【定義】
明治時代に
曹洞教会運動を展開する中で編集された、教会会衆を
教化し、
安心を示すための綱要書。かつて、『
曹洞教会修証義』と呼ばれていたが、現在では『修証義(しゅしょうぎ)』とだけ呼ぶ。
日本曹洞宗ではこれを重要な教典(『
曹洞宗宗制』では「
宗典」)と位置付け、
檀信徒向けの
法要で読誦されたり、
法話の講本などに使われる。
【成立】
日本曹洞宗では、
高祖道元禅師以来、在家信者向けの
布教に際しては、直接に言葉を聞かせる
説法もさることながら、「
仮名法語」と呼ばれる、和文で教えを優しく説いた
法語を用いていた。特に、江戸時代に入ると、幕府による宗教政策の影響もあって、多くの寺院で「檀家」という、信者組織を持つことになった。その方々や、特に禅に興味のある人に向けて、「
仮名法語」が作られて流通するようになる。ただ、それらの多くは唱える文言というよりは、自分で読んで研鑽を積むための資料や、
善知識が自分で説法をするときの講本に使われたと考えられる。
明治時代に入ると、大名家からの援助が激減し、神仏分離令や廃仏毀釈の影響や、国民の精神的なイデオロギーを涵養するために「三条教則」が公布されるなどしたため仏教のアイデンティティーが著しく脅かされることとなった。当時の曹洞宗では、その流れに順応しようとしたようだが、国の混乱もあり、決して上手くはいかなかった。そして、在家信者に向けてより一層本格的な布教を行わねばならないと考えられた。しかし、個人レベルので取り組みはあっても、全宗門を挙げての取り組みは多くはなく、布教教化に使える教典の整備は急務であった。そして、
曹洞教会運動の展開の中で成立したのが『修証義』である。
『修証義』は、1990年に「公布一〇〇年」を迎えて、全国でイベントが開催されて顕彰されたことからも分かるように、明治23年(1890)12月1日に公布された。成立の経緯には、元々は
通仏教の立場でありながらも、曹洞宗の布教教化に協力した
大内青巒居士(1845〜1918)の影響が大である。仙台藩の藩士の子どもだった青巒居士は、東北地方や水戸・東京で学んだ後、曹洞宗を中心に他の宗派(浄土真宗など)とも関わって結社を作り、
仏教に批判的だった政府に対して火葬解禁の陳情を行ったり、あるいは孤児院を開き仏教青年会なども組織した。また、それらの会の活動を補佐するために、多くの機関誌を刊行し、出版社まで作った(鴻盟社はその1つ)。晩年は、現在の東洋大学で学長も務めている。
青巒居士は、通仏教による大衆教化運動に挺身し、多方面にわたる活躍をする中で、明治20年(1887)曹洞宗内に、「
曹洞扶宗会?」という結社を作った。この結社は、組織内に議決機関まで持ち、また曹洞宗で実施されようとした、
住職に対する資格試験について、扶宗会に入り勉強することで免除されることもあってか、多くの僧侶も加入したという。
そして、力を付けた同会では、多くの事柄を曹洞宗務局に陳情しているが、明治21年の大会議で『
洞上在家修証義』の出版・講社化などを目指すと定めている。この『
洞上在家修証義』は、青巒居士が中心になって編集される物であったが、扶宗会会員一同の編集という体裁を取り、会員の総意とした。青巒居士の編集意図を見ると、「在家化導の標準」を定め、その上で在家信者に対して布教教化、そして仏教徒としての教育を行おうとしたようである。明治21年2月に刊行された『
