「右」の諸君、米国が、戦前、日本、ひいては東アジアに対して犯した犯罪と戦後日本がその占領下にあることに憤れ。「左」の諸君、米帝国主義への憤りを忘れたのか、その米帝の植民地となっている現状に甘んじ続けるのか。日本独立に向けて決起を!〜作成中

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1 始めに


 既に(コラム#6181、6228と)二度登場したところの、TAさん提供の笠原十九司『日中全面戦争と海軍--パナイ号事件の真相』(青木書店 1997年)の概要を紹介し、私のコメントを付したいと思います。
 なお、笠原は、1944年生まれで東京教育大文学部卒の都留文科大学名誉教授であり、「同大学院修士課程中退。宇都宮大学教育学部教授、都留文科大学教授<等>を経て、・・・東京大学 学術博士・・・<となる。>
 南京大虐殺研究者の1人。南京大虐殺紀念館の虐殺犠牲者を三十万人以上とする見解は根拠がなく過大に見積もられているとするものの、少なくとも十万人以上の虐殺があったとする立場をとる。本来は中国近代経済史が専門だったが、1980年代半ばから南京大虐殺の研究を開始し、歴史認識論争に巻き込まれたことで、戦史研究が主となった。・・・
 笠原は、著書『南京事件』III章の扉の写真として、・・・『日寇暴行実録』(中国国民政府軍事委員会政治部、1938年)に掲載されていた写真を、「日本兵に拉致される江南地方の中国人女性たち」のキャプションで掲載した(原典のキャプションは「江南地方の農村婦女が、一群また一群と日本軍司令部まで押送されて行き、陵辱され、輪姦され、銃殺された」というものであった)。しかしこの写真は実際には『アサヒグラフ』昭和12年11月10日号に掲載された「我が兵士(日本軍)に援けられて野良仕事より部落へかへる日の丸部落の女子供の群れ」という写真であることが秦郁彦により指摘された。笠原は、朝日新聞カメラマンが撮った写真を中国国民政府軍事委員会政治部が悪用したものであったことに気づかず、自らが誤用してしまったことを謝罪した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/笠原十九司
という人物です。

2 パナイ号事件


 「アメリカの歴史書においてパナイ号事件に「真珠湾への序曲」「日米戦争への序曲」というキーワードが使われるのは、パナイ号撃沈と真珠湾奇襲とは、規模は異なるものの、日本海軍機の「不意討ち」「騙し討ち」という「卑怯な行為」によってアメリカが戦争を挑発されたことにおいて共通するという認識を示している。それはまた、日中全面戦争の初期にパナイ号事件を引き起こした戦争環境が、そのまま膨張を続けて、日米戦争(アジア太平洋戦争)開戦にいたったという歴史認識に立っている。
 アメリカの歴史書が、パナイ号事件を「日米戦争への序曲」と叙述するときに、かならずセットで記述されるのが南京大虐殺事件・・・である。同じ南京攻略の渦中で発生した両事件は、日本軍国主義の不法性、侵略性、残虐性の内実が、コインの両面の形で、露呈したものとみなされた。」」(13〜14)
 
→ここは興味深い指摘です。米側の認識はそんなものだろうとは思いますが・・。(太田)


 「私が深刻な衝撃を受けたのは、村山内閣が政策方針で提起した侵略戦争反省と謝罪の決議を、形式的には議会制民主主義の手続きをとおして、国民の側がその実現を妨げ、骨抜きにしたことであった。政府ではなく、国民の動向が国の政策を誤らせることがあるという事実を知った。このことは、戦争政策と国民の関係を考えるとき、一方的に戦争に動員され、犠牲となった国民という単純な構図ではなく、国民の側に戦争政策に便乗、加担し、戦争拡大になだれ込んでいった側面があったことの責任も問われなければならない、という本書の問題意識になった。」(337)
 
→本を読むときには序文と後書きをまず読むことにしているのですが、このくだりには呆れました。
 それは、戦前の日本が自由民主主義的国家であったという認識がどうやら著者にはなかったらしく、「国民の側に戦争政策に便乗、加担し」という記述から窺えるように、戦争政策策定の主体は国民ではなかったと著者が思っているらしいことについてです。(太田)


