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タグ検索で峨山は10件見つかりました。
竺源
定義】''} [[總持寺]]二世・[[峨山]]韶碩[[禅師]]の[[法嗣]]で、[[峨山二十五哲]]の一人。号は竺源、名は超西。 生没年:不明 出身地:不明 俗 姓:大島氏 &color(blue){''【略歴】''} 南北朝時代の人とされるが、生没年は不詳。年を取ってから總持寺に到り峨山禅師に就いて、朝夕に[[修行]]に励み、[[嗣法]]するまでになった。能登国に梅香院を開創し、また、陸奥国では長谷寺・音声寺などの[[開山]]になったという。[[尼僧]]であったとも。…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%bc%b3%b8%bb... - 2008年09月07日更新
峨山
(blue){''【定義】''} 号は峨山、名は韶碩(または紹碩とも)。[[瑩山]][[禅師]]の[[法嗣]]であり、後に[[大本山]]となる[[總持寺]]を受け継いで、大いに発展させる事となった。弟子に[[峨山五哲]]などを輩出し、五哲が[[五院]]制度を構築して、教線を全国に展開することとなった。その門派を、[[峨山派]]という。現在の[[日本曹洞宗]]寺院の多く(9割以上)が、[[伽藍法]]の系統からすれば峨山派になる。 俗 姓:源氏 生没年:建治2年(1276)〜貞治5年(1366) 出身地:…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%b2%e5%bb%b3... - 2008年08月01日更新
峨山二十五哲
定義】''} [[總持寺]]二祖・[[峨山]]韶碩[[禅師]]の下に輩出された、優れた[[法嗣]]25人のこと。この祖師達と、その門葉が、いわゆる[[峨山派]]を形成することとなり、曹洞宗の全国典型の原動力と、[[總持寺]]の[[大本山]]としての地位確保を決定付けた。なお、江戸時代には次のような評価を受けている。 ''[[永祖]]の道、これ總持峨翁に五伝して、而も恢興す。興の所以は、職より門下五五哲の化蹟、五畿七道に碁布することに由るなり。就中、[[通幻]]の[[門風]]、最も魁なり。 『[[面…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%b2%e5%bb%b3%c6... - 2008年08月01日更新
總持寺
月には、[[瑩山]]禅師は寺を弟子の[[峨山]]韶碩禅師に譲り、自らは[[永光寺]]に帰った。そして、翌年の8月15日に示寂した。 なお、[[瑩山]]禅師は弟子の[[明峰]]素哲禅師を自らが建てた寺などの[[僧録]]として後事を託したが、總持寺だけは[[峨山]]禅師の法系がその後護持することとなった。[[峨山]]禅師は42年間もの長期にわたって[[住持]]の職にあって、その初期の立ち上げに大きく貢献している。 さらに、[[峨山]][[禅師]]には、特に勝れた[[法嗣]]が25名(28人とも)いたとされ…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%e5%c1%bb%fd%bb... - 2008年08月03日更新
峨山派
の[[法嗣]]で、[[總持寺]]二世[[峨山]]韶碩禅師の[[法系]]に属する一派のこと。 &color(blue){''【内容】''} 峨山禅師は多くの法嗣がいたとされ、それは[[峨山二十五哲]]と呼ばれるほどの数であった(一説には27人とも)。中でも、[[峨山五哲]]は總持寺に[[輪住制]]を布いて、その運営の中心を担うなどし、總持寺を中心とした門流の発展に寄与した。南北朝から室町期にかけてめざましい発展を遂げたのは、この峨山派の功績であるとされる。 この二十五哲は、各国の守護や領主層に浸透し、…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%b2%e5%bb%b3%c7... - 2009年05月09日更新
大徹
【定義】''} [[總持寺]]2世[[峨山]]韶碩[[禅師]]の[[法嗣]]で、總持寺8世の大徹宗令禅師のこと。 生没年:元弘3年(1333)〜応永15年(1408) 出身地:肥前(熊本県)または大隅(鹿児島県) &color(blue){''【内容】''} 大徹禅師は、若くして[[出家]]し、筑前妙楽寺の無方宗応に就いて[[得度]]、後に總持寺の峨山禅師に参じて、悟りを開いた。その[[因縁]]は「[[芭蕉拄杖話]]」であった。 後に自ら總持寺の[[住持]](8世)となり、[[退董…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%c2%e7%c5%b0... - 2007年01月25日更新
山雲海月
定義】''} [[總持寺]]2世・[[峨山]]韶碩[[禅師]]が貞治2年(1363)に撰述した宗義の書。全3巻。 &color(blue){''【内容】''} 峨山禅師が89歳の時に著され、全3巻の内、上巻には[[仏法]]の要旨を説き、更に臨済宗・曹洞宗・潙仰宗・法眼宗・楊岐派・黄竜派という[[五家七宗]]各派の[[宗旨]]の特徴を挙げており、中巻ではその[[説法]]を敷衍し、下巻では曹洞五位説を概説している。特に、五位説の解説では、第四位を兼中至とし、[[偏正五位]]の偏中至から変え…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%bb%b3%b1%c0%b3... - 2008年08月24日更新
無底
底抜けの禅機。 [[總持寺]]2世[[峨山]]韶碩[[禅師]]の[[法嗣]]・[[上足]]で、陸奥[[正法寺]][[開山]]、[[峨山二十五哲]]の筆頭。号は無底、名は良韶。資無くして[[遷化]]したことにより、後に[[正法寺]]の[[伽藍相続]]に関する問題が起きる。 生没年:正和2年(1313)〜延文6年(1361) 出身地:能登国(石川県北部) &color(blue){''【内容】''} 22歳にして、[[永光寺]]の[[明峰]]素哲[[禅師]]に就いて[[得度]]した無底禅師は、続いて[…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%cc%b5%c4%ec... - 2010年02月25日更新
五院
】''} [[總持寺]]2世である[[峨山]]韶碩禅師には、特に勝れた[[法嗣]]が25名いたとされているが、この中でも[[太源]]宗真・[[通幻]]寂霊・[[無端]]祖環・[[大徹]]宗令・[[実峰]]良秀の5人が主導的な立場となって、その後の[[總持寺]]運営に尽力した。そのために[[峨山五哲]]と称された。また、[[峨山五哲]]はそれぞれ[[總持寺]]の境内地に観応2年(1351)に[[普蔵院]]・[[妙高庵]]・[[洞川庵]]・[[伝法庵]]・[[如意庵]]という支院を建てて「五院」となした。 …
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%b8%de%b1%a1... - 2006年10月06日更新
峨山五哲
】''} [[總持寺]]2世である[[峨山]]韶碩禅師には、特に勝れた[[法嗣]]が25名いたとされている([[峨山二十五哲]])が、この中でも[[太源]]宗真・[[通幻]]寂霊・[[無端]]祖環・[[大徹]]宗令・[[実峰]]良秀の5人が主導的な立場となって、その後の[[總持寺]]運営に尽力した。そのために峨山五哲と称された。…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%b2%e5%bb%b3%b8... - 2006年10月06日更新