つらつら日暮らしWiki〈曹洞宗関連用語集〉 - 発菩提心
【定義】

菩提心を発すこと。別に、発無上心・発無上意、など。簡単に発心ともいう。菩薩成仏を願って、誓願を発して修行に入ることをいう。
道元禅師の『正法眼蔵』の巻名の一。
道元禅師学道用心集』「第一則 発菩提心事」のみを訓読し、学人が読誦できるようにした一篇を、特に『発菩提心』または『永平発菩提心』『永平高祖発菩提心』などと名付けられ、更に巨海東流禅師による註釈『永平発菩提心弁解』もある。

【内容】

道元禅師の『正法眼蔵』に於ける「発菩提心」巻と「発無上心」巻とは密接な関係にある。両方ともに、寛元2年(1244)2月14日に吉峰寺にて学人に示されたとされているが、内容は相違し、また『正法眼蔵』編集という観点からは以下のような関係にある。

   「発菩提心」巻  「発無上心」巻

75巻本  ナシ       63巻(しかし題名は「発菩提心」)
12巻本   4巻      ナシ
60巻本  34巻      53巻
95巻本  70巻      69巻

このように見ていけば分かるのだが、道元禅師の編集ではないかといわれている75巻本と12巻本、両方に「発菩提心」巻が含まれているのである。しかし、60巻本や95巻本という編集形式になると、75巻本「発菩提心」巻は混乱を避けるために「発無上心」巻と呼ばれ、12巻本「発菩提心」はそのままの名前で両方収録された。道元禅師が60巻本を編集したとすれば、「発無上心」という名前は、道元禅師自身の発案となる。また、これと似たような状況として、28巻本に含まれる「仏道」が、やはり75巻本の「仏道」巻と同名のため、同一の系統として収録されるにあたり「道心」巻と便宜的に呼ばれたことがある。

・75巻本「発菩提心」巻について

60巻本などでは「発無上心」巻と呼ばれるものである。内容は、菩提心とは、他の力を借りることなく、菩提心によって起こるものであるとされる。すでに、これ以前の「身心学道」巻にて菩提心が菩提心を発す様子を「菩提心発なり発菩提心なり。」とされている道元禅師は、「発菩提心」巻にて、さらに以下のように説示されるのである。
おほよそ発菩提心の因縁、ほかより菩提心を拈来せず、菩提心を拈来して発心するなり。

また、通常の菩薩の修行は、発心修行菩提涅槃と進むが、同巻にて道元禅師は、これらの4つに別はないことを示している。
しかあれば発心・修行・菩提・涅槃は同時の発心・修行・菩提・涅槃なるべし。

さらに、発菩提心中にて行われる諸修行であれば、一切が菩提心の現成であることを示した道元禅師は、帰依三宝も、造塔造仏も一切が仏行であるとされているが、様々な有為行だとして何かしらの功徳を求めて行われるものだと独断し、行そのものを否定しようとする者を批判する。
しかるあるに小乗愚人いはく、造像起塔は有為功業なり、さしおきていとなむべからず。息慮凝心これ無為なり、無生無作これ真実なり、法性実相の観行これ無為なり。かくのごとくいふを西天東地の古今の習俗とせり。これによりて重罪逆罪をつくるといへども、造像起塔せず。塵労稠林染汚すといへども、念仏読経せず。これただ人天種子を損壊するのみにあらず、如来仏性撥無するともがらなり。

このように、75巻本系統の「発菩提心」巻は、すでに発心して修行が進み、菩提心として生きている者に対し更に発菩提心を求める「既発心」であるとされる。
しかあるに発心は一発にして、さらに発心せず、修行は無量なり、証果は一証なりとのみきくは、仏法をきくにあらず、仏法をしれるにあらず、仏法にあふにあらず。千億発の発心は、さだめて一発心の発なり。千億人の発心は、一発心の発なり。一発心は千億の発心なり。

したがって、一度発心すれば修行も無量であり悟りの世界に入るという見解は否定される。修行の過程にあっては何度でも、それこそ千億発も発心しなくてはならない。むしろ、仏陀であれば当然に発心すべきなのである。

・12巻本「発菩提心」巻について

この巻は75巻本系統が「既発心」であったとすれば、未だ仏道に入っていない者がこれから菩提心を発して仏道に入るための準備をする「初発心」を説いているとされる。

まず道元禅師は仏教で説かれる「心」に3種類があることを指摘しながら、日常の分別心の根拠となる「慮知心」を使ってでなくては、菩提心を発すことは出来ないとされている。
このなかに、菩提心をおこすこと、かならず慮知心をもちいる。菩提は天竺の音、ここには道といふ。質多は天竺の音、ここには慮知心といふ。この慮知心にあらざれば、菩提心をおこすことあたはず。この慮知心をすなはち菩提心とするにはあらず、この慮知心をもて菩提心をおこすなり。菩提心をおこすといふは、おのれいまだわたらざるさきに、一切衆生をわたさんと発願し、いとなむなり。

さらに、菩提心を発す機構としては「身心学道」巻で説かれた感応道交についても考察しなくてはならないが、道元禅師はとにかく「自未得度先度他」の問題を指摘する。
発心とは、はじめて自未得度先度他の心をおこすなり。これを初発菩提心といふ。この心をおこすよりのち、さらにそこばくの諸仏にあひたてまつり、供養したてまつるに、見仏聞法し、さらに菩提心をおこす、雪上加霜なり。

そこで、自未得度先度他の心を発すことを繰り返し説かれた後に、これまでの仏祖も全て、修行して成道することに進むにはみな、菩提心を発したことを根拠にしていると説かれる。
あきらかにしるべし、仏祖学道、かならず菩提心を発悟するをさきとせりといふこと。これすなはち仏祖の常法なり。

なお、具体的な説示対象は知られないが、道元禅師は他人を先に成道させるという菩薩の心は、現実味が無く、まず自分自身が悟りを開かなくては意味がないのではないかとする見解について、明確に否定される。
まづわれ生死解脱し、のちに衆生をわたさんには。行者このかたらひをききて、菩提心を退し、菩薩の行を退す。まさにしるべし、かくのごとくの説は、すなはちこれ魔説なり。菩薩しりてしたがふことなかれ。もはら自未得度先度他の行願を退転せざるべし。