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【定義】

(と経の併称。仏像と経典、仏教と経典の意味。
∧が説かれた経典を指す。
道元禅師の『正法眼蔵』の巻名の一。95巻本では52巻、75巻本では47巻。寛元元年(1243)9月、越前吉峰寺にて学人に示された。

【内容】

道元禅師は、仏経を「仏祖の経巻」であるとしているが、これは尽十方界に於ける森羅万象そのものであるとされる。
いま現成せる正法眼蔵は、すなはち仏経なるがゆえに、あらゆる仏経は正法眼蔵なり。

現成した一切が正法眼蔵であるとき、我々にとって一切の世界は、まさに遍界不曾蔵として仏祖の経典であることを知る。この点は「山水経」「渓声山色」「如来全身」「看経」「法華転法華」巻などとの関連を見る必要がある。
しかあればすなはち仏道にさだめて仏経あることをしり、広文深義を山海に参学して、弁道の標準とすべきなり。

その尽十方界の経巻を読誦し、受用するのが仏祖である。そして、仏祖の経巻を投げ捨てて仏道を得るべきだという教外別伝の説や、儒・仏・道の三教一致を批判する。理由としては、これらが全て仏教を恣意的に局量しているからである。
また杜撰のともがらいはく、道教儒教釈教ともにその極致は一揆なるべし、しばらく入門の別あるのみなり。あるひはこれを鼎の三脚にたとふ。これいまの大宋国の諸僧のさかりに談ずるむねなり。もしかくのごとくいはば、これらのともがらがうへには、仏法すでに地をはらふて滅没せり。また仏法かつて微塵のごとくばかりもきたらずといふべし。かくのごとくのともから、みだりに仏法の通塞を道取せんとして、あやまりて仏経は不中用なり、祖師の門下に別伝の宗旨ありといふ。小量の機根なり、仏道の辺際をうかがはざるゆゑなり。

また同じように、一切の現象を特定の段階に分けて理解しようとする洞山五位・臨済四照用?などの機関禅?を誤りとして退ける。これらは、学人接化する手段として、宋代の中国禅などで極めて広範に行われていたが、道元禅師は否定的だった。
あるひは為人の手をさづけんとするには、臨済の四料簡?四照用?、雲門の三句?、洞山の三路五位等を挙して、学道の標準とせり。先師天童和尚、よのつねにこれをわらふていはく、学仏あにかくのごとくならんや。仏祖正伝する大道、おほく心にかうぶらしめ身にかうぶらしむ。これを参学するに、参究せんと擬するにいとまあらず。なんの間暇ありてか、晩進の言句をいれん。まことにしるべし諸方長老無道心にして、仏法の身心を参学せざることあきらけし。

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