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【定義】

日本曹洞宗では、中世の頃に嗣法の制度が乱れ、人法ではなく伽藍法に基づく伽藍相続が行われる場合があったが、それを人法の旧に復そうとして、江戸元禄期に大乗寺の元住持だった卍山道白や、その同志である独菴玄光・梅峰竺信などによって行われた復古運動を指す。特に、嗣法制度に関する運動は、『宗統復古志』に詳細が記録されている。

【内容】

道元禅師の時代から200年も過ぎるころには、日本曹洞宗では本来の宗風が失われ、嗣法の制度を始めとして、様々な弊害が発生していたという。
衣は必ず垢ひて後、これを濯ひ、井も必ず眢りて後、これを渫ゆ。敝事あらずんば、其れ誰かこれを更めん。我が永平の宗統、弊習に垢づくこと、既に二百年におよびぬ。 『宗統復古志

弊害が起きてから200年ほどが過ぎた江戸時代に入ると、幕府によって各宗派に対して学問の奨励が行われたため、その学びの過程で古来の方法に戻そうとする運動が起きることになった。日本曹洞宗では、嗣法の制度に関連する宗統復古運動や、清規に関連する古規復古運動がある。しかし、それらを総合して1つの運動であると見る向きもある。教団史研究の第一人者である竹内道雄氏は『曹洞宗教団史』の中で「宗統復古運動」を、その時期と内容から大きく三期に分類している。

・第一期
正保・慶安年間(1644〜1651)から寛文3年(1663)に至る約20年間がこれに当たる。この時期の「宗統復古運動」の主役は、自身寒巌派(法王派)の法系に連なり、宇治興聖寺中興5世であった万安英種と、卍山本師である大乗寺26世月舟宗胡である。ここでは特に万安について述べるが、万安英種は『続洞上諸祖伝』(四)に依ると、学問による知解をもって禅の本義としようとする叢林の姿を嘆いていた当代最高の宗匠の1人であったが、江戸時代初期に幕府と宗門によって罰せられることになる。詳細は「雑学事件」項を参照のこと。
昔し、承応年中に、万安・鉄心の二老、関東の諸老と、代語講録の議論に付、出訴し玉ひし其の時も、江戸中、両方に立分れ、互に気鋒をふるいしゆへに、或は呪咀調伏を行ふもあり、或は剣難毒薬にかかるもあり、遂には録方非理に成り、万安・鉄心の二老を始め、其の党の三十三箇寺擯罰し、宗門徘徊を停止せらる。 『宗統復古志』

その理由は「代語」に関するものだったとされているが、この過程で、万安は鉄心?(道印)とともに官府へ訴え出て、結果、多くの者と共に処罰されたことが見て取れる。この事件は「承応の公事」と呼ばれ、宗門の一大不祥事であったのだが、この事件に関しては横井覚道先生が「近世における宗學復古序説−特に承應の公事に関連して−」(『宗学研究6』所収、1969年)に詳述しておられる。結論だけに省略すれば、「承応の公事」とは幕府による宗教統制の一環であり、スケープゴートであった可能性もあるということである。

実際、万安は宗学・宗乗に通じており、したがって、異解を唱え、一宗確立のための謀議を重ねたとして罰せられるような人物ではなく、万安・鉄心共に当代最高の禅匠だった判断することも可能だという。つまり、幕府は宗門経営に参画しようとしていなかった(興聖寺中興でも問題視されたとする説がある)万安等を政治的配慮により叩いた可能性もあるとのことである。

万安は道元禅師が日本に帰国してから最初の開創寺院であった興聖寺を宇治に中興した人物として知られ、また自身の法系である寒巌義尹禅師の旧規に則って禅風を挙揚したとされている。『続洞上諸祖伝』(四)には万安の接化を受けた者として懶禅舜融・龍幡松雲・月舟宗胡の名前を挙げている。懶禅は万安の法嗣であり、龍幡は懶禅の法嗣である。龍幡の法嗣には卍山と並ぶ革弊運動の推進者梅峰竺信がいる。そして月舟宗胡は卍山本師である。つまり、この万安を中心とした一連の法系参学の関係者は、「宗統復古運動」の源泉として位置する。横井先生も「すなわち元禄復古の梅卍二者の母胎がここにあった」(前掲論中)と述べておられる。

