曹洞禅・仏教に関するwikiです。人名・書名・寺院名・思想・行持等々について管理人が研究した結果を簡潔に示しています。曹洞禅・仏教に関する情報をお求めの方は、まず当wikiからどうぞ。

【定義】

道元禅師本師とまで慕った明全和尚が、入宋するに当たって所持された戒牒の末尾に、受戒の問題を中心としながらその略伝を綴られたもの。署名などはないが、『舎利相伝記』と共に道元禅師の親撰で、明全和尚の基本的伝記資料とされる。「奥書」ではないが、内容からすればその機能も持つ。

【内容】

そもそもこの明全和尚の戒牒とは、正治元年(1199)11月8日に、奈良東大寺戒壇院に於いて、興福寺・元興寺・唐招提寺・大安寺・東大寺の諸律師を請して具足戒を受けたことを証明したものであって、更に受戒当時の物ではなくその写しだが、当時の戒牒の形態を知るためにも貴重な史料となっている。なお、明全和尚の南都での受戒(受戒していなかったとする説もある)は、16歳の時となるが、これは『舎利相伝記』にある「十六にして僧となり」という記述に一致する。

なお、明全和尚が具足戒を受けたことについて、比叡山の大乗戒壇の意義とも関連して考えてみると、特段の配慮の上であったとは思われる。しかし、後に参学師と仰ぐことになった栄西禅師も同様に、出家道を持律強調の側面をもって獲得しようとしていただけに、明全和尚は持戒宗風を受けることにもなったのだろうと推定される。

また、その受戒の意図については、本奥書からも知られ、入宋にあたり中国が、具足戒を基本として戒臘を設定していることなどを挙げて、それに契うための準備であったとされる。若い時分に受戒をしていた明全和尚が、さらに入宋にあたって戒牒を準備したということなのだろう。他にも、明全が貞応2年(1223)に日本を出て中国に渡ったこと、比叡山首楞厳院の僧だったこと、本房が椙井房だったこと、本師が明融阿闍梨だったことなどが書かれている。そして、中国で明全が遷化したことなどが書かれ、また、日本では後高倉院(後高倉院とは、承久の乱の戦後処理で即位させられた後堀河天皇の後見として院政を敷いた守貞親王のこと。自身、直接天皇に即位したわけではないが、太上天皇号を受けて後高倉院となった)に対し菩薩戒を授けたこと、或いは中国では明州景福寺に到ったこと、或いは中国天童山の無際了派の会下には、智明首座や師広都寺がいたことなど、他には見られない記述があり、これは道元禅師が実際に見聞していた内容であったと推定される。

これらの内容が未整理のままに、メモ書きのように記されているというのがこの奥書の特徴でもあり、遷化した明全和尚の事跡を、遺産整理の際にでもとりあえず書いておこうという意図も見える。

現在では、『道元禅師全集』第7巻や、『永平寺史料全書』「禅籍篇第一巻」などで見ることが出来る。

コメントをかく


「http://」を含む投稿は禁止されています。

利用規約をご確認のうえご記入下さい

管理人/副管理人のみ編集できます