洞上在家修証義』の序にて、「在家男女の弁道となす」とされているのは、まさにこれが在家信者にとっての規範となるべき教典だったといえる。
青巒居士は在家に対する教化を考えた時、本書成立前に著した『
洞上在家化導儀』では、出家は坐禅、在家は念仏往生という二段階の安心確立を考えていたようだが、宗派内に反発が多かったとされる。そのため、青巒居士は曹洞宗の安心とは何かを考えた時、曹洞宗の授戒の際に必ず唱えられる『梵網経』の一節、「衆生仏戒を受くれば、即ち諸仏の位に入る。位、大覚に同じうし已る、真に是れ諸仏の子なり」に着目し、安心確立の中心に据えた。
仏門に入るには、先ず戒を受けなくてはならない(
戒律為先)。よって、その戒の
功徳としての「受戒入位」を中心に、受戒成立の前提となる
懺悔や、社会活動、そして先祖などへの感謝といった在家向けの教えを集めようとした。この時の四大原則である「
懺悔滅罪・
受戒入位・
発願利生・
行持報恩」は、現在でも「
四大綱領」として、曹洞宗の教義の中心に据えられている(特に、『宗制』でも規定したのは、昭和16年以降)。また、「扶宗会」では「
本証妙修」と「
修証不二」を強く主張し、僧俗一体の新教義の方向性(受戒によって本来成仏を安心として得る)を打ち出すものであった。
青巒居士の編集で、特に参照されたのは、
道元禅師の『
正法眼蔵』である。元々漢字仮名交じり文で書かれている『正法眼蔵』は、そのまま在家信者の教化に使えると判断された。更に、江戸時代に、様々な
祖師の言葉を抜き書きして手控え書の代わりにするような『
永平家訓』や『
洞上正宗訣』『
永平正宗訓』などの影響もある。青巒居士は、この編集に当たって『正法眼蔵』を7返拝読したと述懐しているが、苦心惨憺の末に編集された。
『修証義』の内容は、『正法眼蔵』等から適宜文章を抜き出して、それぞれの章に合うように編集されたものであるが、青巒居士の当初の編集では、厳密な章立てがなされたわけではなかった。
その後、第三次末派総代議員会議の結果、扶宗会は
曹洞教会と合併することで、従来の一結社から正式な曹洞宗の一組織として発展的解消し、その際に在家信者向けであった『洞上在家修証義』を改めて編集し直し、曹洞教会会衆に向けた標準テキストとすることを目指した。その際には、当時の両大本山貫首による緻密な校正を行うことを決められた。明治23年に入ると、当時の
大本山總持寺の
貫首で、曹洞宗の
管長?であった畦上楳仙禅師は奔走され、また詳しい修正は当時の
永平寺貫首・滝谷琢宗禅師が行った。滝谷禅師は改めて『
正法眼蔵』の
参究を行い、『
洞上在家修証義』に大幅な加筆・修正を行うなどして、『曹洞教会修証義』の原型を編集した。
原型完成後は、畦上禅師を始め、曹洞宗の議決機関などからも多くが参加して意見し合い、その結果、先にも挙げたごとく、明治23年12月1日に、両大本山貫首の連名で、『曹洞教会修証義』を本宗の布教標準とするべき告諭が発せられ、正式に公布されたのである。
曹洞宗では、その後、多くの指導者によって、『修証義』に関する解説書が刊行され、また『修証義』は説教を行う場合に、そのまま講本にも使われている。その後は、普段の
法要(
法事・
仏事)でも、読誦される経典の役割も付され、現行に到る。そのため、耳にする機会が多く、また漢字仮名交じり文ということもあって、ただ漢文をそのまま読む経典や、陀羅尼という呪文に比べて分かりやすい内容になっている(『修証義』の他にも、曹洞宗には、本来の漢文を訓読して読むものもある)。