 「パナイ号事件、南京事件に対する日米両国民の歴史認識の隔絶は、主として日本側の歴史研究の遅れと、国民の戦争認識の貧弱さに起因している。」(14)
 
→著者には米側の歴史認識は絶対に正しいという思い込みがあるようですが、このことを含め、少なくとも日本国民たる著者の「歴史研究の遅れ」と「戦争認識の貧弱さ」には蔽い難いものがあります。(太田)


 「日本国内でマスコミが「報道一番乗り」を競って南京城占領の誤報を流し、官庁が勇み足の祝賀行事の音頭を取り、それに便乗して教育界が生徒・学生を祝賀行進に駆り出していた12月12日、南京では夜明けとともにかつてなく激烈な日本軍の攻撃が開始された。・・・
 12月12日の朝、アメリカの砲艦パナイ号は、日本軍の砲弾を避けて、南京上流約20キロの地点に停泊していた。そのときパナイ号には艦長のヒューズ少佐以下将校・乗組員59名、南京アメリカ大使館員4名、アメリカ人ジャーナリスト5名、イギリス人ジャーナリスト1名、イタリア人ジャーナリスト2名、他1名が乗っていた。パナイ号はアメリカ・アジア艦隊<(*1)>のヤンツー・パトロール(揚子江警備隊または長江警備隊)<(*2)>に所属する河川用砲艦で、1928年に上海の江南造船所<(*3)>で竣工、同艦は・・・450トン、二つの3インチ砲と10挺の口径30ミリ機関銃を備えていた。・・・アロー戦争(第二次アヘン戦争)の結果締結した北京条約(1860年)<(*4)を受け、>・・・アメリカは長江流域でのアメリカの商業活動を護衛する目的で、・・・揚子江警備隊を創設し<てい>たのである。・・・
 パナイ号は、3日前まで南京の下関(シアカン)埠頭に停泊していた。それは、日本軍包囲下の南京城内に、15人のアメリカ人宣教師らが戦争難民救済のため残留し、さらに5人のアメリカ人記者・カメラマンが踏みとどまって取材活動をしていたため、これらのアメリカ市民を保護するためであった。しかし、日本軍・・・<による>陸上からの砲弾と、空からの爆弾に追われるようにして、少しずつ南京から遠ざかっていたのである。
 このときパナイ号に乗船していた南京アメリカ大使館員は、<文官2名、武官2名>の4名であった。・・・<彼らは、>駐華大使ら主要スタッフが11月23日に武漢へ移っていったあとも南京アメリカ大使館に留まっていた。しかし、・・・あまりにも危険になったために、12月9日に大使館を一時閉鎖して南京城内を引き揚げ、無線施設をそなえたパナイ号に臨時の大使館分室を置いたのである。」(20〜23)
 

 「1937年・・・8月13日、第二次上海事変が勃発する。8月30日、中国は国際連盟に対して、日本の行動は不戦条約および九ヶ国条約に違反すると通告し、措置を取るよう提訴した。これを受けてフランクリン・ルーズベルト大統領は、10月5日に、日本を非難する隔離演説をシカゴで行った。・・・同年11月3日から24日にかけて、ブリュッセル会議(九ヶ国条約会議)が開催され、日本側は欠席していたが、米英は日本への非難を弱めていた。・・・
→米英は(宣戦布告こそしていないけれど)対蒋介石政権戦争を行っていた日本に対して敵対的態度を取っていたわけです。(太田)
 第二次上海事変勃発から約4ヶ月後、日本軍は中国軍の後継を退け、首都南京へ向けて追撃戦をおこなっていた。海軍航空部隊も大陸に地歩を進めてこれを支援して、敗走する中国軍部隊への銃爆撃、撤退部隊を乗せたジャンクの爆撃、輸送機関、輸送施設の爆撃などさまざまな作戦を展開していた。・・・
 12月8日、日本は、第三国人は一律に南京を立ち退くように申し入れを行い、翌9日、揚子江沿岸各地において各国がその船舶車輌を中国軍から遠ざけ、交戦地域外に移転するように通報した。中国軍は外国旗を掲揚して外国船を偽装した中国船に乗船したり、あるいは外国船を借用したり、さらには中国軍に味方した外国船に護送されて南京からの脱出を図っていた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/パナイ号事件
 
