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【定義】

〇佞硫爾参学し、誠を尽くして礼拝するところに、得髄=仏法を得るということ。二祖慧可大師の得法に基づく語。
道元禅師の『正法眼蔵』の巻名の一。95巻本では8巻、75巻本では28巻。なお、95巻本に収録されている28巻本系統は、仁治元年(1240)冬節前日に興聖寺で記され、75巻本系統は延応2年(1240)清明日に興聖寺にて記されている。ただし、現在では本来28巻本の方が下書きとしてあったものを、75巻本では省略して途中までのものを収録したとされている。

【内容】

,海瞭誠颪箸話K畭膸佞ら慧可大師に附法した事実が典拠になっている。
第二十八祖、門人に謂て曰く、「時将に至りなんとす、汝等盍ぞ所得を言はざるや」。時に門人道副曰く、我が今の所見の如きは、文字を執せず、文字を離れず、しかも道用をなす」。祖云、「汝、吾が皮を得たり」。尼総持曰、「我が今の所解の如きは、慶喜の阿閦仏国を見しに、一見して更に再見せざりしが如し」。祖云、「汝、吾が肉を得たり」。道育曰、「四大本空なり、五蘊有にあらず、しかも我が見処は、一法として得べき無し」。祖云、「汝、吾が骨を得たり」。最後に恵可、礼三拝して後、位に依つて立てり。祖云、「汝、吾が髄を得たり」。果して二祖として、伝法伝衣せり。 『正法眼蔵』「葛藤」巻

得たところの仏法を道得せよと迫る達磨に対して、慧可はただ礼拝だけをもって示したところ、達磨は「吾が髄を得たり」として印可証明した。誠の礼拝が、そのまま仏法に契うことを、礼拝得髄というのである。

道元禅師は、,傍鵑欧拭嵶蘿卞誠顱廚鮗茲蠑紊欧覆ら、まさに慧可大師が法を重んじて断臂まで行ったことを讃歎しながら、不惜身命の修行の用心を説かれる。
髄をうること、法をつたふること、必定して至誠により、信心によるなり。誠心ほかよりきたるあとなく、内よりいづる方なし。ただまさに法をおもくし、身をかろくするなり。

また、世俗的には就くべき師については、見た目であるとか、生まれであるとか、行いなどを「基準」にしてその善し悪しを決める傾向にあるが、道元禅師は、法を重んじて、法を基準にして、師を選ぶべきであると説く。
釈迦牟尼仏のいはく、無上菩提を演説する師にあはんには、種姓を観ずることなかれ、容顔をみることなかれ、非をきらふことなかれ、行をかんがふることなかれ。ただ般若を尊重するがゆえに、日日に百千両の金を食せしむべし。天食をおくりて供養すべし、天華を散じて供養すべし。日日三時に礼拝し恭敬して、さらに患悩の心を生ぜしむることなかれ。かくのごとくすれば、菩提の道、かならずところあり。われ発心よりこのかた、かくのごとく修行して、今日は阿耨多羅三藐三菩提をえたるなり。

つまり、真実の仏法を説く師については、毎日多くの黄金や食事を運ぶことが求められており、道元禅師もまた、全てを抛って師に仕えたからこそ、仏道を体得したことが説かれているのである。しかし、世俗的には、様々な理由を付けて、仏法ではない、別の基準を入れようとしている。それを批判される道元禅師は、得法の事実には、性別も関係無いとして、得道された女人について、様々な記事を採り上げられているのである。特に、趙州従諗、潅渓志閑、末山尼、妙信尼などの行実が本文には引用されている。
たとへば、正法眼蔵を伝持せらん比丘尼は、四果支仏および三賢十聖もきたりて礼拝問法せんに、比丘尼この礼拝をうくべし。男児なにをもてか貴ならん。虚空虚空なり、四大は四大なり、五蘊は五蘊なり。女流も又かくのごとし、得道はいづれも得道す。ただし、いづれも得法を敬重すべし。男女を論ずることなかれ。これ仏道極妙の法則なり。

そして、道元禅師は中国では女性であっても格式の高い寺院の住持として招かれる例を説きながら、日本における女性差別を批判するのである。ただし、それは女性が素晴らしいからではなくて、先にも挙げたように、「得法」に基準を置かれるからである。

【28巻本系統】

得法に基準を置かれる道元禅師は、法を得た事実ではなくて、ただ女性であるからとか、子供であるから、といった世俗的価値観を仏祖に対して当てはめることを批判される。そして、さらに日本に於いては、女性の天皇がいたことも挙げて、本来女性差別はないことを示されるのである。
また、和漢の古今に、帝位にして女人あり、その国土、みなこの帝王の所領なり、人みなその臣となる。これは、人をうやまふにあらず、位をうやまふなり。比丘尼もまたその人をうやまふことは、むかしよりなし。ひとへに得法をうやまふなり。

ここで、人間中心の考え方ではなくて、法や位を重んじる考え方に転換していることが理解できる。あくまでも、男女という性別が問題なのではなくて、天皇という位、法を得ている仏祖現成の事実が重要なのである。余談的だが、この一文は道元禅師の「国土観」「天皇観」を知ることができる貴重な箇所となっている。ただ、内容を見る限り、いわゆる律令制度に対して反抗的だったとは思えず、その出自も影響してか、皇室崇敬の念が確認される。それは「看経」巻でも同様である。

さて、同巻では、女性差別の事例を挙げて、それが如何に仏法に叶わないかを指摘しているが、その根拠となるのは、絶対平等の仏法にあって、男女という差別を入れることの無意味さを批判するものである。具体的には、女性は男性から見れば、淫欲を起こさせるからというものだが、道元禅師は女性に限っていないとされて、女性差別の根拠を無化する。また、男性の社会に生きることで、女性には一切関わらないことを宣言した中国の澄観をも、「衆生無辺誓願度(四弘誓願の一句)」と願を立てる仏祖にはあるまじき行為であると断罪される。

また、日本には女人禁制の修行道場などがあるが、これは愚かも甚だしいとされるのである。
また、日本国にひとつのはらひごとあり。いわゆるあるひは結界の境地と称し、あるひは大乗の道場と称して、比丘尼・女人等を来入せしめず。邪風ひさしくつたはれて、人わきまふることなし。稽古の人あらためず、博達の士もかんがふることなし。あるひは権者の所為と称し、あるひは古先遺風と号して、さらに論ずることなき、わらはば人の腸もたえぬべし。権者とはなにものぞ、賢人か聖人か、神か鬼か、十聖か三賢か、等覚か妙覚か。また、ふるきをあらためざるべくは、生死流転をばすつべからざるか。

そして、女人禁制の結界などは無意味であるとして、仏法の上からは平等なる男女の性別を主張されるのである。なお、同巻の末尾には、道元禅師が当時行っていた「結界」の作り方が示されているため、よく学ばれたい。
いはんや結界のとき、灑甘露ののち、帰命の礼をはり、乃至浄界等ののち、頌に云、「茲の界は法界に遍く、無為にして清浄を結せり」。

現在でも、いわゆる洒水によって結界を作る儀式があるが、本来はこの方法に依存すべきなのである。

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