「曹洞教会」の事実上の解散もあって、現在では『修証義』とだけ呼称するようになったが、大筋の内容は当時のままである。さらに、現在では、曹洞宗管長が発する毎年の「告諭」の中で『修証義』に触れることが多く、強い影響力を持っている。各地で
布教を行う
布教師がテキストに使う場合もある。
また、先ほど述べたが、扶宗会が掲げる布教のための四大原則は、そのまま曹洞宗の「四大綱領」として採用され、教義の根幹になっている。以下の【内容】には、『修証義』の章立てを解説する形で、「四大綱領」の解説を付す。解説をご覧いただければ分かるが、ただ無自覚に日常生活を生きるのではなく、仏の弟子として1日1日を大切に生きることを説く『修証義』は、曹洞宗に関わる全ての
僧侶・在家信者にとって、自らを戒める規範であり、
菩薩として生きる日常実践の目標でもある。
【内容】
全体を「総序」「
懺悔滅罪」「
受戒入位」「
発願利生」「
行持報恩」の五章三十一節(3704文字)に分け
日本曹洞宗に於ける在家の安心を説くものである。
・第一章 総序
人として生まれ、また
仏法を聞くことがどれほど奇特なことかを説き、無常な人生を自覚して一刻も早く
正法に遇うことを勧めている。
・第二章 懺悔滅罪
受戒して仏法に入る前段階として至心に
懺悔することを説いている。
・第三章 受戒入位
曹洞宗の
祖師が
釈尊以来伝えてきた
三帰三聚浄戒十重禁戒の
十六條戒を受けることを説いている。
・第四章 発願利生
受戒したならば
自未得度先度他の心を発し、
衆生のために生きること(=利他行)を説き、具体的実践徳目として「
四摂法」を勧めている。
・第五章 行持報恩
即心是仏の道理を説き、上記のような利他行に生きる
菩薩の報恩の生き方を実践することが、
釈迦牟尼仏に他ならないことを説いている。
【問題】
古来からの問題点としては、『修証義』の中には「
坐禅」について全く説かれていないことから、
只管打坐を是とする曹洞宗の宗義を尽くしていないと主張する方が多かった。ただし、曹洞宗には
禅戒一如の思想があるため、戒法について説けば、それがそのまま禅の実践であると主張する者もいる。以下には、『修証義』を批判して編まれた、類似の文献を紹介する。
西有穆山禅師は『
洞上安心訣』を明治23年(1890)4月に編まれた。忽滑谷快天師は『
道元禅師聖訓?』を大正12年(1923)5月に編まれた。中幡義堂師は『
正法義』という
坐禅を中心に『修証義』に準ずる典籍を昭和27年9月に編まれた(『伝光録』版『修証義』は後述する)。ただし、これらは
宗門の全面的なバックアップを受けた『修証義』ほど広くは流布しなかった。
近年の問題としては、特に「総序」で論じられる「業」の問題について、教団として差別を助長してきたのではないか、として問題視されることがある。
それから、
道元禅師の言葉を勝手に
取捨選択して編集して良いかと非難する方もいる。実際に、前後との文意を合わせようと取捨選択したために、『
正法眼蔵』中の原意から乖離した例も多数報告されている。一例は、第二章
懺悔滅罪の冒頭は「
仏祖憐れみの余り広大の
慈門を開き置けり、是れ一切
衆生を
証入せしめんが為めなり」について、『修証義』の意味としては、「広大の慈門」は「懺悔」を意味することになるが、引用原典の『
弁道話』では「
坐禅」を意味している。なお、『修証義』編集に携わった大内青巒居士も滝谷琢宗禅師もともに、本書が「断章取義」であることは認めている。
