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【定義】

道元禅師が、仁治3年(1242)4月12日に、近衛殿(具体的に誰を指すかは議論があるが、藤原氏の1人)に謁して、法談したときの内容を法語にしたものであり、永平寺に伝わった。六世曇希禅師が書写して伝え、後に『建撕記』に収録された。まず、近衛殿と謁見した事実については、道元禅師が元々松殿基房(藤原氏)の猶子(養子)になった事実や、興聖寺を開く際に弘誓院殿(九条教実)から法座を寄進されていることなどからすれば、あり得ない話ではない。

また、内容には、「仏心宗」と自称していることを挙げて、『正法眼蔵』「仏道」巻との齟齬を指摘する者もいるが、どうしても自らが伝えた「宗派」を自称するには、何かを用いなくてはならず、ここでは分かりやすく伝えるために、その語を用いたといえよう。教えを中心に学ぶ宗派があっても、坐禅を中心に修行する祖師が来なくては意味は無いというスタンスは、他の説示にも見えることである。現在では、『建撕記』または、『道元禅師全集』巻7で見ることが可能。この記事には、訓読文のみ掲載する。
仁治三年〈壬寅〉四月十二日、近衛殿謁して法談の次いでに問う、「我が朝の先代に此の宗伝来すや」。師答えて云く、「我が朝に名相の仏法伝来して、仏法の名相を伝聞してこのかた、僅かに四百余歳なり。而今の仏心宗の流通、正にこの時節に当たる。神丹国後漢の明帝の永平年中に、始めて名相の仏法を伝う。以後、梁朝の普通八年に至る、時代を検するに僅か四百余年なり。その時に当たって、始めて西来直指の祖道を流通す。爾りしよりこのかた六代曹渓、青原・南嶽下に吾が宗を分つ云云。我が朝欽明天皇の時代、始めて名字の仏法を聞しよりこのかた、百済国・高麗国所伝の聖教国城に満つるといえども、未だ以心伝心の宗匠有らず、ただ国家を鎮護する霊験の僧のみあり。間出して踵を継いで絶ゆることなし云云」。〈永平六世和尚事跡を以て之を奉写す。〉

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