心意識の運転を停め、念想観の測量を止めよ。 『普勧坐禅儀』
子細に見得する時、心と曰ひ、意と曰ひ、識と曰ふ。三種の差別あり。夫れ識と謂ふは、今の憎愛是非の心なり。意と謂ふは、今冷暖を知り、痛痒を覚ゆるなり。心と謂ふは、是非を辨まへず、痛痒を覚へず、墻壁の如く、木石の如し。能く実に寂々なりと思ふ。此心、耳目なきが如し。故に心に依て言ふ時、恰かも木人の如く鉄漢の如し。眼あれども見ず。耳あれども聞かず。此に到りて、言慮の通ずべきなし。是の如くなるは、即ち是れ心なりと雖も、此は是れ冷暖を知り、痛痒を覚ゆる種子なり。意識こゝより建立す。これを本心と思ふこと勿れ。 『伝光録』第51章