→そして、日本は、米英を含む第三国人に南京を立ち退くように求めた後、更に、揚子江沿岸各地において各国がその船舶車輛を中国軍から遠ざけ、交戦地域外に移転するよう求めていたわけです。
 一連の事件が起こったのはその3日後です。
 すなわち、米英の艦艇等は退避する十分な時間的余裕があったというのに、交戦地域外に出ていなかったことになります。
 日本の陸海軍は、蒋介石政府軍と米英の艦艇等が通じていると強く疑っており、そのことにはそれなりの根拠もあった中で、当然そのように日本の陸海軍が考えていることくらい想像できてしかるべきであるにもかかわらず、米英の艦艇のとった行動は、著しく危険かつ自殺的なものであったと言っても過言ではありません。
 要するに、彼らは、日本の陸海軍、ひいては日本をなめきっていたのです。(太田)


 「12月11日午後6時に、南京より退却する中国軍を撃滅するために第10軍が発した丁集団命令(丁集団司令官・柳川平助中将)<は、>・・・一、敵は10数隻の汽船に依り午後4時30分頃南京を発し上流に退却中なり、尚今後引続き退却するものと判断せらる、二、第18師団(久留米)は蕪湖<(*5)>付近を通過する船は国籍の如何を問わず撃滅すべし、というものであった。
 これは、中国軍が外国国旗を掲揚して外国船に偽装した中国戦に乗船したり、あるいは外国船を借用したり、さらには中国軍に味方した外国船に護送されて、南京からの脱出を図っているという情報が日本軍側に流布されていたことによる。」(44)
 
→従って、このような命令が発出されたのは、やむをえなかった、と思います。(太田)


 「<このような背景下、何度も、米国務省を通じて日本の外務省にはパナイ号を攻撃しないように連絡してあったにもかかわらず、(同艦>に搭乗していたのは米将校5人、兵士54人、米大使館員5人、民間人10人<であったところ)、南京上流約45kmにあった同艦を>、日本軍機<が>攻撃<し>、死者が3人、重傷者は48人<出>た。また、同船に先導案内されていた米国スタンダード・バキューム・オイル社のメイピン(美平)号、メイシア(美峡)号、メイアン(美安)号にも同様の危害<が>加え<られ>た。」
(但し、「南京上流約45km」はパナイ号ウィキによる。)
 
→もとより、米国の艦艇等が、まさに真正な米国の艦艇等であって、しかも、中国軍を護送していないことを証明できれば別であったでしょう。
 しかし、それを一見明白に証明できなかったパナイ号等は、このように攻撃されてしまったわけです。
 また、日本陸軍の舟艇が、まさに真正な日本陸軍の舟艇であることを証明できれば別であったでしょう。
 しかし、それを一見明白に証明できなかった日本陸軍の舟艇は、下掲のように、やはり、攻撃されてしまったわけです。(太田)


 「<更に、この時の>日本軍機の空襲の巻き添えをくっ<たところの、(>・・・パナイ号に・・・機関銃掃射を加えた・・・<)日本陸軍の>哨戒艇<は、>・・・第10軍・国崎支隊所属の永山部隊(独立工兵第10連隊)の支隊・・・である歩兵中隊(丸橋中隊長)<のものであり>・・・死者2名、負傷3名の犠牲を出した・・・
 海軍機が誤って歩兵部隊を爆撃しているくらいであるから、日本側の資料からは、航空部隊と地上部隊がまったく連絡もないことが分かるが、いっぽう攻撃されたパナイ号の当事者にとっては、アチソンの次のような日本の陸・海共同による「故意」爆撃という情況判断がなされたのも無理からぬことである。・・・
 ・・・日本軍が爆撃の証言者を抹殺するために、我々を探していたということは疑問の余地がありません。」(36〜39)
 
