【定義】
訓ずれば、「因果を昧まさず」ということ。因果歴然の道理に依拠して、因果を撥無しないことを意味する。中国禅宗の「百丈野狐話」にて採り上げられる。道元禅師は『正法眼蔵』「大修行」巻では「またいはく、不昧因果は因果にくらからずといふは、大修行は超脱の因果なるがゆえに脱野狐身す、といふ。まことにこれ八九成の参学眼なり」として、不落因果との扱いの違いを示し、「深信因果」巻では「不落因果は、まさしくこれ撥無因果なり、これによりて悪趣に堕す。不昧因果は、明らかにこれ深信因果なり、これによりて、きくもの悪趣を脱す」として、完全に肯定している。道元禅師は『正法眼蔵随聞記』の段階で因果歴然の道理を示されるが、その展開として「大修行」巻では大修行底の人が因果を歴然としている様子を肯定しつつ、更に「深信因果」巻で因果歴然の立場から「不落因果」を批判し、「不昧因果」を肯定したと考えられる。
訓ずれば、「因果を昧まさず」ということ。因果歴然の道理に依拠して、因果を撥無しないことを意味する。中国禅宗の「百丈野狐話」にて採り上げられる。道元禅師は『正法眼蔵』「大修行」巻では「またいはく、不昧因果は因果にくらからずといふは、大修行は超脱の因果なるがゆえに脱野狐身す、といふ。まことにこれ八九成の参学眼なり」として、不落因果との扱いの違いを示し、「深信因果」巻では「不落因果は、まさしくこれ撥無因果なり、これによりて悪趣に堕す。不昧因果は、明らかにこれ深信因果なり、これによりて、きくもの悪趣を脱す」として、完全に肯定している。道元禅師は『正法眼蔵随聞記』の段階で因果歴然の道理を示されるが、その展開として「大修行」巻では大修行底の人が因果を歴然としている様子を肯定しつつ、更に「深信因果」巻で因果歴然の立場から「不落因果」を批判し、「不昧因果」を肯定したと考えられる。
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