【定義】
鈴木正三が記した、キリスト教に対する論駁書。寛文2年(1662)に刊行された。
【内容】
正三には鈴木三郎九郎重成という弟がいて、天草で官吏を務めていたが、天草の乱に見るようにキリスト教化された同地にあって、正三は弟に仏教寺院を建てることを勧め、自らは同書を記して布教教化の基準とした。
内容としては、キリスト教の天地創造説を始めとして、三位一体説など多くの思想についてそれぞれ論駁している。
一、でうすについて。
一、三世諸仏出世の本意。
一、日本は神国。
一、日本では日月を祀る。
一、きりしたんの奇蹟崇拝について。
一、畜類と人間との霊を分けることについて。
一、世尊四十九年一字も説かず。
一、仏は大医王である。
一、ばてれんの悪行について。
当Wiki管理人が勝手に章の名前を付けたが、以上9項目についてキリスト教を論駁している。
【執筆経緯】
鈴木正三の弟である鈴木重成は、1637年に起こった島原の乱を平定するために従軍したが、遁世した兄に代わって鈴木家の家督を継ぎ、乱の平定後に幕府の直轄地となった天草の初代代官に任ぜられている。
そして、正三を招いて天草の政治経営を尋ねたところ、正三は、寺を建立したり神社を復興し、キリスト教の影響を取り除くように勧めた。そして、重成は各寺院(一ヵ寺だけ浄土宗、他は曹洞宗)に『破吉利支丹』を置かせてキリスト教の反駁に努めた。
その後、重成は天草の人々のために最善の政治をおこなったようで、現在でも伝説として語り継がれているのは、天草の検地により出された石高が現実に合っておらず、年貢が重すぎるとして半減することを幕府に強く働きかけた。しかし、認められなかったため重成は切腹して果てたという(或いは病死との見解もあるが、抗議しての切腹を隠蔽するために病死説が公式見解になった可能性もある)。
なお、重成を嗣いだ重辰は正三の実子だったが、重成の養子となった。そして、重成の遺志をつぎ、経営に尽力したのだが、重成の自刃後7年目にして年貢が四万二千石から二万一千石に半減されたという。このことを感謝した天草の人々は、重成・正三・重辰を祭神とする鈴木神社を造営して彼らの顕彰に努めている。
鈴木正三が記した、キリスト教に対する論駁書。寛文2年(1662)に刊行された。
【内容】
正三には鈴木三郎九郎重成という弟がいて、天草で官吏を務めていたが、天草の乱に見るようにキリスト教化された同地にあって、正三は弟に仏教寺院を建てることを勧め、自らは同書を記して布教教化の基準とした。
内容としては、キリスト教の天地創造説を始めとして、三位一体説など多くの思想についてそれぞれ論駁している。
一、でうすについて。
一、三世諸仏出世の本意。
一、日本は神国。
一、日本では日月を祀る。
一、きりしたんの奇蹟崇拝について。
一、畜類と人間との霊を分けることについて。
一、世尊四十九年一字も説かず。
一、仏は大医王である。
一、ばてれんの悪行について。
当Wiki管理人が勝手に章の名前を付けたが、以上9項目についてキリスト教を論駁している。
【執筆経緯】
鈴木正三の弟である鈴木重成は、1637年に起こった島原の乱を平定するために従軍したが、遁世した兄に代わって鈴木家の家督を継ぎ、乱の平定後に幕府の直轄地となった天草の初代代官に任ぜられている。
そして、正三を招いて天草の政治経営を尋ねたところ、正三は、寺を建立したり神社を復興し、キリスト教の影響を取り除くように勧めた。そして、重成は各寺院(一ヵ寺だけ浄土宗、他は曹洞宗)に『破吉利支丹』を置かせてキリスト教の反駁に努めた。
その後、重成は天草の人々のために最善の政治をおこなったようで、現在でも伝説として語り継がれているのは、天草の検地により出された石高が現実に合っておらず、年貢が重すぎるとして半減することを幕府に強く働きかけた。しかし、認められなかったため重成は切腹して果てたという(或いは病死との見解もあるが、抗議しての切腹を隠蔽するために病死説が公式見解になった可能性もある)。
なお、重成を嗣いだ重辰は正三の実子だったが、重成の養子となった。そして、重成の遺志をつぎ、経営に尽力したのだが、重成の自刃後7年目にして年貢が四万二千石から二万一千石に半減されたという。このことを感謝した天草の人々は、重成・正三・重辰を祭神とする鈴木神社を造営して彼らの顕彰に努めている。
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