→著者は「全く連絡もない」と呆れたように言っていますが、上級司令部の間では当然連絡があったからこそ爆撃が行われたのであり、単に、現地の陸軍地上部隊と上空の海軍航空部隊の間で直接連絡をとることはできなかったということにほかなりません。
 しかも、この爆撃は、近接航空支援ではなく、あくまでも艦船の撃破を目的とした海軍航空部隊による爆撃ですから、本来、現地陸軍部隊との直接連絡の必要性はそれほどなかったはずです。
 これが、近接航空支援を行う陸軍航空部隊と同じ陸軍地上部隊の間でならどの程度直接連絡がとれたのか、また、同時期の各国の軍ではどうだったのか、興味のあるところです。
 他方、著者が米側の言い分に無条件で理解を示していることは理解に苦しみます。(太田)


 「<同じ12月12日には英国船に対する以下のような事件も起きていた。>
 午前<には、>・・・イギリスの材木会社のタグボート・清大号が、南京から避難してきた在南京英国領事、領事館付陸軍武官および長江守備の英国海軍小艦隊の旗艦ビー号<(*6)>の艦長を乗せて蕪湖に到着し、彼らが蕪湖に停泊していたレディーバード号<(*7)>に乗船した後、・・・長江岸の日本軍から清大号に向けて機関銃射撃が加えられた。レディバード号はただちに発進して清大号に横付けとなり、これを守り、清大号が下流へ射程距離を脱するのを防護した。このとき、川岸に備えられた日本軍の野戦の放列から、Asia石油会社施設の上流にかたまっているイギリスの商船めがけて砲弾が撃ち込まれた。・・・レディーバード号がもとの停泊位置についたところ、4発の砲弾が同艦を直撃し、看護水兵・・・が死亡、一人が重傷を負い、旗艦艦長を含めた数人が軽傷を負った。
 ・・・旗艦ビー号がそこに到着し、停泊地に横付けしようとしたとき、ふたたび川岸の放列から砲撃を受けた。一発は400ヤード・・・の距離から撃たれ、船上を越えていったが、ビー号は直撃弾を受けなかった。そのとき、レディバード号の旗艦艦長と領事館付武官が上陸してまず砲撃を止めさせた。それからビー号の参謀長も上陸して日本軍の上級指揮官に面会を求め、強い抗議をおこなった。英国砲艦に砲撃を加えた日本軍は、第10軍に所属する野戦重砲兵第13連隊で、連隊長は国家主義者の橋本欣五郎大佐であった。」(42〜43)
 

 「<午後には、>護衛船をともなった英国砲艦クリケット号とスカラブ号<が>、南京上流12マイル・・・の地点で午後3回にわたって空襲され・・・18発の爆弾が落とされ・・・一発が商船に命中したほかは命中弾なし<という事件が起こった。>」(29)
 
→英国の艦艇等についても、全く同じことが言えます。(太田)


 「橋本欣五郎<(*8)(コラム#4376)>(1890〜1957)は、ファシスト運動を推進した軍人。国家改造を目的に参謀本部少壮将校等を集めて桜会を結成、1931年満州事変に前後した軍部のクーデター未遂事件である三月事件、十月事件の首謀者とな<り、>十月事件で行政処分をうけ、二・二六事件後の祝軍によって大佐で予備役となると、ファシスト運動を推進するべく大日本青年党を結成した<ところ、>日中全面戦争が勃発したため、召集され、野戦重砲第13連隊長として、南京から撤退する蕪湖付近の中国軍を殲滅する作戦任務を遂行していた。・・・
 ビー号の参謀長は橋本との面会の様子を上海の英国代理大使ホーウィに対してこう打電した。
 ・・・私は・・・強い抗議を行った。彼はくだらない言い訳をしたが、軍艦を砲撃したのは彼のミスであったこと、および日本軍は長江にあるすべての船を砲撃するように命令されていたことを認めた。
 日本軍の最高司令部に対して至急、蕪湖およびその下流にイギリスや他の外国の商船、軍艦がいることを悟らせる必要がある。蕪湖の日本軍には、この事実が知らされていないふしがある。」(43〜44)
 
