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タグ検索で天桂は9件見つかりました。
螺蛤老人演説拾唾
】''} 江戸時代の[[学僧]]・[[天桂]]伝尊[[禅師]]による提唱録。写本のみで伝わる。内容から、享保20年(1735)、天桂禅師88歳に退蔵峯で行われた[[提唱]]を記録した文献。 ''秋、退蔵峯に在りて、衆の為に円覚経を開示す。都衆七百余名、遠近の[[道俗]]、大いに化に沐す。此の会、也た諄諄として、本来成仏及び[[八相成道]]・[[魔説]]等の玄旨を指点す。婆心、太だ徹困するなり。 『天桂和尚年譜』「二十年乙卯」項'' 以上から、天桂禅師最晩年の教えであることが知られる。なお、本来成…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%cd%e6%c8%ba%cf... - 2022年03月04日更新
供養参
'【定義】''} 江戸時代の宗匠・[[天桂]]伝尊[[禅師]]による[[仮名法語]]である。刊記や筆録者なども明らかではないけれども、天桂が浪華蔵鷺庵在住の時に書かれたものということで、元禄4年以後の物と推定される。なお、『続曹洞宗全書』「法語・歌頌」巻では『[[千里一鞭]]』と『供養参』とを合わせて、『天桂伝尊和尚法語集』として収録されている。 &color(blue){''【内容】''} 『供養参』は、[[在家]]の一[[居士]]の[[請益]]に答えて、[[三宝]][[供養]]の[[功徳]]や、…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%b6%a1%cd%dc%bb... - 2009年04月07日更新
父幼
の石門の下で出家し、諸方で参学した後に、天桂伝尊の法嗣である、鶴岡破鏡庵無画鉄文に参じて、嗣法した。その後は、大山の祐性院に住し、天明7年(1787)には周防の洞泉寺に転住した。 岩国藩主の吉川経倫は、父幼の徳を慕って同地の善住寺を復興して父幼を開山に迎えた。 そして、翌年には[[興聖寺]]に請せられて[[住持]]として入るが、『正法眼蔵』開版を巡って幕府に咎められたとも言われており、鶴岡破鏡庵に戻っている。 文化2年11月2日に[[遷化]]しており、[[世寿]]82歳であった。 &color(b…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%c9%e3%cd%c4... - 2007年01月27日更新
永祖略録蛇足
解』などの異本が知られる。古来より、[[天桂]]伝尊の撰述と伝えられたが、本書を詳細に見ていくと、その中に、天桂の説示を示す語句が複数あるが、それは天桂の提唱を拝聴した門人による記載であり、現在では天桂四世の法孫・[[父幼]]老卵の撰述であると推定されている。 『永平略録』註釈書の中でも、平易懇切さでは、群を抜くという評価がある(『[[曹洞宗全書]]』「解題」参照)。また、現在では、『曹洞宗全書』「[[注解三]]」巻にて見ることが出来る。…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%b1%ca%c1%c4%ce... - 2015年03月02日更新
那一宝
[[正法眼蔵]]』の註釈書。なお、父幼は天桂派であり、『那一宝』は[[天桂]]の『[[弁註]]』を継承しながら、『[[御抄]]』などの解釈とのすりあわせを行っていることがその特徴である。 &color(blue){''【内容】''} 父幼は天桂の法孫として、その天桂に負けないほど[[道元]]禅師を追慕し、その念によって『[[正法眼蔵]]』を註釈した。ただ、『那一宝』は撰述時期や開版時期については不明な点が多い。 本来『弁註』は60巻本を中心に註釈されており、また天桂の宗乗眼によって合計78巻のみが『…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%c6%e1%b0%ec%ca... - 2007年01月05日更新
天桂
){''【内容】''} 紀州で生まれた天桂伝尊は、窓誉寺伝弓に就いて[[出家]]し、18歳には尾張[[万松寺]]の祖海、[[可睡斎]]の衡天、[[興聖寺]]の龍蟠等に参じている。その後も、瑞龍寺の鉄眼に『楞厳経』、泉涌寺戒光院如周に『法華経』を、慈光寺の玄忍に戒律を学ぶなどの諸方の参学を終えたのち、駿河静居寺の五峯海音に参じて[[嗣法]]した。なお、他にも渡来僧である東皐心越や不生禅を主張していた臨済宗の盤珪永琢などにも参じたことが知られている。 天桂は壮年となって以降、65歳から志して『[[正法眼蔵…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%c5%b7%b7%cb... - 2008年02月13日更新
千里一鞭
'【定義】''} 江戸時代の宗匠・[[天桂]]伝尊[[禅師]]による[[仮名法語]]を集めたもので、天桂の[[法孫]]である[[父幼]]老卵の撰した序文を載せる。この序文は、安永3年(1774)に書かれ、またその翌年刊行された。全一巻。なお、『続曹洞宗全書』「法語・歌頌」巻に収録され、そこでは『千里一鞭』に『[[供養参]]』を合わせて、『天桂伝尊和尚法語集』として収録されている。 &color(blue){''【内容】''} 『千里一鞭』は、「[[高祖]][[道元]][[禅師]][[古仏]]示誨」と…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%c0%e9%ce%a4%b0... - 2009年04月07日更新
見性嗣法
(blue){''【定義】''} [[天桂]]伝尊が唱えた嗣法観で、[[卍山]]系統の「[[面授嗣法]]」に対する。[[師資]]がただ、[[相見]]して[[嗣法]]が成立するという「面授嗣法」に対し、見性することで嗣法が成立するという考え方のことで、江戸時代を通じて異端であるとされたが、近年は儀軌へ傾倒した宗門嗣法の現状への批判とともに、天桂の真意に探るべきものがあると再評価がされるようになっている。 ''大凡、嗣法の時、須く[[授記]][[嗣法]]に権実の区別有ることを知るべし。其の実乗を談る、…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%b8%ab%c0%ad%bb... - 2008年02月13日更新
弁註
】''} 江戸期の曹洞宗が輩出した[[天桂]]伝尊による『[[正法眼蔵]]』の註釈書。なお、江戸時代より前には[[詮慧]]・[[経豪]]の『[[御抄]]』があるが、江戸期に入ってから全巻に対する本格的な『正法眼蔵』註釈書は、この『弁註』が最初となる。 &color(blue){''【内容】''} 江戸期に入ると、幕府は学問を奨励し、各宗派の僧侶は自宗の開祖が記した著作の参究を始めた。日本曹洞宗では、『正法眼蔵』の特定の巻について開版され、徐々に世に広まりつつある状況にあって、天桂は自身が仏知見を開い…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%ca%db%c3%f0... - 2007年01月05日更新