・第二期
この時期は卍山による「宗統復古運動」の中心期であり、期間としては卍山の活動期である寛文3年(1663)より元禄16年(1703)までの約40年間である。なお、この時期に関しては後に詳述する。

・第三期
この時期は「第二期」の引き続きであり、後に曹洞宗学の大成者と称された面山瑞方が示寂した年までとされている。つまり、元禄17年(1704)から明和6年(1769)までである。この期間は「第二期」では中途半端な結果で終わってしまった宗統復古(伝法制度・宗義全般)をめぐる宗義論争の開花の時期であった。そして、この時期から、本格的に道元禅師正法眼蔵』の研究が盛んになるのである(「宗学復古?」とでもいうべき運動である)。主役となるのは面山瑞方と天桂伝尊である。

《革弊略年表》

1663年(寛文3) 卍山道白が弊を嘆き僧統?に議す。
1665年(寛文5) 卍山が首座を務める。
1672年(寛文12) 卍山が『永平広録』(卍山本)を印刻流布。
1674年(延宝2) 月舟宗胡が大乗寺中興
1678年(延宝6) 卍山が月舟と相見す。
  同年 卍山が『瑩山清規』の序を著す。
1679年(延宝7) 卍山、勅を奉じて永平寺にて瑞世
1680年(延宝8) 卍山、大乗寺にて祝国開堂。初めて「禅戒会」を建てる。
1682年(天和2) 卍山、大乗寺の規約(『椙樹林清規』か?)を修定する。
1684年(貞享元) 卍山、『正法眼蔵』(卍山本)を校訂す。
1689年(元禄2) 版橈晃全禅師(永平寺35世)が「叢規」を興す。
1691年(元禄4) 卍山、大乗寺を退董。同年中に梅峰竺信と邂逅。
1692年(元禄5) 連山?交易が卍山に大中寺?晋住を勧める。
1694年(元禄7) 卍山、京都洛北鷹峰に入り、源光庵曹洞宗に改める(旧・臨済宗大徳寺派)。
1696年(元禄9) 月舟宗胡遷化
  同年 独菴と卍山が合議して僧統に革弊を議す。
  同年 即現が革弊を官府に直訴するも却下。
1698年(元禄11) 独菴玄光遷化
1699年(元禄12) 石牛?天粱が永平寺に晋住(37世)。
  同年 木橋と洞白が卍山に、革弊の同志として梅峰を推挙。
  同年 卍山、『正法眼蔵』「面授」巻を印刻流布。
1700年(元禄13) 阿部飛弾守が寺社奉行に就任。
  同年 5月21日、卍山と梅峰が革弊事業推進のため江戸に赴く。
  同年 梅峰竺信『洞門劇譚』執筆。
  同年 7月16日 梅卍二師、三僧統?に革弊を議す。
  同年 7月23日 再度、議論の申請。
  同年 8月3日 三度、議論の申請。
  同年 8月7日 遂に梅卍二師、寺社奉行・阿部飛騨守に直接訴える。
  同年 10月18日 寺社奉行所などの議論によって、二師は訴えを退けられる。
1702年(元禄15) 松平志摩守の屋敷に訴えるも制止される。
  同年 10月24日 田翁?牛甫、官府に直訴。
  同年 陸奥正法寺定山?良光『正法嫡伝獅子一吼集』を著すも、卍山によって偽訣と批判される。
1703年(元禄16) 官府は田翁を召し出して、革弊の審判開始を告げる。
  同年 3月27日、官府は梅卍二師を召し出して、革弊の意図を確認。
  同年 4月、官府は禅宗・教宗各宗派の宗匠を召し出して、革弊の正否を議論。
  同年 5月以降、官府は興聖寺大乗寺などを呼び、更に両大本山などが集まり、議論活発化。以降、7月まで続く。
  同年 7月17日、二師が両大本山に妥協案を提示。24日には「伽藍相続」の名称を廃棄。
  同年 8月7日、御条目が成り、「宗統復古」成立。
  同年 8月24日、官府は直訴した田翁牛甫を許す。27日、田翁はその感謝のため官府を巡る。28日、梅卍二師が革弊成就の感謝のため、官府を巡る。
  同年 9月、梅卍二師江戸を発って、自坊に戻る。
1704年(宝永元) 1月10日、卍山が月舟忌を修行して宗統復古を報告。
  同年 11月、卍山が復古堂に護法牌を立てる。
1707年(宝永4) 梅峰竺信遷化。
1715年(正徳5) 卍山道白遷化。