ただし、『修証義』は、文字通り「
修行」と「
証悟」のための方法を示した内容であるべきだが、内容は在家信者の生活用心集というべきものであり、『
正法眼蔵』本来の思想的内容を要約したものではない。したがって、『修証義』から『
正法眼蔵』に進んでも、あまり意味はないというべきである。文体に慣れることはできよう。
【備考1−外国語訳「修証義」】
明治29年(1896)10月には、忽滑谷快天師による英語で訳述された『修証義』が刊行された(鴻盟社)。大正6年(1917)5月には、アジア大陸への開教のテキストとするためと思われるが、中国語訳された『漢訳修証義』が曹洞宗務院(宗務庁)によって刊行され、同年8月には、同じく宗務院より朝鮮語訳された『鮮訳修証義』が刊行された。また、現代でも、『英訳修証義』(中川武夫氏訳)も刊行されている。
【備考2−『伝光録』版「修証義」】
『修証義』が道元禅師の『
正法眼蔵』を基本にしているとすれば、
瑩山禅師の『
伝光録』を基本にした『
總持開祖御教義抄』が畦上楳仙禅師によって編集されている。また、1909年には宮城県繁盛院住職・菊地大仙師によって『
洞流正伝修証法』が編集されている。また、1929年には島根県の紹慶密応師によって『
伝光祖訓』が刊行された。
【備考3−『冠註修証義』】
明治44年(1911)に、峯玄光によって『修証義』の冠註本が刊行された(鴻盟社)。
【解説書】
まず、最初に指摘しておかなければならないのは、『修証義』については、完成直後から
宗門布教の教典の位置付けであったため、それこそ瀧谷禅師や畦上禅師、或いは青巒居士も提唱解説につとめられ、後にも多くの方が法話に用いているが、時代が時代だけに、多くの提唱本は現代では使えなくなっている(思想的内容の限界や差別語の多用)。したがって、ここでの紹介は比較的近年に刊行された以下の数冊に留めておく。
・岡田宜法『修証義編纂史』(曹洞宗宗務庁刊)
非常に多くの手紙や下書き原稿からまとめられた労作で、『修証義』の時代背景や、『正法眼蔵』との対比などを考察するには最適の書。
・水野弥穂子『修証義12か月』『続修証義12か月』(曹洞宗宗務庁刊)
岩波文庫の『正法眼蔵』を校訂された、日本語古典の専門家による解説書で、『正法眼蔵』とのつながりをもとに書かれたものである。
・太田久紀『修証義にきく』(曹洞宗宗務庁刊)
唯識の専門家である著者が、『修証義』の趣旨を直観的に明示した解説書。
⇒以上は【
曹洞宗公式HP】を参照。
・水野弘元『修証義の仏教(新装版)』(春秋社刊)
原始仏教・パーリ仏教の大家によって示された通仏教的な解釈による解説書である。
・薪水会編『宗門葬祭の特質を探る』(同朋社出版刊)
『修証義』と、曹洞宗の葬祭の関係について考察した良著。特に、宗門布教の現場に立っている方には適している。
・曹洞宗宗務庁?『修証義 付・現代語訳』平成2年
『
禅の風?』に連載されていた、『修証義』現代語訳を小冊子としてまとめたもの。第一章・水野弥穂子、第二章・服部松斉、第三章・桜井秀雄、第四章・楢崎一光、第五章・余語翠厳(著者敬称略記)の各老師・先生によって書かれている。
・ 曹洞宗宗務庁監修・大迫閑歩著『えんぴつで般若心経』(ポプラ社刊・平成27年)
『般若心経』『修証義』その他の偈文などをえんぴつで書き込む書籍。曹洞宗宗務庁広報係・広報委員による監修のため、収録される解説・現代語訳は事実上の公式見解に近い。
