかれ。不道は道得の頭正尾正なり。

この時の「不道」とは、「道わず」という口業説法の否定であると同時に、しかし、これが「道得の全体だ」としているために、徹底道得の究尽は、最早「道」ともいえず、「不道」に及ぶのである。
しかあればすなはち、仏祖の道得底は、一生不離叢林なり。

一生不離叢林という言葉は、道得されるところにあるのであって、修行底の仏祖そのものをいうのである。そして、同巻の後半は、雪峰義存禅師の下で修行していた一庵主との問答を載せて、そこでは「道得」なる振る舞いについての検討がなされている。

頭を剃っていなかった庵主に対し、雪峰は道得すれば「汝の頭を剃らず」といった。しかし、庵主は迷わず自分の頭を洗って雪峰の前に来た。これは、普通なら「道い得ず」ために頭を洗って、「反省した」とでも解されるところである。しかし、道元禅師は、この庵主の振る舞いは、「道得に助発せらるる」ためであるとし、雪峰も迷わず剃ったのだが、この両者は「唯仏与仏」であるとまで讃歎するのである。
しかあればすなはち、道得の良友は、期せざるにとぶらふみちあり。道不得のとも、またざれども知己?のところありき。知己の参学あれば、道得の現成あるなり。

同巻の末尾は以上のようになっているけれども、ともに道得する優れた友は、期せずとも必ず訪れ、その知己とともなる参学によって、道得は益々能く現成するといえるのである。これもまた、一生不離叢林の道得底といえよう。

コメントをかく


「http://」を含む投稿は禁止されています。

利用規約をご確認のうえご記入下さい

角川書店『ねこ禅』



かわいい猫の写真とやさしく解説された禅語のコラボ本。【『ねこ禅』角川書店】からどうぞ。

管理人/副管理人のみ編集できます