当時は伽藍相続が横行し、嗣法のあり方が大いに乱れていたことは先に述べたとおりである。卍山が『正法眼蔵』を読み、革弊の念を心に抱いたとされるのが寛文3年(1663)である。その後40年に及ぶ革弊運動が行われるのである。

『宗統復古志』の中で最初の活動として現れるのが大僧録への働きかけである。ある時、ひそかに総寧寺?丹心墀和尚・龍穏寺?因光了和尚に見えて宗弊の改革を議論したとある。総寧・龍穏の両寺は大僧録であり、ここで話が通ればすぐにでも革弊が実現したのだが、そう上手くはいかずに丹心和尚からその志を褒められて終わったようである。それから壮年の頃には南都の公慶上人と黄檗派の鉄眼道光と卍山を加えた三者が集まってお互いの大願を吐露したという。その大願とは公慶上人が東大寺大仏殿の建立、鉄眼道光が大蔵経の開版、卍山が宗弊の改革である。そして三人ともが実現を果たしたという逸話である。無論、これが史実であったかどうかという問題はあるが、とかく、前の二者に並び立てられるほどに、卍山の願いは大きかったとされたのである。

こうした一連の活動の後、卍山は大乗寺を重興して「規矩大乗」の名を全国に轟かせた。大乗寺退院後は京都鷹峯源光庵に隠棲していた卍山はそこで革弊の志士に出会った。経山の独菴玄光である。独菴には嵋山という僧について逸話が残っている。肥前の嵋山という僧は強い革弊の念をもって独菴のもとを訪れ、直ちに革弊運動を行うよう謀ったが「時節イマダ至ラズ」と独菴が待つように諭したところ、性急な嵋山は大いに失望して遂に曹洞の家風を捨て律僧になってしまったのである。後に卍山を訪れ、自身江戸へ、卍山・独菴両師の代理として上ることになった即現が、その革弊運動を成す際に嵋山を訪れ助力を願ったが、他宗の僧ということでそれが契わなかったという。

元禄9年(1696)独菴と卍山は意気投合して官家の威厳を用いてでも革弊を成す決心をした。そして慧光・即現の二僧を江戸に遣わして、事を謀ろうとした。二僧はまず関三刹の寄合に出て革弊を訴えた。しかし、宗門大事に卍山・独菴本人が出ず、代理人を立てたのと、準備不足のために方法が雑になり、この機会に革弊は成就しなかった。その後何度か寄合へ訴えたが、大中寺の月番の際には鑑司の石門という僧が怒り、「何ノ添簡カアルベキ、何方ヘナリトモ、勝手ニ任スゾ」といわれたのを受けて、即現は直ちに単身(慧光は病)、寺社奉行戸田能登守へ訴え出た。しかし、その当時の法の下では訴えが認められるはずもなく、即現は帰された。

元禄11年(1698)、卍山と元禄5年より行動を共にしていた独菴が示寂する。

翌元禄12年には、卍山に縁があり、連山?交易の門下であった石牛?天梁が大中寺?から永平寺に入った。総寧・龍穏両寺にも荷法浅からざる僧が入り、ここで革弊成るかと思われたが、石牛は卍山の意の通りには動かず、結局は成らなかった。さらに同年卍山は『正法眼蔵』「面授」巻を開版している。これをもって宗門一般にも道元禅師の真意を敷衍し、後の革弊への準備を行ったと言えよう。

元禄13年(1700)は老中阿部豊後守正武の子で阿部飛騨守正喬が寺社奉行に就任した。この両者は後の卍山の大きな扶けになるのである。そして、この年は独菴を失い、孤立していたかが如くであった卍山に次の共闘者が現れた。かつて興聖寺に住していた梅峰竺信である。両師は以前より面識があったが、本格的に協力するのはこれが初めてであり、この縁は、前年の元禄12年に真成院の木橋・伊勢寺の洞白の二師が卍山の元を訪れ、梅峰と協力するよう薦めたのがきっかけであった。梅卍二師は臨南寺で子細を相談し五月にはそれぞれの住居を出発し江戸へ向かったのである。これに関しては前回の失敗が大きいと考える。やはり宗門の大事には自分達が直接行って談判するしかないと考えたのだろう。