【『修証義』全文】
※引用にあたっては、章・節ごとに段落を付して示す。また、テキストは管理人蔵の初期刊本を底本に、曹洞宗宗務庁刊『『修証義』布教のためのガイドブック』などを参照して、漢字や仮名の表現を改めている。
修証義
・第一章 総序
生を明らめ死を明らむるは
仏家一大事の
因縁なり、
生死の中に仏あれば生死なし、但生死即ち
涅槃と心得て、生死として厭うべきもなく、涅槃として欣うべきもなし、是時初めて生死を離るる分あり、唯
一大事因縁と
究尽すべし。
人身得ること難し、
仏法値うこと希れなり、今我等
宿善の助くるに依りて、已に受け難き人身を受けたるのみに非ず、遇い難き仏法に値い奉れり、生死の中の善生、最勝の生なるべし、最勝の善身を徒らにして
露命を
無常の風に任すること勿れ。
無常憑み難し、知らず露命いかなる道の草にか落ちん、身已に私に非ず、命は
光陰に移されて暫くも停め難し、紅顔いずくへか去りにし、尋ねんとするに
蹤跡なし、熟観ずる所に往事の再び逢うべからざる多し、無常忽ちに到るときは国王大臣親暱従僕妻子珍宝たすくる無し、唯独り
黄泉に趣くのみなり、己れに随い行くは只是れ善悪業等のみなり。
今の世に
因果を知らず
業報を明らめず、
三世を知らず、善悪を弁まえざる
邪見の
党侶には群すべからず、大凡因果の
道理歴然として私なし、造悪の者は堕ち修善の者は陞る、
毫釐も忒わざるなり、若し因果亡じて虚しからんが如きは、
諸仏の
出世あるべからず、
祖師の
西来あるべからず。
善悪の報に
三時あり、一者順現報受、二者順次生受、三者順後次受、これを三時という、
仏祖の道を
修習するには、其最初より斯三時の業報の理を効い験らむるなり、爾あらざれば多く錯りて邪見に堕つるなり、但邪見に堕つるのみに非ず、
悪道に堕ちて長時の苦を受く。
当に知るべし今生の我身二つ無し、三つ無し、徒らに邪見に堕ちて虚く
悪業を
感得せん、惜からざらめや、悪を造りながら悪に非ずと思い、悪の報あるべからずと
邪思惟するに依りて悪の報を感得せざるには非ず。
・第二章 懺悔滅罪
仏祖憐みの余り広大の
慈門を開き置けり、是れ
一切衆生を
証入せしめんが為めなり、
人天誰か入らざらん、彼の三時の悪業報必ず感ずべしと雖も、
懺悔するが如きは重きを転じて軽受せしむ、又滅罪清浄ならしむるなり。
然あれば
誠心を専らにして前仏に懺悔すべし、
恁麼するとき
前仏懺悔の功徳力我を拯いて清浄ならしむ、此
功徳能く無礙の
浄信精進を生長せしむるなり、浄信一現するとき、自他同じく転ぜらるるなり、其利益普ねく情非情に蒙ぶらしむ。
其大旨は、願わくは我れ設い過去の悪業多く重なりて
障道の因縁ありとも、
仏道に因りて
得道せりし諸仏
諸祖我を愍みて
業累を
解脱せしめ、
学道障り無からしめ、其功徳法門普ねく
無尽法界に
充満弥綸せらん、哀みを我に分布すべし、仏祖の
往昔は吾等なり、吾等が
当来は仏祖ならん。
我昔所造諸悪業、皆由無始貪瞋痴、従身口意之所生、一切我今皆懺悔、是の如く懺悔すれば必ず仏祖の
冥助あるなり、
心念身儀発露白仏すべし、
発露の力
罪根をして
銷殞せしむるなり。
・第三章 受戒入位
次には深く
仏法僧の
三宝を敬い奉るべし、生を易え身を易えても三宝を
供養し敬い奉らんことを願うべし、
西天東土仏祖正伝する所は
恭敬仏法僧なり。
若し
薄福少徳の
衆生は
三宝の名字猶お聞き奉らざるなり、何に況や
