【定義】
面山瑞方師は、宝暦11年(1761)夏から京都東山建仁寺の福聚院に寓居し、その間合山の大衆の請によって『梵網経』を講述した。それは、『梵網戒本口訣』になったわけだが、その講筵が5月14日をもって終了したものの、懇請を受け、翌15日にまた戒壇を啓建し、同20日に至り建仁寺住山の僧侶に伝戒し、授戒も行っている。その間の顛末を、面山の侍者である慧苗などが記録編集し、その後建仁寺北礀の序や、建仁寺長老の跋を得て刊行されたもの。刊行は明和3年(1766)が最初だが、その後版木の焼失もあって、再度若狭空印寺?の道海が文政6年(1823)に上梓した。別に『建仁戒壇録』『建仁戒壇記録』などともいう。
【内容】
内容だが、始めに「梵網経発起請銜」を記し、次に伝戒7名と授戒15名の僧名を連ねて付戒の偈を添え、「禅門大戒普説」を撰して洞済一轍の戒脈と戒義に付いて述べたものが収録されている。
テキストは、『曹洞宗全書』「禅戒」巻で見ることが出来る。
面山瑞方師は、宝暦11年(1761)夏から京都東山建仁寺の福聚院に寓居し、その間合山の大衆の請によって『梵網経』を講述した。それは、『梵網戒本口訣』になったわけだが、その講筵が5月14日をもって終了したものの、懇請を受け、翌15日にまた戒壇を啓建し、同20日に至り建仁寺住山の僧侶に伝戒し、授戒も行っている。その間の顛末を、面山の侍者である慧苗などが記録編集し、その後建仁寺北礀の序や、建仁寺長老の跋を得て刊行されたもの。刊行は明和3年(1766)が最初だが、その後版木の焼失もあって、再度若狭空印寺?の道海が文政6年(1823)に上梓した。別に『建仁戒壇録』『建仁戒壇記録』などともいう。
【内容】
内容だが、始めに「梵網経発起請銜」を記し、次に伝戒7名と授戒15名の僧名を連ねて付戒の偈を添え、「禅門大戒普説」を撰して洞済一轍の戒脈と戒義に付いて述べたものが収録されている。
テキストは、『曹洞宗全書』「禅戒」巻で見ることが出来る。
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