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【定義】

火または神に近住することを原意とする語。バラモン教で行われていた新月祭と満月祭の前日に行われた儀式を、仏教に取り入れたものとされる。発展段階に応じて、内容や表現に相違がある。基本的には、仏教教団の定期集会で、半月ごとに、同一地域の僧が信奉する教えの相違を超えて集まり、自己反省し、罪を告白懺悔する集まりであった。出家の僧は、一堂に会して戒律の箇条を読み上げ(=説戒)て罪を懺悔し、在家の信者は八戒を護り、説法を聞いて、僧尼に飲食の供養をするものである。

【内容】

新月と満月に関係があることからも明らかなように、元々は半月に一度、定められた地域(結界)にいる比丘達が集まって、戒本波羅提木叉を誦して自省する集会であった。
爰にある在家人、長病あり。去年の春の比相契りて云く、「当時の病療治して、妻子を捨て、寺の辺に庵室を構て、一月両度の布薩に逢、日々の行道法門談義を見聞して、随分に戒行を守りて生涯を送らん。」と云しに…… 『正法眼蔵随聞記』巻1-6

後には、月に六回、六斎日に、在家信者が寺院に集まって八斎戒を守り、説法説戒を聞き、僧を供養する法会が盛んになったが、これも布薩と呼ばれるようになった。なお、日本には鑑真和上が伝来したとされる。

曹洞宗では半月に1回行われる略布薩、または年に1回行われる大布薩?広布薩?)が行われる。

【歴史的経緯】

日本曹洞宗に毎月2回の布薩会が取り入れられたと明らかに確認できるのは、『瑩山清規』からであり、下巻に「十五日 〈中略〉斎罷布薩。作法、別紙有り」「晦日 布薩」のように書かれていることが指摘でき、詳細が「菩薩戒布薩式」として立項されている写本などがある。差定は現在の「大布薩?」の原型をなすものである。

なお、清規として記述を残してはおらず、また「布薩」についての言及も極めて少ない(『正法眼蔵随聞記』にわずかに見える)が、道元禅師に関する伝承の中には「説戒」を行っていたことが指摘するものもある。『伝光録』第51章に、「興聖に住せし時、神明来て聴戒し、布薩毎に参見す。永平寺にして龍神来て八斎戒を請し、日々回向に預らんと願ひ出て見ゆ。」とあるため、興聖寺から永平寺に至るまで布薩をしていたことが明らかとなる。また、『志比庄方丈不思議日記事』(或いは『建撕記』)に、「寛元五年〈歳時丁未〉正月十五日説戒」とある。これは、おそらく毎月2回の布薩であって、道元禅師も地元の信者相手に布薩説戒を行って、ここからも収入を得ていたのではないかと推定されている(『永平寺史(上)』参照)。

日本の禅宗としては、既に栄西禅師が『興禅護国論』に於いて、中国で見聞したものだとしながら、毎月2回の「布薩」を説いている。もし、これが日本で行われていたとすれば、栄西禅師の行法は、道元禅師も建仁寺で学ぶところであったと思われるため、布薩式についても当然に導入していたと思われ、それを面山は「日本は建仁栄西の将来にて、永平祖師は、建仁よりの伝式なり。」(『僧堂清規』巻5)とされるが、この見解には疑義も呈されている。
三に護戒、謂く、受戒すると雖も、護せずして破らば、何ぞ宝珠を得て打破するに異ならんや。『禅苑清規』に云く「受戒の後、常にまさに守護すべし。寧ろ、法あって死するも、法無くして生きず」と。この故に比丘の二百五十戒、菩薩の三聚十重四十八軽戒を堅固に護持す。この故に戒経の説くに任せて半月半月に任せて徒衆に開示するのみ。もし、犯戒の者あらば、必ずこれを擯出すること、譬えば大海の底に死屍を留めざるが如し。 『興禅護国論(下)』「建立支目門第八」

現在では『声明軌範』に『菩薩戒大布薩式』が収録されており、それを基準とする。

【論文】

・尾崎正善「曹洞宗における「布薩」について」、『印度学仏教学研究』48-1、H11.12

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