【定義】
中国曹洞宗の開祖である洞山良价禅師から数えて第13代目の祖師。中国天童山にて住持(第31代目)をしていたときに、会下に道元禅師があり、正法眼蔵を付授した。浄長や長翁とも称せられた。
生没年:紹興32年(1162)〜宝慶3年(1227)(一説に1163〜1228)
出身地:中国浙江省(越州)
俗 姓:不明
【内容】
中国南宋の紹興32年7月7日に、浙江省(越州)で如浄禅師は生まれたと伝える。出家受具の年時は不明とのことであるが、19歳の時にそれまでの教学?の学びを捨てて、禅宗に転じた。
長じて、雪竇山の足庵智鑑に参じ、1年余り修行したが、坐禅修行の熱心さはまさに抜群の様子であったという。なお、中国の史伝では、ここで「栢樹子」の話でもって如浄禅師が大悟した旨伝えるけれども、瑩山禅師提唱『伝光録』第50章では、浄頭を務めるに当たって、「不染汚」の話に於いて大悟したという。
また、20年の修行を経て、1210年(嘉定3)に、建康の清涼寺に入ると、更に台州瑞巌寺、南山浄慈寺、明州瑞巌寺、浄慈寺への再住など、各地の住持を務めた。特に、浄慈寺への住持になる因縁だが、大悟した後、しばらく浄慈寺に於いて、熱心に浄頭を務めていた時のこと、羅漢堂の前を過ぎた時に異僧がいて、如浄禅師に「浄慈浄頭浄兄主、報道報師報衆人」と言ったかと思うと、消え去ってしまった。このことを、当時の南宋の朝廷で聞き、大臣や丞相が占ったところ、如浄禅師を浄慈寺の住持に就けるべきだと結果が出たので、勅を下したという。また、嘉定17年(1224)には、天童山景徳寺の住持となった。前住である無際了派の遺書があったともいう。
なお、如浄禅師は19歳で発心してから、各地の叢林に入るや郷里に帰ることもなく、同郷だからといって徒党を組むこともなく熱心に修行された。また、中国の史伝には、その人柄や宗風はほとんど伝わらないけれども、日本曹洞宗の文献には、坐禅修行を愛されたこと、名利を徹底的に嫌ったことなどが伝わっている。
天童山の住持をしていたとき、会下に日本からの僧、道元禅師がいた。如浄禅師は、特に道元禅師に対して、日常的に参問する許可を出し、その時の問答は『宝慶記』にまとめられた。それを見ると、元々の教学は天台宗での学びだったかと思えるほどに、天台教学への造詣の深さを伺わせる。また、常日頃「只管打坐」と「身心脱落話」を提唱していたといい、道元禅師はその語でもって大悟した。
また、具体的な指導の様子が以下のように伝わる。
65歳という晩年になっても、坐禅修行をゆるめることがなかった如浄禅師だが、いよいよ終焉の時が迫ってきた。宝慶3年(1227)に天童山を辞すると、庵(南谷庵)を立てて隠棲し、同年7月17日に遷化した。遺偈は以下のように伝わる。
【語録・研究論文】
・『如浄禅師語録?』(2巻)
・『如浄禅師続語録?』(1巻)
・面山瑞方撰『如浄禅師行録?』(1巻)
・同上『如浄禅師行録聞解?』(1巻)
・同上『如浄禅師語録事略?』(1巻)
・鏡島元隆著『天童如浄禅師の研究』春秋社・1983年
⇒1228年示寂説を総合した論文。
・佐藤秀孝「如浄禅師示寂の周辺」、『印度学仏教学研究』34-1、1985年
⇒1227年示寂説を導いた論文。
中国曹洞宗の開祖である洞山良价禅師から数えて第13代目の祖師。中国天童山にて住持(第31代目)をしていたときに、会下に道元禅師があり、正法眼蔵を付授した。浄長や長翁とも称せられた。
生没年:紹興32年(1162)〜宝慶3年(1227)(一説に1163〜1228)
出身地:中国浙江省(越州)
俗 姓:不明
【内容】
中国南宋の紹興32年7月7日に、浙江省(越州)で如浄禅師は生まれたと伝える。出家受具の年時は不明とのことであるが、19歳の時にそれまでの教学?の学びを捨てて、禅宗に転じた。
