【定義】
行持というのは、まさに道環するように、発心・修行・菩提・涅槃が途切れることなく連続して行われていくということ。あるいは、前仏から後仏へと時代が途切れることなく、行持が行われていくこと。
【内容】
なお、本項目では特に「道環」に注目して検討したい。
道元禅師の直弟子達の註釈では、以上のように「始中終にかかはらざる儀」として「道環」を解釈している。更に、以下の一節も参照すると、意味が具体的に把握できる。
「行持」とあるから、「教行証」の「行」と理解しがちなところ、その一等を説くということは、「行持」とは「教行証一等」として把握すべきであり、その様子を「道環」としている。或いは、発心・修行・菩提・涅槃については、各々の4つを「不各別」として把握すべきだという。また、「道環」は、「行仏威儀」巻にも見られるが、以下のように解釈している。
以上の通り、「袈裟」に付く「環」をもって説明しており、完全に円環状の形をもって「道環」を説明しており、その意義を「無始無終」とされたのである。
行持というのは、まさに道環するように、発心・修行・菩提・涅槃が途切れることなく連続して行われていくということ。あるいは、前仏から後仏へと時代が途切れることなく、行持が行われていくこと。
仏祖の大道、かならず無上の行持あり、道環して断絶せず、発心・修行・菩提・涅槃、しばらくの間隙あらず、行持道環なり。このゆえに、みづからの強為にあらず、他の強為にあらず、不曾染汚の行持なり。この行持の功徳、われを保任し、他を保任す。その宗旨は、わが行持、すなはち十方の匝地漫天、みなその功徳をかうぶる。他もしらず、われもしらずといへども、しかあるなり。このゆえに、諸仏諸祖の行持によりて、われらが行持見成し、われらが大道通達するなり。われらが行持によりて、諸仏の行持見成し、諸仏の大道通達するなり。われらが行持によりて、この道環の功徳あり。これによりて、仏仏祖祖、仏住し、仏非し、仏心し、仏成して、断絶せざるなり。 『正法眼蔵』「行持(上)」巻
【内容】
なお、本項目では特に「道環」に注目して検討したい。
此行持の行の字、教行証の行にあらず、証を不待ゆへに、所詮以仏祖名行持也、道環とは始中終にかかはらざる儀なり、発心修行菩提涅槃と談ずる事、蹔も間隔なき道理なり、 『正法眼蔵抄』「行持」篇
道元禅師の直弟子達の註釈では、以上のように「始中終にかかはらざる儀」として「道環」を解釈している。更に、以下の一節も参照すると、意味が具体的に把握できる。
道環して断絶せずと云は、教行証一なる道理を道環と云べし、到菩提証は、船いかだも不入、発心修行皆道環也、発心の時、修行の時と不各別を道環と云べし、 『正法眼蔵聞書』「行持」篇
「行持」とあるから、「教行証」の「行」と理解しがちなところ、その一等を説くということは、「行持」とは「教行証一等」として把握すべきであり、その様子を「道環」としている。或いは、発心・修行・菩提・涅槃については、各々の4つを「不各別」として把握すべきだという。また、「道環」は、「行仏威儀」巻にも見られるが、以下のように解釈している。
道環とは袈裟の環は、すべてはじめも終もなきもの也、いづくよりはじめ、いづくを終とも不見なり、無始無終なる事に仕つけたるなり、 『正法眼蔵抄』「行仏威儀」篇
以上の通り、「袈裟」に付く「環」をもって説明しており、完全に円環状の形をもって「道環」を説明しており、その意義を「無始無終」とされたのである。
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