卍山は隠之・道密の二侍者を従えて源光庵を5月21日に出発し、後事を法嗣三洲白龍に託した。出発に望み、元禄9年に示寂していた本師月舟の塔を禅定寺に拝している。そこで「感自拇腓至股晦、将労頬舌動心灰、只期山沢互通気、同是以虚受物来」と詠じ、また「経懸河駅」の詩を詠んだ。梅峰も珪州・蔵雲の二弟子を従えて住吉の臨南寺より出発した。6月上旬二師とも江戸に入り、梅峰は芝の青松寺?に、卍山は芝の瑠璃光寺にそれぞれ錫を留めた。その時の瑠璃光寺の長老が田翁牛甫である。

いよいよ7月16日、三僧統(つまりは関三刹)の大寄合に列席した梅卍二師は「口上之覚」を連名で提出し、官府に宗弊を改める訴えを上奏することを求めた。しかし関三刹側はそれを拒否。7月23日、8月3日と再請、三請に及ぶが、いずれも関三刹の理解は得られなかった。

大僧録である関三刹の添状を得られなかった梅卍二師は、直訴することを決断し8月7日に寺社奉行阿部飛騨守へ「奉願口上之覚」を連名で提出した。これより梅卍二師を中心とする革弊側(一師印証方)と関三刹を中心とする現状維持側(伽藍相続方)の対決が激化していくことになる。しかし梅卍二師の努力空しく、奉行所は関三刹側の意見を入れる形で議論を止めることになる。そしてこの年(元禄13年)梅峰は『洞門劇譚』を著し、伽藍相続が誤りであることを訴えた。

この『洞門劇譚』が世に出ると革弊側、現状維持側の両者の争いは周囲を巻き込みいよいよ激しくなっていった。その有り様は「小僧・喝食に至るまで、かりそめにも同聚せず、互に気焔をぞ立ける」(『宗統復古志』)とあるほどの大論争になったのである。そして、論争の最中、梅峰の『洞門劇譚』に反論する形で陸奥正法寺定山良光が『正法嫡伝獅子一吼集』を元禄15年(1702)に著したものの、幕府の命により開版は停止された。奥州黒石にある正法寺無底派の本山であった。

話を戻して、元禄15年(1702)6月21日革弊側は談義して再度出訴することを決めた。時節到来を待っていたが、それを聞いていた瑠璃光寺の田翁牛甫は自ら願い出て同年10月24日に官府へ訴え出た。その際には「禅宗洞家伝法乱嗣邪正之出入」という訴状を持参した。田翁はそれ以後百余日の間、官裁が下るまで暴風・大雨といえども官衙に日参し続けた。

翌元禄16年(1703)2月18日寺社奉行寄合へ田翁は召し出されて、訴えを採り上げ吟味する旨を伝えられた。その席で田翁は奉行所の質問に一つ一つ回答し、奉行所はその熱意と法の正しいことを評価して、卍山と梅峰を召して更に吟味を重ねることになった。同年春3月21日、二師を奉行所へ召し出し、特に卍山の弟子についての質問等を通して正統を論議した。内容は總持寺輪番制、伽藍相続の道理、道元禅師への忠孝等にも及び、そこでも主張は認められた。この後、奉行所は他宗の本寺僧綱、有名な知識を召し寄せて法の正統について議論があったが、皆、一師印証をもって是としたという。

奉行所は更に両大本山・関三刹及び、宗門の大寺11箇所と加賀広禅寺を召し、その他武蔵吉祥寺・天竜寺・長谷寺・功運寺及び薩摩福昌寺・丹波永澤寺・長崎皓台寺・因幡景福寺等の諸寺院を江戸に召し出して、一つ一つ詮議が成された。一寺一員ずつ日時を隔てて召し出され、一堂に会しての討論対決はなかった。その際の議論は各々が自分の主張を述べるのだが、伽藍相続方の意見は己の保身・事勿れ主義、二師に対する非難が主であり、理に契い論に通じるものではなかったという。諸寺の中で總持寺だけは一師印証について肯定的とも採れる意見を出しているが、大乗寺の住持だった卍山を、同じ前田家領内にある總持寺が援護するような政治的配慮があった可能性は否定できない。