→「英国砲艦に砲撃を加えた<のは>・・・野戦重砲第13連隊で、連隊長は国家主義者の橋本欣五郎大佐であった」と著者は書いていますが、「国家主義者」という意味が必ずしも明らかではない言葉ではなく、著者自身が脚注で用いているところの、「ファシスト」という言葉を用いた方がよかったと思いますが、いずれにせよ、本文中で橋本を「ファシスト」呼ばわりすることにいかなる意味があるのか不明です。
 ビー号の参謀長との面談の際の橋本の言からは、「ファシスト」的なものは何も感じられないからです。
 また、そもそも、橋本を「ファシスト」呼ばわりすることそのものが問題です。
 その理由ですが、まず、史実を押さえておきましょう。


 「参謀本部の橋本欣五郎中佐、長勇・・・少佐らは、政党政治が腐敗しているとするとともに国民の大多数を占める農民の窮状に日本の将来が危惧されるとして、いわゆる満蒙問題を主張し農民の窮状解決の活路を求めた。また、従来の反ソ親米路線を廃し反米反中への転換と政党内閣を廃して軍事政権を樹立する国家改造構想を抱いていた。彼らは1930年9月に桜会を結成<した。>・・・橋本・長らを中心とした急進的なグループは、大川周明らと結んで、1931年・・・3月の三月事件、同年10月の十月事件を計画(いずれも未遂)。・・・組織は十月事件後に解散させられたが、同会に所属していた会員の中から多くの将校が統制派として台頭。対立する皇道派が二・二六事件を契機に一掃されるに及んで、軍部の中枢を掌握した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/桜会
 

 「1928年・・・当時、・・・日本陸軍中央(木曜会(ついで一夕会)および参謀本部第一部)の「満蒙領有方針」<においては、>満蒙問題の解決のみならず、対ソビエト連邦戦争をはじめとする国家総力戦対応の要請から、満蒙の実質的領有をめざす立場<をとっており、満蒙における>中国の主権<を>まったく否定<しようとしていた。>・・・1931年・・・9月の柳条湖事件よりはじまる満州事変は、一般に、1929年よりはじまった世界恐慌の甚大な影響を受けて日本が陥った1930年代初頭の経済的苦境(昭和恐慌)や農村の疲弊(農業恐慌)を打開するため、石原莞爾や板垣征四郎ら関東軍によって計画・実行されたものとの見方が多い。しかし、実際には世界恐慌に先だって、満州事変につながる満蒙領有方針がすでに打ち出されていたのである。世界恐慌は満州事変を計画した軍人たちにとっては、かねてからの方針を実行にうつす好機となった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/満蒙問題
 
 つまり、橋本の言動は、やや過激ではあったものの、陸軍中央(?霎嶇ę淹濱鑪?鯆謬瓩靴討い薪鎛?鼻砲寮嚙?力汎發里發里任靴燭掘△海領Ψ鈎羆萁?篆覆靴神嚙?蓮∪は世了抻釥△箸蠅錣泳鬠?濬仔?椰誉は世龍唎せ抻鈇鮗擷韻燭發里任△辰唇幣紂?極椣貎佑鯑辰縫侫.轡好噺討个錣蠅垢襪里呂Ľ?靴ぁ△噺世Δ戮?任靴腓Α?
 更に言えば、陸軍中央は、あくまでも対赤露抑止戦略を全うならしめるために、議会制の存続を前提に、挙国一致内閣の樹立や軍事予算の大幅増や国家総動員体制の樹立、そして、満蒙の対赤露緩衝地帯化、等を求めていただけのことであり、これは、客観的に見て、しごく軍事合理的にして自衛的な政策であって、人種主義的立場から独裁制の下で領土拡大を目指した対外政策をとるファシズム・・例えば、スペインのフランコの体制とは根本的に異なるのであり、陸軍中央、ひいては世論についても、これらをファシスト呼ばわりするのはおかしいのです。
 この際、付言しますが、橋本のビー号の参謀長への対応には首を傾げざるを得ません。
 彼は、「日本軍は長江にあるすべての船を砲撃するように命令されていた」ことを伝えるだけでなく、日本当局から退避勧告がなされていたにもかかわらず、英艦艇群が戦闘区域内に留まっていたことに抗議した上で、それが英軍艦艇群であるかどうか、かつまた、蒋介石軍に協力していないか、の見極めがつかなかったので攻撃せざるを得なかったと述べ、しかし、この面談で疑いが晴れた以上、英艦艇群に人的物的被害が生じたことは、個人的には遺憾であった、と結ばなければならなかったのです。
 「くだらない言い訳をした」挙句、「軍艦を砲撃したのは・・・ミスであった」などと橋本が述べた(らしい)ために、ビー号の参謀長をして、「日本軍の最高司令部に対して至急、蕪湖およびその下流にイギリスや他の外国の商船、軍艦がいることを悟らせる必要がある。蕪湖の日本軍には、この事実が知らされていないふしがある。」などという、全く事実に反するピンボケ報告を行わせてしまったわけです。
 (英国や米国の艦艇群がいることを知っていたら、日本は英国や米国を恐れているだろうから、日本軍は何が何でも英国や米国の艦艇群への攻撃を回避するはずだ、という(傲慢な)思い込みがその背景にあったに違いないのですが、この「誤解」を橋本は解こうとしなかった、ということです。
 これも、人間主義が誤解を呼んだ一例ということになりそうです。)
 一番問題なのは、現場の責任者である橋本が攻撃がミスであることを認めた結果、それだけで日本政府の賠償責任を事実上確定させてしまったことです。
 いくら橋本に(トルコ)駐在武官経験があったとはいえ、彼にそこまで外交官的センスを求めるのは、いささか酷かもしれませんが・・。(太田)