帰依し奉ることを得んや、徒らに
所逼を怖れて山神鬼神等に帰依し、或は
外道の
制多に帰依すること勿れ、彼は其帰依に因りて
衆苦を解脱すること無し、早く仏法僧の三宝に帰依し奉りて、衆苦を解脱するのみに非ず
菩提を成就すべし。
其帰依三宝とは正に浄信を専らにして、或は如来現在世にもあれ、或は如来滅後にもあれ、
合掌し
低頭して口に唱えて云く、南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧、仏は是れ
大師なるが故に帰依す、法は
良薬なるが故に帰依す、僧は
勝友なるが故に帰依す、仏弟子となること必ず
三帰に依る、何れの戒を受くるも必ず三帰を受けて其後
諸戒を受くるなり、然あれば則ち三帰に依りて
得戒あるなり。
此帰依仏法僧の
功徳、必ず
感応道交するとき成就するなり、設い天上人間地獄鬼畜なりと雖も、感応道交すれば必ず帰依し奉るなり、已に帰依し奉るが如きは
生生世世在在処処に増長し、必ず
積功累徳し、
阿耨多羅三藐三菩提を成就するなり、知るべし三帰の功徳其れ最尊最上甚深不可思議なりということ、
世尊已に証明しまします、衆生当に
信受すべし。
次には応に
三聚浄戒を受け奉るべし、第一摂律儀戒、第二摂善法戒、第三摂衆生戒なり、次には応に
十重禁戒を受け奉るべし。第一不殺生戒、第二不偸盗戒、第三不邪婬戒、第四不妄語戒、第五不酤酒戒、第六不説過戒、第七不自讃毀他戒、第八不慳法財戒、第九不瞋恚戒、第十不謗三宝戒なり、
上来三帰、三聚浄戒、十重禁戒、是れ諸仏の
受持したまう所なり。
受戒するが如きは、三世の諸仏の所証なる
阿耨多羅三藐三菩提金剛不壊の
仏果を証するなり、誰の
智人か
欣求せざらん、世尊明らかに一切衆生の為に示しまします、衆生
仏戒を受くれば即ち諸仏の位に入る、位
大覚に同うし已る、真に是れ諸仏の子なりと。
諸仏の常に此中に
住持たる、各各の方面に
知覚を遺さず、
群生の長えに此中に使用する、各各の知覚に方面露れず、是時
十方法界の土地草木牆壁瓦礫皆
仏事を作すを以て、其起す所の
風水の
利益に預る輩、皆甚妙不可思議の
仏化に
冥資せられて親き悟を顕わす、是を
無為の功徳とす、是を
無作の功徳とす、是れ
発菩提心なり。
・第四章 発願利生
菩提心を発すというは、己れ未だ度らざる前に一切衆生を度さんと
発願し営むなり、設い
在家にもあれ、設い
出家にもあれ、或は天上にもあれ、或は人間にもあれ、苦にありというとも楽にありというとも、早く
自未得度先度他の心を発すべし。
その形陋しというとも、此心を発せば、已に一切衆生の
導師なり、設い七歳の
女流なりとも即ち
四衆の導師なり、衆生の
慈父なり、男女を論ずること勿れ、此れ
仏道極妙の
法則なり。
若し菩提心を発して後、
六趣四生に
輪転すと雖も、其輪転の因縁皆菩提の
行願となるなり、然あれば従来の光陰は設い空く過すというとも、今生の未だ過ぎざる際だに急ぎて発願すべし、設い仏に成るべき功徳熟して円満すべしというとも、尚お廻らして衆生の
成仏得道に
回向するなり、或は
無量劫行いて衆生を先に度して自からは終に仏に成らず、但し衆生を度し衆生を利益するもあり。
衆生を利益すというは四枚の
般若あり、一者布施、二者愛語、三者利行、四者同事、是れ則ち薩埵の行願なり、其
布施というは貧らざるなり、我物に非ざれども布施を障えざる道理あり、其物の軽きを嫌わず、其功の実なるべきなり、然あれば則ち一句一偈の法をも布施すべし、