永平寺・関三刹・可睡斎は官府へ行き、この度の訴えを決裁しないように求めたが奉行はそれを拒否し、諸意見を聞いた奉行所は議論して弊を除くことを第一に考えることを確認した。そこで、6月28日奉行所は田翁を召して訴えを上聞した旨を伝達した。

同年7月4日梅卍二師と田翁は三奉行の班座に召し出されて、法義は既に老中の評定に及び、上聞され近日中に明断あることを阿部飛騨守より申し渡された。なお、田翁は己が分限を超えた罪により出仕を停止された。翌5日、永平寺・總持寺・関三刹等11箇寺が奉行所へ召し出され「申渡覚」を下された。そこで幕府は一師印証を正当と認める意向にあることが表明された。然る上で、今までの伽藍相続の方法は、道元禅師家訓に適するものではないようであるが、もし、この意見に反駁するようであれば、両大本山・関三刹・可睡斎でよく相談した上で、書付を奉行所まで提出するように求められた。

この事実による限り、幕府は一師印証を正当と認めつつも、それまでの歴史的背景も考慮に入れ、最終的には宗門にその判断を任せることにしたようである。思想論争であるために、正誤の判断は当事者に任せるのは道理に契っているとはいうものの、幕府の態度として、あくまでも問題は当事者に解決させようとする巧妙な統治姿勢が見て取れる。

その後11箇寺は、永平寺・總持寺の宿院に集まり2〜3回会議をしたようだが決着せず、ついには両大本山の対論にまで発展した。そんな折り、梅卍二師は群議が決しないことを悟り、吉祥寺を通して崇寧寺へ「奉願口上書」を申し渡した。そこには、一師印証を主として伽藍相続の跡も残すという妥協案が記載されていた。それは奉行へも伝えられ、これで一師印証方・伽藍相続方の和議が成ったかとも思われたが、歴史的経緯の重さは容易に払うことが出来ずに、伽藍相続方はなおも渋った。

その和議交渉の過程においては、嗣法の際に師資で授受される三物嗣書血脈大事」の取り扱い、その価値についての議論が最後まで行われた。そして、いよいよ元禄16年7月17日、11箇寺は連名で「口上書」を提出した。内容としては、最初に嗣いだ法脈を固定として、それを『嗣書』によって証明し一生不易をすることで一師印証とした。それ以外の二物、血脈・大事に関しては、寺院を易えた際に新たな二物を受け、それを伽藍相続にするという折衷案としてまとまっている。

奉行所は上来の「口上書」を受けて更に吟味を重ねた。日光輪王寺一品法親王にも意見を求め、そして7月24日には永平寺・總持寺・宝円寺・芳春院、三奉行列席にて「伽藍相続」という名前について審議があり、これは近年の通称に過ぎず仏典祖録等に見えないため、正式な文面からは削除されることになった。

元禄16年(1703)8月7日決裁となり、同月11日に官府へ11箇寺が召集されて、遂に革弊の御条目が下ったのである。今それを挙げて内容を考察したい。まずこの御条目は両大本山に対して下されたのであるが、内容を見れば、先の「口上書」を中心にしてまとめたものであることが分かる。第一条は「両本山諸法度」を再度見直し、出世転衣の規定を更に厳しくしたものだと言えよう。第二条・第三条は曹洞宗の嗣法のあり方を規定したものであり、「伽藍相続」という言葉は見えないが、一師印証と伽藍相続両方を立てる形となっている。

これを受けて11箇寺の長老は諸奉行の館に詣でて陳謝した。両大本山は五老中の館にも参じた。8月27日には田翁もその罪を許されて出仕御免となった。梅卍二師は田翁が出仕を止められてからは閑居していたが、許されたのを聞いて三奉行の衙を巡礼した。

その後、両大本山より、全国寺院へ御条目を守るようにお達しがあり、ここに日本曹洞宗は一師印証の旧規に復古したのである。卍山はその業績をもって自らを「復古道人」と号したという。また、元禄16年には折衷案として解決された嗣法制度は、明治時代に入り完全に伽藍法が排除された制度として確立された。明治8年(1875)には曹洞宗務局(後の宗務庁?)が伽藍二脈(大事・血脈)を重授する制を廃して、人法一本に統合されて、現在に至っている。

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