つらつら日暮らしWiki〈曹洞宗関連用語集〉 - 洗面
【定義】

ヾ蕕鮴い、歯を磨くこと。
道元禅師の『正法眼蔵』の巻名の一。95巻本では56巻、75巻本では50巻。延応元年(1239)10月23日興聖寺学人に示されており、他にも寛元元年(1243)10月20日吉峰寺にて重ねて学人に示されている。また建長2年(1250)1月11日永平寺にて学人に示されている。なお、同巻は後に瑩山禅師が日中行事の軌範として数えている。
十二時中の行履は、弁道法・赴粥飯・洗面法・洗浄法の如し。并びに寮中清規参大己事師法等に委曲なり。悉く之を諳んずべし。 『瑩山清規

道元禅師の『正法眼蔵』の巻名の一。60巻本では50巻。△箸曚箸鵑鋲韻呼睛討世、説示場所に永平寺が書いておらず、内容の一部が欠落しているなどしており、後に75巻本系統となる下書きだと思われる。

【内容】

道元禅師は、『法華経』『三千威儀経』『禅苑清規』『華厳経』「浄行品」『摩訶僧祇律』、そして『梵網経』(十八種物の典拠)などを引用しながら、仏祖としての身だしなみを示され、洗面法と、嚼楊枝の作法や意義を丁寧に示されている。
水、なにとして本浄ならん、本不浄ならん。本浄・本不浄なりとも、来著のところをして浄・不浄ならしむといはず。ただ仏祖の修証を保任するとき、用水洗浣、以水澡浴等の仏法つたはれり。これによりて修証するに、浄を超越し、不浄を透脱し、非浄・非不浄を脱落するなり。

この一文は、「洗浄」巻とも一致し、いわゆる汚れているから洗うといった対待の発想ではなくて、洗面の一行に徹しきることが示されている。そして、「しかあればすなはち、見楊枝は見仏祖なり。」とされながら、中国で見聞した歯磨きせざる者のあり方を批判している。
しかあれば、天下の出家・在家、ともにその口気、はなはだくさし。二三尺をへだててものいふとき、口臭きたる、かぐものたへがたし。

さらに、洗面法は以下の通りである。
つぎに、手巾のおもてをのごふはしにて、のごひ、かはかすべし。しかうしてのち、手巾、もとのごとく脱しとりて、ふたへにして左臂にかく。

そして、正規の仏道場が現前している日本にあっては、洗面と嚼楊枝の法を忘れてはならないことが示されている。
日本国は、国王・大臣、老少・朝野、在家・出家の貴賎、ともに嚼楊枝・漱口の法をわすれず、しかあれども洗面せず。一得一失なり。いま洗面・嚼楊枝、ともに護持せん、補虧闕の興隆なり、仏祖の照臨なり。

なお、1日の生活で、何時に洗面等をすべきかは『弁道法』に依拠すること。