此生他生の
善種となる、一銭一草の財をも布施すべし、
此世他世の
善根を兆す、法も財なるべし、財も法なるべし、但彼が
報謝を貪らず、自らが、力を頒つなり、舟を置き橋を渡すも布施の
檀度なり、
治生産業固より布施に非ざること無し。
愛語というは衆生を見るに、先ず
慈愛の心を発し、
顧愛の言語を施すなり、
慈念衆生猶如赤子の懐いを貯えて言語するは愛語なり、徳あるは讃むべし、徳なきは憐むべし、
怨敵を
降伏し、君子を和睦ならしむること愛語を根本とするなり、面いて愛語を聞くは面を喜ばしめ、心を楽しくす、面わずして愛語を聞くは肝に銘じ魂に銘ず、愛語能く
廻天の力あることを学すべきなり。
利行というは貴賎の衆生に於きて利益の
善巧を廻らすなり、
窮亀を見
病雀を見しとき、彼が報謝を求めず、唯単えに利行に催おさるるなり、愚人謂わくは
利他を先とせば自からが利省れぬべしと、爾には非ざるなり、利行は
一法なり、普ねく自他を利するなり。
同事というは不違なり、自にも不違なり、他にも不違なり、譬えば人間の
如来は人間に同ぜるが如し、他をして自に同ぜしめて後に自をして他に同ぜしむる道理あるべし、自他は時に随うて無窮なり、海の水を辞せざるは同事なり、是故に能水聚りて海となるなり。
大凡菩提心の行願には是の如くの道理静かに思惟すべし、
卒爾にすること勿れ、
済度摂受に一切衆生皆化を被ぶらん功徳を
礼拝恭敬すべし。
・第五章 行持報恩
此発菩提心、多くは
南閻浮の人身に発心すべきなり、今是の如くの因縁あり、
願生此裟婆国土し来れり、
見釈迦牟尼仏を喜ばざらんや。
静かに憶うべし、
正法世に
流布せざらん時は、
身命を正法の為に
抛捨せんことを願うとも値うべからず、正法に逢う今日の吾等を願うべし、見ずや、仏の言わく、
無上菩提を
演説する師に値わんには、
種姓を観ずること莫れ、
容顔を見ること莫れ、非を嫌うこと莫れ、行いを考うること莫れ、但般若を
尊重するが故に、日日三時に礼拝し、恭敬して、更に
患悩の心を生ぜしむること莫れと。
今の
見仏聞法は仏祖面面の
行持より来れる
慈恩なり、仏祖若し
単伝せずば、
奈何にしてか今日に至らん、一句の恩尚お報謝すべし、一法の恩尚お報謝すべし、况や
正法眼蔵無上大法の
大恩これを報謝せざらんや、病雀尚お恩を忘れず三府の環能く報謝あり、窮亀尚お恩を忘れず、余不の印能く報謝あり、畜類尚お恩を報ず、人類争か恩を知らざらん。
其報謝は余外の法は中るべからず、唯当に日日の行持、其報謝の
正道なるべし、謂ゆるの道理は日日の生命を等閑にせず、私に費さざらんと行持するなり。
光陰は矢よりも迅かなり、身命は露よりも脆し、何れの
善巧方便ありてか過ぎにし一日を復び還し得たる、徒らに百歳生けらんは恨むべき日月なり、悲むべき
形骸なり、設い百歳の日月は
声色の奴婢と馳走すとも、其中一日の行持を行取せば一生の百歳を行取するのみに非ず、百歳の他生をも度取すべきなり、此一日の身命は尊ぶべき身命なり、貴ぶべき形骸なり、此行持あらん身心自からも愛すべし、自からも敬うべし、我等が行持に依りて諸仏の行持
見成し、諸仏の
大道通達するなり、然あれば則ち一日の行持是れ諸仏の種子なり、諸仏の行持なり。
謂ゆる諸仏とは
釈迦牟尼仏なり、釈迦牟尼仏是れ
即心是仏なり、過去現在未来の諸仏、共に仏と成る時は必ず釈迦牟尼仏と成るなり、是れ即心是仏なり、即心是仏というは誰というぞと
審細に
参究すべし、正に
仏恩を報ずるにてあらん。