【定義】
江戸時代日本曹洞宗が輩出した学僧。号は梅峰、または竺信。宗統復古運動で、卍山道白と共に主導的立場に立っていたことで知られている。
生没年:寛永10年(1633)〜宝永4年(1707)
出身地:難波(現在の大阪府)
俗 姓:舟橋氏
【略歴】
幼年にして、播磨の安養寺の長屋養の下で出家した梅峰は、それ以降、内外の典籍を参究し、非常に熱心であったという。長じて、宇治興聖寺の万安英種の道誉を聞いて、これに参じ、また関東にあっては、多くの学林を訪ねて参学したという。
再び興聖寺に帰ると、万安の弟子である龍播松雲を礼して心要を得て、その衣鉢を嗣いだ。播磨の護生寺に於いて首座を努めた。
寛文8年(1668)には、但馬の養源寺に住し、さらに延宝4年(1676)には、大檀那の永井氏の願いによって、興聖寺に晋住している。在住9年にして辞し、その後は、墨江の臨南寺?に退院して、自適の生活を送ろうとしたが、その年の秋に、水戸光圀の願いを聞いて、耕山に館し、3年を経て帰寺した。
元禄4年(1691)には、卍山道白と邂逅し、その革弊の志に共鳴して、宗統復古運動に邁進した。元禄13年には満を持して江戸に上り、同年7月16日以降は、関三刹に対して宗統復古を訴え、翌月には寺社奉行に直訴した。その結果、元禄16年に宗門の革弊は成り、現在のような「一師印証・面授嗣法」という伝法の大原則が確立されたのである。
梅峰は、元禄13年に『洞門劇譚』を著し、宗門の嗣承の本義を明らかにし、さらに、大和の興禅寺では、宝永2年(1705)に『林丘客話』2巻を撰述し、翌年刊行している。そして、宝永4年、臨南寺に於いて梅峰は遷化した。世寿75歳である。
【著作】
上記以外としては以下の通り。
・『夢窩梅峰禅師語録』全5巻
・『夢窩梅峰禅師贅録』全5巻
・『永平録雋原』全1巻(『永平略録』の註釈書)
江戸時代日本曹洞宗が輩出した学僧。号は梅峰、または竺信。宗統復古運動で、卍山道白と共に主導的立場に立っていたことで知られている。
生没年:寛永10年(1633)〜宝永4年(1707)
出身地:難波(現在の大阪府)
俗 姓:舟橋氏
【略歴】
幼年にして、播磨の安養寺の長屋養の下で出家した梅峰は、それ以降、内外の典籍を参究し、非常に熱心であったという。長じて、宇治興聖寺の万安英種の道誉を聞いて、これに参じ、また関東にあっては、多くの学林を訪ねて参学したという。
再び興聖寺に帰ると、万安の弟子である龍播松雲を礼して心要を得て、その衣鉢を嗣いだ。播磨の護生寺に於いて首座を努めた。
寛文8年(1668)には、但馬の養源寺に住し、さらに延宝4年(1676)には、大檀那の永井氏の願いによって、興聖寺に晋住している。在住9年にして辞し、その後は、墨江の臨南寺?に退院して、自適の生活を送ろうとしたが、その年の秋に、水戸光圀の願いを聞いて、耕山に館し、3年を経て帰寺した。
元禄4年(1691)には、卍山道白と邂逅し、その革弊の志に共鳴して、宗統復古運動に邁進した。元禄13年には満を持して江戸に上り、同年7月16日以降は、関三刹に対して宗統復古を訴え、翌月には寺社奉行に直訴した。その結果、元禄16年に宗門の革弊は成り、現在のような「一師印証・面授嗣法」という伝法の大原則が確立されたのである。
梅峰は、元禄13年に『洞門劇譚』を著し、宗門の嗣承の本義を明らかにし、さらに、大和の興禅寺では、宝永2年(1705)に『林丘客話』2巻を撰述し、翌年刊行している。そして、宝永4年、臨南寺に於いて梅峰は遷化した。世寿75歳である。
【著作】
上記以外としては以下の通り。
・『夢窩梅峰禅師語録』全5巻
・『夢窩梅峰禅師贅録』全5巻
・『永平録雋原』全1巻(『永平略録』の註釈書)
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