先師天童和尚は、越上人事なり。十九歳にして、教学をすてて参学するに、七旬におよむでなほ不退なり。 『正法眼蔵』「行持(下)」巻
長じて、雪竇山の足庵智鑑に参じ、1年余り修行したが、坐禅修行の熱心さはまさに抜群の様子であったという。なお、中国の史伝では、ここで「栢樹子」の話でもって如浄禅師が大悟した旨伝えるけれども、瑩山禅師提唱『伝光録』第50章では、浄頭を務めるに当たって、「不染汚」の話に於いて大悟したという。
竇問ふて曰く、浄子、曾て染汚せざる処、如何が浄得せん。師一歳余を経、忽然豁悟して曰く、不染汚の処を打すと。 『伝光録』第50章
また、20年の修行を経て、1210年(嘉定3)に、建康の清涼寺に入ると、更に台州瑞巌寺、南山浄慈寺、明州瑞巌寺、浄慈寺への再住など、各地の住持を務めた。特に、浄慈寺への住持になる因縁だが、大悟した後、しばらく浄慈寺に於いて、熱心に浄頭を務めていた時のこと、羅漢堂の前を過ぎた時に異僧がいて、如浄禅師に「浄慈浄頭浄兄主、報道報師報衆人」と言ったかと思うと、消え去ってしまった。このことを、当時の南宋の朝廷で聞き、大臣や丞相が占ったところ、如浄禅師を浄慈寺の住持に就けるべきだと結果が出たので、勅を下したという。また、嘉定17年(1224)には、天童山景徳寺の住持となった。前住である無際了派の遺書があったともいう。
なお、如浄禅師は19歳で発心してから、各地の叢林に入るや郷里に帰ることもなく、同郷だからといって徒党を組むこともなく熱心に修行された。また、中国の史伝には、その人柄や宗風はほとんど伝わらないけれども、日本曹洞宗の文献には、坐禅修行を愛されたこと、名利を徹底的に嫌ったことなどが伝わっている。
帝者に親近せず、帝者にみえず、丞相と親厚ならず、官員と親厚ならず。紫衣・師号を表辞するのみにあらず、一生、まだらなる袈裟を搭せず、よのつねに上堂・入室、みなくろき袈裟・綴子をもちいる。 「行持(下)」巻
天童山の住持をしていたとき、会下に日本からの僧、道元禅師がいた。如浄禅師は、特に道元禅師に対して、日常的に参問する許可を出し、その時の問答は『宝慶記』にまとめられた。それを見ると、元々の教学は天台宗での学びだったかと思えるほどに、天台教学への造詣の深さを伺わせる。また、常日頃「只管打坐」と「身心脱落話」を提唱していたといい、道元禅師はその語でもって大悟した。
実に有道の会には、有道の人多く道心の人多し。尋常只人をして打坐を勧む。常に云ふ、焼香・礼拝・念仏・修懺・看経を用ゐず、祗管に打坐せよと示して、只打坐せしめしのみなり。 『伝光録』第50章
また、具体的な指導の様子が以下のように伝わる。
先師天童浄和尚住持の時、僧堂にて衆僧坐禅の時、眠リを警むるに履を以て是を打謗言呵嘖せしかども、僧皆打る事を喜び、讃嘆しき。 『正法眼蔵随聞記』巻2-5
65歳という晩年になっても、坐禅修行をゆるめることがなかった如浄禅師だが、いよいよ終焉の時が迫ってきた。宝慶3年(1227)に天童山を辞すると、庵(南谷庵)を立てて隠棲し、同年7月17日に遷化した。遺偈は以下のように伝わる。
六十六年、罪過弥天、箇の𨁝跳を打して、活きながらに黄泉に陥つ、咦、従来生死相干せず。
【語録・研究論文】
・『如浄禅師語録?』(2巻)
・『如浄禅師続語録?』(1巻)
・面山瑞方撰『如浄禅師行録?』(1巻)
・同上『如浄禅師行録聞解?』(1巻)
・同上『如浄禅師語録事略?』(1巻)
・鏡島元隆著『天童如浄禅師の研究』春秋社・1983年
⇒1228年示寂説を総合した論文。
・佐藤秀孝「如浄禅師示寂の周辺」、『印度学仏教学研究』34-1、1985年
⇒1227年示寂説を導いた論文。
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