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【定義】

曹洞宗高祖道元禅師が、中国天童山の如浄禅師の膝下にて大悟した因縁を、その内容に因んで身心脱落話という。なお、道元禅師御自身も、御自身のことは述べないが、如浄禅師の「身心脱落」の語を主題として頌古を示され(『玄和尚頌古』86則)るなどしており、更に中世に到っても、さまざまな公案の拈評録などで採り上げられている(伝・瑩山禅師提唱『報恩録』上・11則など)。

【内容】

いわゆる道元禅師の身心脱落話と呼ばれるのが最初に確認出来るのは、年代が確認出来るものとして瑩山禅師伝光録』が挙げられる(ほぼ同じ内容が『永平寺三祖行業記』に収録される。同書の成立に瑩山禅師が関わるとの指摘もある)。『伝光録』は、仏祖の大悟の因縁を本則として採り上げるわけだが、道元禅師の場合には身心脱落話である。
第五十一祖永平和尚、天童浄和尚に参ず。浄一日、後夜の坐禅に衆に示して曰く、「参禅身心脱落なり」。師聞いて忽然として大悟す。直ちに方丈に上って焼香す。浄問うて曰く、「焼香の事、作麼生」。師曰く、「身心脱落し来る」。浄曰く、「身心脱落、脱落身心」。師曰く、「這箇は是れ暫時の技倆、和尚乱りに某甲を印すること莫れ」。浄曰く、「我れ乱りに汝を印せず」。師曰く、「如何なるか是れ乱りに印せざる底」。浄曰く、「脱落身心」。師礼拜す。浄曰く、「脱落脱落」。時に福州の広平侍者曰く、「外国の人恁麼地を得る、実に細事に非ず」。浄曰く、「此の中幾か拳頭を喫す。脱落雍容し又霹靂す」。 『伝光録』第51章

なお、この一則について、道元禅師の大悟の因縁として採り上げる場合と、如浄禅師の「参禅は身心脱落なり」のみを採り上げる場合と、両方あって、ともに「身心脱落話」と呼ばれるので注意を要する。或る意味『伝光録』は前者として採り上げる。『玄和尚頌古』の場合は後者である。

  天童和尚云く「参禅身心脱落なり」と。
 木杓を弄来して風波起こる、恩大きに徳深くして報も亦深し、
 縦え海枯れて寒徹底することを見るとも、莫教あれ身死して心を留めざることを。
    『玄和尚頌古』86則

また、後の曹洞宗祖師に於ける機縁を見ていくと、この話が大悟の因縁となる場合があったようである。
同七日、巳時、坐禅中、先師大悟因縁、身心脱落話に依りて聊か力を得る。坐禅罷に方丈に参じ、参拝して云く、「義介、今日先師の道、身心脱落に依りて聊か省みること有り」 『御遺言記録

これは、徹通義介禅師が、道元禅師の身心脱落話を聞いて、修行の進んだことを自ら述べる場面である。他にも、通幻寂霊禅師も、峨山韶碩禅師から提唱された身心脱落話にて大悟するなどしている。

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