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タグ検索で詮慧は7件見つかりました。
御抄
弟子・京都[[永興寺]][[開山]][[詮慧]]禅師は、[[道元]]禅師の[[説法]]を聞いて、それによって諸宗への批判を行い、その上に達意的に[[曹洞宗]]の立場を構築しようとした。それを『正法眼蔵御聴書』といい、成立時期や成立方法については「諸悪莫作聴書」の巻尾に「''弘長三年二月日 [[寂光]]と我と聴書の上、予が聞書の詞を加うる也。取捨すべき者也。''」(原漢文)とあるため、弘長3年(1263)には成立し、それも[[寂光]]という僧と、[[詮慧]]が聞いた言葉を合わせて作られたことが分かる。 さ…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%b8%e6%be%b6... - 2007年01月04日更新
寂光
弘長3年(1263)の頃であり、また[[詮慧]]とともに寂光が加わっていたことが分かる。また、[[面山]]瑞方師は『[[訂補建撕記]]』にて、この者を「永貞寂光」とするが、その根拠は弱く、誤りともされる。…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%bc%e4%b8%f7... - 2010年08月19日更新
永興寺
[[道元]]禅師の[[法嗣]]である[[詮慧]]の[[開山]]である。 &color(blue){''【内容】''} 京都の永興寺は、現在寺基が残っていないことから、詳細は不明であるが、詮慧に関わりがあったことは明らかである。 ''師、[[嗣法]]の弟子は、[[懐弉]]、[[永平寺]]に住す。[[詮慧]]、永興寺に住す。[[僧海]]、師の在世に宇治[[興聖寺]]に於いて死去す。 『[[建撕記]]』'' また、永興寺が道元禅師の荼毘所だったことも以下の記述から知られる。 ''永興庵永平開山…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%b1%ca%b6%bd%bb... - 2007年06月06日更新
実智
(blue){''【定義】''} [[詮慧]]禅師の[[法嗣]]であるとされる。しかし、詳細は不明である。 俗 姓:不明 生没年:不明 出身地:不明 &color(blue){''【内容】''} 詳しいことは知られない実智だが、『[[正法眼蔵]][[御抄]]』の成立に関わったとされている。それは『御抄』「[[出家]]」巻の奥書に、[[経豪]]がこの註釈を行った理由を書いた後、実智が校正を行っていることから知られる。 ''此の抄、一自り、第七十五に至って、実智房一覧し了って、所存又、相違無しと…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%bc%c2%c3%d2... - 2007年06月08日更新
示真
(blue){''【定義】''} [[詮慧]]禅師の[[法嗣]]であるとされる。しかし、詳細は不明である。 俗 姓:不明 生没年:不明 出身地:不明 &color(blue){''【内容】''} [[大智]][[禅師]]より数えて4代の[[法孫]]である[[秀香]]が、弟子のために遺した文書(大久保道舟博士編『曹洞宗古文書(上)』「広福寺文書」の一として収録)に、[[曹洞宗]]の[[法脈]]系譜がある。それに、[[実智]]上人と並んで、示真上人を、永興開山([[詮慧]])の弟子として挙げる。…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%bc%a8%bf%bf... - 2007年06月08日更新
恵達
人と考えられるが、詳しいことは不明。[[詮慧]]とともに博多に行った際に、蘭渓道隆から手紙をもらってきたと、『[[建撕記]]』にある。…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%b7%c3%c3%a3... - 2008年03月31日更新
経豪
[[道元]]禅師にも参じ、その後法嗣の詮慧禅師に参じた。『[[正法眼蔵]]』の註釈書である『正法眼蔵[[御抄]]』を著した。 生没年:不詳 出身地:京都と推定 俗 姓:五辻宣経の子という説がある &color(blue){''【略歴】''} [[出家]]して比叡山に上り、法印位にまで上ったものの、叔父の花山院宰相入道が[[道元]]禅師に参じた因縁から、道元禅師の会下に入り、道元禅師示寂後は[[法嗣]]である詮慧の弟子となり、その法嗣となった。詮慧にしたがって京都・[[永興寺]]に赴き、師の成果を受…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%b7%d0%b9%eb... - 2007年04月27日更新