【定義】
彼岸に到る法会の意味であり、単に彼岸ともいう。春分・秋分を中心として前後一週間行われる仏事法会のこと。これは、インドや中国では行われず、日本で始められたものだという。なお、現行の『曹洞宗行持軌範』では、3月と9月の18日に、春分・秋分を中心にした一週間の法要という定義とともに、彼岸会について述べられており、「彼岸会の間、開山、世代、檀信徒の精霊供養の法要を営み、かつ毎日、説教法話を行う」とされる。
【内容】
『日本後記』巻13には、大同元年(806)3月辛巳の条に、崇道天皇の祟りを抑えるために諸国の国分寺の僧をして、春秋二仲月別七日に、『金剛般若経』を読ませたのが初出とされる。この由来は、中国で作られた偽経の『提謂経』『浄度三昧経』に於いて、立春・春分・立夏・夏至・立秋・秋分・立冬・冬至の「八王日」に読経持斎すれば、寿命が増長するとされていることに基づき、この中の春分・秋分の二会を彼岸として法会を行ったと考えられている。
日本では中世以降、龍樹菩薩『天正験記』や、彼岸会特有の経典として『彼岸功徳成就経』『速出生死到彼岸経』『彼岸斎法成道経』などが偽作されており、彼岸時の読経持斎の功徳が強調された(日蓮聖人に仮託されている「彼岸抄」では、『彼岸功徳成就経』からの引用が見える)。その一例として、浄土真宗の覚如上人は以下のようにこの風習を批判していることから、その様子が知られる。
また、彼岸会そのものは『観無量寿経』に説かれる「日想観」に基づいて、到彼岸のために春秋の彼岸に仏事が修せられたものとも考えられている。善導和尚は『観経疏』「定善義」にて以下のように説く。
この彼岸の時節は、まさに阿弥陀仏国を日没によって覚知させて、各人に往生浄土の大願を遂げさせるために、この時を彼岸として法要を行ったものとも考えられている。また、古来の清規類には、彼岸会法要は記載されず、禅宗では、本来行われていなかったが、他宗派や民俗の風習にしたがって取り入れたものと考えられる。特に、中国からの来日僧で、禅興寺・建長寺・寿福寺・円覚寺などに住し、浄智寺を開創した仏源禅師・大休正念(1215〜1290、1269年来日)は、寿福寺に住していた際に日本の彼岸会について言及している(円覚寺での上堂にも「彼岸上堂」とは称さないが、彼岸会に関すると思われる上堂が見える)。
【『行持軌範』への取り入れ】
『明治校訂洞上行持軌範』において、「年分行事」の巻末に「春秋二季彼岸会」が見える。
ここから、現代の『行持軌範』の彼岸会に繋がることが分かる。また、「皇霊祭」とは春分・秋分に合わせて行われる宮中行事で、歴代の天皇・皇后・皇親の霊を祭る儀式である。そして、明治期にはこれを仏教式に読み替えて、先祖供養の儀式として定着させたことが推定される。その影響からか、「彼岸会法要」の「回向文」は以下の内容をしている。
この回向文は、『昭和訂補』までは引き継がれたが、人権問題や天皇制の問題が取り沙汰された『昭和修訂』以降は不採用となった。
彼岸に到る法会の意味であり、単に彼岸ともいう。春分・秋分を中心として前後一週間行われる仏事法会のこと。これは、インドや中国では行われず、日本で始められたものだという。なお、現行の『曹洞宗行持軌範』では、3月と9月の18日に、春分・秋分を中心にした一週間の法要という定義とともに、彼岸会について述べられており、「彼岸会の間、開山、世代、檀信徒の精霊供養の法要を営み、かつ毎日、説教法話を行う」とされる。
【内容】
『日本後記』巻13には、大同元年(806)3月辛巳の条に、崇道天皇の祟りを抑えるために諸国の国分寺の僧をして、春秋二仲月別七日に、『金剛般若経』を読ませたのが初出とされる。この由来は、中国で作られた偽経の『提謂経』『浄度三昧経』に於いて、立春・春分・立夏・夏至・立秋・秋分・立冬・冬至の「八王日」に読経持斎すれば、寿命が増長するとされていることに基づき、この中の春分・秋分の二会を彼岸として法会を行ったと考えられている。
日本では中世以降、龍樹菩薩『天正験記』や、彼岸会特有の経典として『彼岸功徳成就経』『速出生死到彼岸経』『彼岸斎法成道経』などが偽作されており、彼岸時の読経持斎の功徳が強調された(日蓮聖人に仮託されている「彼岸抄」では、『彼岸功徳成就経』からの引用が見える)。その一例として、浄土真宗の覚如上人は以下のようにこの風習を批判していることから、その様子が知られる。
