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【定義】

中国の天童如浄禅師の下で修行していた道元禅師に出逢ったことを機縁として、後に来日してその門下に入り、道元禅師亡き後に懐弉禅師の法嗣となる。越前国大野に宝慶寺を開いた。寂円禅師の系統は寂円派と呼ばれ、同系統は後々まで永平寺住持を務めることになる。

生没年:開禧3年(中国の元号・1207)〜正安元年(1299)
出身地:中国・洛陽人
俗 姓:不明

【略歴】

中国天童山の如浄禅師の下で修行しているときに、日本から来た道元禅師に出逢って、その道心篤いことに感動する。そこで、如浄禅師が亡くなると、日本に来て道元禅師の弟子になることを願い、その大願を実現した。来日の時期は安貞2年(1228)であったと(一説にはその前年)されている。ただし、この見解は、15世紀頃編集された『宝慶寺由緒記』を元にした説であり、例えば寂円禅師に参じたこともある瑩山紹瑾禅師提唱伝光録』第52章では、別の見解が提示されている。
然るに元和尚、深草の極楽寺の傍らに初て草庵を結で一人居す。一人の訪らふなくして両歳を経しに、師即ち尋ね到る。時に文暦元年なり。

瑩山禅師は、1234年に懐弉禅師が訪ねるまで、道元禅師を訪ねる人は1人もいなかったという。この見解を採るならば、寂円禅師の参随はかなり後のこととなる。

日本に来てからの寂円禅師がどのような修行をしていたかは杳として知られないのだが、とりあえず道元禅師が興聖寺から永平寺に移る際に同行して、永平寺に建てられた如浄禅師の塔所である承陽庵の塔司を務めた。

道元禅師が示寂すると、その弟子である懐弉禅師に参じて、悟りを開いて法嗣となった。

その後、知円沙弥という者が越前大野に宝慶寺を開くと、寂円禅師を拝請したため、その開山として寺に入ることになった。なお、現在でも宝慶寺の近くには、寂円禅師が坐禅をしたという坐禅巌というものがある。

寂円禅師は、なかなか認めることのできる弟子が来なかったのだが、或る時、後の永平寺5世となる義雲禅師が弟子入りし、20年以上も修行した後で、寂円禅師はその力量を認めて付法の弟子とした。なお、その義雲禅師は、師のことを次のように讃えている。
全相の妙、通身の照、洞山頂上眼睛を奪い得て、吉祥堂奥の心要に透徹す。塵塵三昧の座床に拠り、刹刹常説の曲調を暢ぶ。払柄を拈弄して殃児孫に及ぶ。蜜を打し水を打つ好一場の笑。 『義雲和尚語録

寂円禅師は、中国曹洞宗の禅風を受け継ぎ、いわゆる黙照禅を徹底した只管打坐を修めたとされている。正安元年9月13日に、93歳で示寂した。

なお、上記の見解は、後代の記録を元に作ったものであり、『義雲和尚語録』『三祖行業記』などを貴重な例外として、寂円禅師の古伝を採り上げる場合は少ない。

【著作】

・寂円禅師には目立った著作はない。一説では『真字正法眼蔵』は漢語しかできない寂円禅師のために書かれたのではないかとの説もある。また、和語の『正法眼蔵』はほとんど理解できなかったのではないかとの説もある。

【論文・著作】

・佐藤秀孝「6 寂円」(『道元思想のあゆみ1』吉川弘文館、所収)
現存するのが数少ない、寂円禅師に関する史料を丹念に当たってまとめられた伝記である。
・篠原壽雄「義雲 その人と宗風」(『日本の禅語録四 義雲』講談社、所収)
弟子である義雲禅師の関わりから考察された文章である。

【『越前宝慶由緒記』による伝記】

宝慶寺に伝わる、開山由緒記(建綱撰、『宝慶由緒記』)にしたがって伝記を構成すると以下のようになる。

寂円禅師は、大宋国洛陽の生まれである。幼い年齢で天童山(太白山)に登って、剃髪受戒した。そして、如浄禅師の指導で得悟するのである。大宋国の多くの寺に、すぐれた師を訪れることで、仏法の奥深いところを明らかにした。

貞応2年(1223)に道元禅師が中国に入ると、天童山で初めて会った。意気投合すると、遂に師弟の契りを結ぶようになった。そして、大宋国宝慶3年(1227)に道元禅師が日本に帰るときには、寂円禅師も同行して明州の港まで見送られ、同じ船で日本に渡ることを求めたが、道元禅師からは次のように諭された。
我が師(=如浄禅師のこと)は年老いておられ、亡くなるのもそう遠くはないでしょう。寂円さんは、ここから天童山に帰って如浄禅師のお側にお仕えすべきです。そして、如浄禅師が亡くなったら早々に日本に来てください。お待ちしています。

寂円禅師は天童山に帰ると、如浄禅師の側に仕えていたが、安貞元年(1227)7月17日(一説に翌年)に如浄禅師は亡くなった。そして、翌安貞2年(1228)に商船を見つけて日本に来て、道元禅師と見えたのだった。道元禅師は興聖寺永平寺に如浄禅師の祖堂を建立すると、寂円禅師を塔主に任じられた。これが承陽庵(今の承陽殿)である。

建長5年(1253)8月28日に道元禅師が亡くなると、次いで孤雲懐弉禅師に弟子入りして、仏法の肝心なところをお尋ねになった。
或る日に寂円が問われるには「獅子の声の一音とはどのようなものでしょうか」と。懐弉は「さらに外に出ることはない」と答えられた。寂円は「何をもって、出ないとされるのでしょうか」と尋ねた。懐弉は「百獣の脳が裂けてしまう」と答えた。寂円は「私は会得しました。百獣は皆獅子の声を為すのです」と言った。懐弉は「それをどのように得たのか」と尋ねた。寂円は「さまざまな曲があっても1つの声です」と答えた。懐弉は「寂円さんは、良く観音入理の門に達せられたようですね」というと、寂円は礼拝して袖を払って出て行った。懐弉はただちに印可した。

これは、ブッダの声=仏法についての質問であり、一切が皆仏法であり、観音の働きに他ならないことを明らかにしたものである。

弘長元年(1261)には、越前大野郡の木本の奥銀椀峰の麓に分け入って、石上に安坐して山居していた。人はこれを知らなかったが、不思議なことに牛と犬がやってきて、左右に仕え侍者の勤めをした。方丈谷にある坐禅石・牛塚・犬塚はこの名残である。

弘長年間(1261〜1264)には野州の太守藤氏が山狩りの時、寂円禅師を拝して、帰依檀那となった。後には菩薩戒を受けて、真空沙弥と呼ばれた。そして、発願し一字を立てて宝慶寺と名づけ、寂円禅師を請して開山としたのである。この時にはまだ、諸堂が完備していなかった。

また、弘安元年(1278)に大檀那が弟子となって智円沙弥と呼ばれた。そして、天童山の風景を学んで、それに似せて七堂伽藍を建立した。山林田産を喜捨して、西明寺殿(北条時頼)の菩提所としたのである。四方から修行僧が集まってきて、天下の大叢林として名高いものとなった。その修行僧には得悟するものが多かった。

正安元年(1299)9月13日には、自らの後を嗣ぐべき義雲禅師に大いなる正法を伝え、命じて宝慶寺の後席を嗣がせた。そして、「私は大宋国に帰るのだ」というと、突然亡くなられた。檀那俗弟子は遺骨(舎利)を集めて、開山の真像を造った。これは現在「遺骨の御影」と名づけられているものである。

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