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【定義】

江戸時代日本曹洞宗が輩出した学僧。号は万安、または千拙、名は英種。慶安2年(1649)に興聖寺中興したことで知られる。

生没年:天正19年(1591)〜承応3年(1654)
出身地:江戸(現在の東京都内)
俗 姓:遠山氏

【略歴】

江戸に生まれた万安英種は9歳で父を失ったため、俗縁があった江戸白山起雲寺(現・喜運寺)の源室永高の下で童行になった。源室について、万安は受業師として尊敬し、27回忌に当たって法語を詠んでいる。源室の下(詳細は不明)にて、11歳で得度するや、諸方にて参学し、大慈寺の大焉広椿から嗣法した。寛永13年(1636)には、廃寺になっていた丹波の瑞巌寺を再興し、後には摂津臨南庵にて隠棲していた。

しかし、慶安元年(1648)永井尚政の招請によって、山城国宇治興聖寺の再興に着手し、翌年には晋住した。なお、興聖寺晋住後に「雑学事件」に巻き込まれるなどして擯罰されており、不本意な形で晩年を迎え、承応3年8月21日に示寂した。世寿64歳、法臘54年。弟子に懶禅舜融などがいる。また、鈴木正三なども万安に参じており、正三は万安の死に際して次のような言葉を残している。
午の八月下旬、万安和尚遷化の由申来。師、嘆じて曰、扨も久しき近付を失ひ、先に立申したり。先隙を明めされたるよと也。亦向衆曰、万安万安と云しが、早や沙汰に成めされたり。我も頓て沙汰に成て見せんずと也。 『驢鞍橋』下-100

他にも、後に「宗統復古運動」を推進する僧が、直接・間接に万安に縁があった。

【著作・語録】

・『万安英種文集?』、『続曹洞宗全書』「語録一?
⇒近年では、この『文集』と、興聖寺に伝わる書翰類のみを万安の資料とする。

・『臨済録抄』
・『四部録抄』
・『永平元禅師語録抄?』3巻
⇒これらは、万安の語録では無いと推定されている。

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