 「12月12日のこの日は、パナイ号の安否をめぐって、南京--漢口<(*9)>--ワシントン--東京の間を電波が慌ただしく行き交・・・<った。>
 まず、揚子江警備隊司令官から中国駐留米軍総司令官への作戦情報として以下の電報が発信された。
 パナイ号は再び砲火の危険にさらされ、上海への移動を余儀なくされた。ジャップはパナイ号の周辺にいるジャンク船や小舟を狙って砲撃しているものと信じられる。午前9時に、イギリス砲艦レディーバード号が蕪湖のアジア石油施設の近くでジャップの砲列の攻撃を受け、4発の砲弾が命中し、水兵一人が死亡、数名が負傷した。イギリス砲艦ピー号も直接の砲火にさらされているが、まだ被弾していない。
 漢口<に避難していた>ジョンソン・アメリカ大使はそれまで何度か日本政府・軍部に対して、パナイ号への攻撃を避ける措置をとるよう要請してきた。これを受けて駐日アメリカ大使のジョセフ・C・グルーは、広田弘毅外相を訪問して、ジョンソン大使の電報の抜粋を手渡し、「日本の砲兵部隊は、長江上のあらゆる船を国籍を問わず砲撃するようにと命令されているというが、もしも無差別にアメリカ船を攻撃することを阻止するよう手段を講じなければ、アメリカ市民も巻き込む深刻で悲しむべき事件が起こるであろう」と警告した。そのときの広田の対応は事務的で、「すべての外国人は南京の戦闘区域から避難するように警告されているはずだ。それでも、あなたの報告は軍当局に伝えておきましょう」と述べただけだった。」(27〜28)
 