一 二季の彼岸をもつて念仏修行の時節と定むる、いはれなき事。 それ浄土の一門について、光明寺の和尚(善導)の御釈(礼讃)をうかがふに、安心・起行・作業の三つありとみえたり。そのうち起行・作業の篇をば、なほ方便の方とさしおいて、往生浄土の正因は安心をもつて定得すべきよしを釈成せらるる条、顕然なり。しかるにわが大師聖人(親鸞)、このゆゑをもつて他力の安心をさきとしまします。それについて三経の安心あり。そのなかに『大経』をもつて真実とせらる。『大経』のなかには第十八の願をもつて本とす。十八の願にとりては、また願成就をもつて至極とす。「信心歓喜乃至一念」(大経・下)をもつて他力の安心とおぼしめさるるゆゑなり。この一念を他力より発得しぬるのちは、生死の苦海をうしろになして涅槃の彼岸にいたりぬる条、勿論なり。この機のうへは、他力の安心よりもよほされて仏恩報謝の起行・作業はせらるべきによりて、行住坐臥を論ぜず、長時不退に到彼岸の謂あり。このうへは、あながち中陽院の衆聖、衆生の善悪を決断する到彼岸の時節をかぎりて、安心・起行等の正業をはげますべきにあらざるか。かの中陽院の断悪修善の決断は、仏法疎遠の衆生を済度せしめんがための集会なり。いまの他力の行者においては、あとを娑婆にとほざかり、心を浄域にすましむるうへは、なにによりてかこの決判におよぶべきや。しかるに二季の時正をえりすぐりてその念仏往生の時分と定めて起行をはげますともがら、祖師(親鸞)の御一流にそむけり。いかでか当教の門葉と号せんや、しるべし。 『改邪鈔』11
また、彼岸会そのものは『観無量寿経』に説かれる「日想観」に基づいて、到彼岸のために春秋の彼岸に仏事が修せられたものとも考えられている。善導和尚は『観経疏』「定善義」にて以下のように説く。
一には衆生をして境を識り心を住めしめんと欲して、方を指すことあることあり。冬夏の両時を取らず、ただ春秋の二際を取る。その日正東より出でて直西に没す。弥陀仏国は日没の処に当りて、直西十万億の刹を超過す。すなわちこれなり。
この彼岸の時節は、まさに阿弥陀仏国を日没によって覚知させて、各人に往生浄土の大願を遂げさせるために、この時を彼岸として法要を行ったものとも考えられている。また、古来の清規類には、彼岸会法要は記載されず、禅宗では、本来行われていなかったが、他宗派や民俗の風習にしたがって取り入れたものと考えられる。特に、中国からの来日僧で、禅興寺・建長寺・寿福寺・円覚寺などに住し、浄智寺を開創した仏源禅師・大休正念(1215〜1290、1269年来日)は、寿福寺に住していた際に日本の彼岸会について言及している(円覚寺での上堂にも「彼岸上堂」とは称さないが、彼岸会に関すると思われる上堂が見える)。
彼岸上堂。日本国の風俗、春二月・秋八月の彼岸修崇の辰有り。教中に道わく、譬えば舡師の如し、此岸に著かず、彼岸に著かず、中流を往かず。唯、此岸の衆生を度して彼岸に至らんと欲するのみ。然りと雖も、古帆岸に至るも即ち問わず。洗脚して上舡するの一句、作麼生か道わん。良久して曰く、手を撒して家に到るも人識らず、更に一物として尊堂に献げる無し。 『大休和尚住寿福禅寺語録』
【『行持軌範』への取り入れ】
『明治校訂洞上行持軌範』において、「年分行事」の巻末に「春秋二季彼岸会」が見える。
彼岸会の事は諸清規に見る処なし。故に本規も亦之を掲載せず。然れども朝廷已に春分秋分を以て皇霊祭を修し玉ふことなれば、僧侶は無論、旧慣に拠て二期の彼岸に臨時の法会を営み、開山世代及び檀越の亡霊を普同供養し、且つ毎日説教を修して可なり。
ここから、現代の『行持軌範』の彼岸会に繋がることが分かる。また、「皇霊祭」とは春分・秋分に合わせて行われる宮中行事で、歴代の天皇・皇后・皇親の霊を祭る儀式である。そして、明治期にはこれを仏教式に読み替えて、先祖供養の儀式として定着させたことが推定される。その影響からか、「彼岸会法要」の「回向文」は以下の内容をしている。
仰ぎ冀くは聖眼、切に明鑑を垂れたまへ。上来何経を諷誦す、集むる所の功徳は、歴代天皇各々尊儀の為にし奉り、上罔極の鴻恩に酬んことを。 『昭和改訂曹洞宗行持軌範』
この回向文は、『昭和訂補』までは引き継がれたが、人権問題や天皇制の問題が取り沙汰された『昭和修訂』以降は不採用となった。
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