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日本語と言葉にこだわる

みんなという「場」の持つ圧迫


片岡義男「日本語の外へ」に書いたように、主語の無い日本語の文は、「場」が主語であると理解するとより意味が明解になることがあると私には思えます。このような「場」というシステムが、日本語の中に組みこまれていて、ある時まではそれで平和にやってきたのですが、そこに欧米から主語と主語が媒介なしに直接ぶつかって「合意」に至る新しいシステムが持ちこまれました。

「場」と「合意」のよじれた整理されてない関係が、現代の日本において、さまざまな人間関係のトラブルに現れているのではないでしょうか。



英語2ちゃんねると日本語ロック



英語をしゃべる人には、ロックの中で英語という言語が果たした役割が理解できないだろう。同じように、日本語をしゃべる人には2ちゃんねるの中で日本語という言語が果たした役割を理解するのが難しい。日本の言語と文化が2ちゃんねるを生み出した必然を理解できない。それが輸出する側の強みであり弱みである。



片岡義男「日本語の外へ」


一方「腹へった」と日本語で言う時、普通そこには主語がない。主語は「僕」ではなくて「場」である。「場」が空腹なのであり、そこにいる人は「場」に参加することを暗黙のうちに要請されている。これをしいて英訳すると"Be hungry!"というやはり主語がない表現になる。つまり「おまえも腹がへったという状態になれ」と命令されているのである。つまり、日本語はその場に人を閉じこめて永続化していく力を持っている。



カタカナ語に歯止め策


スキーム、アジェンダ、アセスメント、コミット・・・官庁がこういう外来語を多用するのは、「やる気の無さ」を表現しているのだ。それに気づけば、これが適切な言葉使いであり、認知度の高い言葉と低い言葉を状況に応じて使いわけている日本の官僚は優秀なんだと改めて感じるだろう。一般論としては日本語への言い換えは賛成だが、公用文書については、空疎な外来語を実質的な日本語に直すことで、「仕事したくねえ!」という気分が文書から消えてしまうことのないよう注意してもらいたい。

吉野屋/論語/Just for fun



普遍的でなくてよいなら、俺も「声に出して読みたい」テキストとして推薦したいものがある。「吉野屋」と「阪神大震災」と言えばわかる人にはわかるしわからない人にはわからない。「1の母」というのもある。どれも、声に出して読みたいだけの力を持ったテキストである。だから、あれほど繰り返しあちこちに表れてくるのである。だから、あれほど多くのバリエーションが生まれるのである。そもそも物語りというのは本質的には「読み人知らず」なのであって、この点でもコピペ文は文学の伝統にのっとっている。



2ちゃんねるは「言霊」の制約を受けない場である


「明日、運動会です」というスレがたてば、とりあえず「雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨」というレスがつくのが2ちゃんねるだ。ひととおり忌み言葉を吐き出してから、意味のある話が始まる。話がもりあがってくれば「おめでとう、明日の降水確率80%」等とギコ猫が言いはじめる。日本で、本当に危機管理の議論ができるのは2ちゃんねる以外に考えられない。実際に専門家が本音で(AAや煽りの間をぬってだが)真摯な議論をしている。他の場における議論とどこが違うのか細かく観察していくと、ここでの発言は「言霊」問題に制約されないというポイントに行きつく。



トクモリ、ツユダク、ハイリマス



「特盛、つゆだく、入ります」という奇妙な言葉使いには俺は相当な違和感がある。つゆだくはまあいい。新語なのかそうでないのか知らないが、語感が和風であって意味も直感的によくわかる。問題なのは「入ります」という言い方で、「いったい誰がどこへ何のために入るのだ」とからみたくなってくる。まさか俺の口の中に牛丼が入ることを宣言しているのではないだろう。それは注文した直後に発声される言葉であり、「口に入る」という事象はまだはるか未来のことだ。まだそのフェーズに到達していない。それでは入るのは何なのか、熟考を重ね、ようやく「注文」ではないかという仮説を得た。「注文」だとしたら逆に「入りました」になるべきではないかという疑念が残るのだが。




2ちゃんねるが歴史になる時


未来の歴史学者が21世紀初頭を研究しようとしたら、一次資料として2ちゃんねるのログをチェックするだろうな。それを勉強する学生たちは、俺たちが「春はあけぼの」とか「いとをかし」とかを覚えるような感じで、「逝ってよし」とか「氏ね」とかという単語を一生懸命暗記したりしてるかもね。


地獄の釜をもっともっと熱くするんだ


その結果何が起きてるかと言うと、非常にスピードのある日本語が産まれつつあるのだ。つまり、ネットのスピードに見合った、前置きなしのスピーディなやりとりが可能になっている。確かに、大半の書きこみは不快感をもよおす意味のないものだ。「便所の落書き」という有名な表現が最もよくあてはまる所である。しかし中には非常に鋭い意見や深い学識を感じさせる書きこみが、ごく少数だが存在する。そういう者同士が議論を戦わせている場合には、非常に密なやりとりが行われている。もし、その両者が他の場所で出会っていたら短時間であそこまで深い議論はできないだろうと、感じさせる独特のスピード感がある。



自立



「自立」ってのは変な言葉で、実体としてはアナログなのに概念としてはデジタルになっている。どういうことかと言うと、「きのう、金を拾った」と言えば「いくら」と答えることは普通だが、「あの人は自立した人だ」と言って「どのくらい」と答えたらいかにも変だ。「そうだね」と言うか、「いや、あの人は自立してない」ということで、納得すればそれで話は終り、そうでなければ議論になってどちらが正しいか結着をつけなくてはいけない。結局、1か0か○か×か、デジタルな概念として扱われている。



2007年06月21日(木) 17:46:16 Modified by uncate




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