→著者は「対応は事務的」と書いていますが、この時点では広田は当然の対応をした、と言うべきでしょう。
 むしろ、その後、どうして日本政府の対応が、責任を認める姿勢へと切り替わったかを著者は追求すべきなのですが、ここまで読んだ限りでは、著者は、最初から日本が悪で米英が善という観念に憑りつかれている感があり、それを期待するだけ野暮というものです。
 ところで、これまた著者が見過ごしてしまっていますが、揚子江警備隊司令官の文章中に「ジャップ」(*10)という日本人の蔑称が二度も登場しています。
 上官への公式電報の中でこの蔑称を使っていたのですから、当時、少なくとも米軍人達が、いかに日本や日本人を見下していたかが推察できるというものです。
 それにしても、解せない点があります。
 「パナイ号は・・・南京<から>・・・脱出する外国人を乗せて戦火を避けて揚子江を航行していた<が>、・・・揚子江上(南京上流約45km)において・・・攻撃を受けた」(パナイ号ウィキ)ところ、揚子江警備隊司令官は、「パナイ号は再び砲火の危険にさらされ、上海への移動を余儀なくされた」と言っていることです。
 一体、パナイ号が「再び」砲火の危険にさらされたのはどこで、それは誰の砲火だったのでしょうか(ひょっとして蒋介石軍?)、また、このことと関連しますが、日本軍が上海方面から南京方面、更には南京以遠の揚子江上流方面に向けて進撃していたというのに、どうして、パナイ号は、上流への逃避行を続けることを断念し、下流、すなわち、日本軍が進撃してくる方向に反転し、攻撃を受けた時点で南京上流45km地点にいたのでしょうか。
 英語電文を翻訳する際にミスがあったのかもしれませんが、著者がこれらの点に全く無頓着なことは理解に苦しみます。(太田)


 「13日午前11時に・・・支那方面艦隊司令部・・・の参謀長杉山六蔵少将が中国駐留米軍総司令部のある米艦隊旗艦オーガスタを訪れて報告と陳謝を行い、同じ頃・・・上海の岡本総領事は、ただちにアメリカ総領事に対して報告を行い、遺憾の意を表明した。さらに午後には長谷川司令長官みずからアメリカ・アジア艦隊司令長官ヤーネル提督を訪問、謝罪と遺憾の意を表すとともに、長江における艦船の爆撃を禁止する処置をとること、生存者の救助を援助することを約束した。・・・
 パナイ号撃沈事件をめぐって、当時の日本政府・海軍は日本海軍機が米国旗を目撃できずに中国船と「誤認」したために爆撃したと主張し、現在でも日本の歴史書では「誤爆」説がほぼ通説とされている。
 しかし、アメリカでは発生当時から「故意爆撃」と信じられ、「パナイ号を忘れるな!"Remember the Panai!"」が叫ばれた。現在でも真珠湾攻撃と共通性をもつ不意打ちという認識がもたれている。」(47〜48)
 
→一夜明けると、外務省も帝国海軍も、「誤爆」であったとして責任を認める発言を行うに至ったわけです。
 前日12日に橋本陸軍大佐が英海軍のビー号の参謀長に対して「誤射撃」であったとして責任を認める発言を行ったのは、現場指揮官の独断であった可能性が大ですが、今度のものは、まず間違いなく、日本政府上層部の意向を受けたところの、足並みを揃えた公式発言であり、前日の広田外相の姿勢からすれば、180度の方針転換です。
 繰り返しますが、この間に何があったのか、私ならこの点を究明しようとしたはずです。(太田)


 「1937年7月7日、・・・盧溝橋事件<が発生した。>・・・11日に、・・・近衛文麿内閣は、事態を「北支事変」と命名し、・・・華北に派兵する、という政府声明を発表した。さらに政府は、新聞社、政界、財界の代表者を順次首相官邸に招いて政府への挙国一致の協力を要請するという異例の措置までとった。・・・
 これに対して・・・蒋介石は、17日、「最後の関頭にいたれば抵抗するだけである」という廬山談話を発表、対日抗戦の決意を表明した。・・・両国間に警戒と緊張がたかまるなかで、天津と北京の間で日中両軍が銃撃戦を展開する衝突事件が発生(25日朗坊事件<(*11)>、26日広安門事件<(*12)>)、これを契機に28日、日本軍は華北で総攻撃を開始し、現地紛争解決の努力は消し飛んでしまった。・・・
→詳細な廊坊、廣安門両事件の注を付けたのは、笠原が、日本の国会、首相、外務省、陸軍、海軍の動きを紹介しつつ、それらが支那側の動きに触発されたものであったことを隠すために・・と言いたいくらい・・支那側の反日非違行為についての紹介をネグっていることを分かっていただくためです。
 通州事件(コラム#5265、5323)に至っては、笠原は一切触れていませんが、日支戦争史の一局面を記す時に、こんなやり方では、この本は歴史書の名に値しないのであって、笠原は歴史家ならぬ扇動家である、という誹りを受けても止むをえないでしょう。(太田)
 特別召集された・・・第71回帝国議会・衆議院(7月28日開会、8月7日閉会)で、北支事変の勃発にさいして「陸海軍将兵に対する感謝決議」を全会一致で採択、さらに北支事変のための特別追加予算・・・を審議もなく満場一致で可決<した。>・・・
→通州事件等の紹介がなされていないのですから、この本を読んだだけの読者には、衆議院が全会一致でこういう動きを見せたのはどうしてか、殆んど理解ができないはずです。(太田)
 動員や派兵および武力行使の問題をめぐって参謀本部内部でも鋭い対立があり、動揺していたのにくらべ、軍令部は、早くから、対中国全面戦争の作戦を準備する拡大方針を策案していた。・・・7月12日、軍令部は・・・北支事変を北京--天津地域に限定すると言う不拡大方針にもとづく作戦・・・をこえて、当初から全面戦争・・・を想定し、作戦準備を開始した・・・<その時の>用兵方針<は>・・・着実に実行されていった・・・。・・・
 当時の日本海軍艦隊は、連合艦隊(第一艦隊と第二艦隊よりなる)と第三艦隊より編制され、第三艦隊が主要に中国作戦に配備されていた。その第三艦隊司令長官長谷川清中将・・・<は、>政府および海軍省もふくむ軍部中央が不拡大方針をかかげ、現地解決を模索している段階で、・・・中国との全面戦争を構想し、国民政府の首都南京攻略戦の策案をねっていたのである。・・・
 海軍<は、>・・・7月27日に軍令部、海軍省が協議の結果、つぎの<方針>・・・を決定した・・・事態不拡大、局地解決の方針は依然堅持するも、今後の情勢は対支全面作戦に導入の機会大なるをもって、海軍としては対支全面作戦に対する準備を行うこととす。
 これに対して7月29日、参謀本部が策定した「対支作戦計画の大綱」は・・・局地解決をはかろうとしたものだった。・・・
 <しかし、石原<莞爾参謀本部>第一部長は、参謀総長が皇族(閑院宮載仁元帥)であり、参謀次長今井清中将、第二部長渡久雄中将が病臥中という事情から、事実上統帥の最高責任の立場におかれていながら、陸軍中央の対立、反目ゆえに<このような>自説の不拡大方針を維持できなかったのである。・・・
 <それでも、>天皇の意向<もあり、>陸軍中央<は>和平交渉に動き、海軍中央の賛同をえて、外務省、とくに石射<猪太郎(*13)>東亜局長がまとめ役に奔走して、盧溝橋事件発生以来はじめて本格的に・・・停戦・和平工作<が行われ>た<(いわゆる船津工作)(*14)>が、・・・<そこに、>大山事件が発生した。
 8月9日夕方、<海軍>上海特別陸戦隊・・・西部派遣隊長(第一中隊長)、大山勇夫中尉が、・・・一等水兵の運転する・・・自動車で、<移動中、>・・・警備中の中国保安隊に射殺された。・・・一等水兵はそこから引致されて殺害された。・・・
 外務出先はタッチするなという訓令を無視して和平工作に介入した川越・・・茂特命全権大使(上海駐在)<(*15)は、>・・・大山事件の発生後は、広田外相から上海の危急を救うために、至急南京に赴き、あらゆる努力を尽くすように何度も訓電が打たれたにもかかわらず、善後策に動こうとしなかった。・・・「出先機関の訓令無視は、陸軍だけではなくなった」と石射が嘆くような風潮が日本の外交出先機関にも蔓延していたのである。」(49〜51、53〜55、57、60〜62)
 
→ここにも、当時、陸軍同様、外務省においても、日本型経済体制化・・ボトムアップ(下剋上)化・・が進行していた証拠がありますね。
 また、石原莞爾によせ、石射猪太郎にせよ、支那通ではあっても、現場から離れたとたんに支那の蒋介石政権等に対して甘くなり、というか、人間主義的になり、だからこそ、下剋上が一層進まざるをえない、という現象を、陸軍と外務省において見出だすこともできます。
 もう一点。
 盧溝橋事件から始まり、廊坊、広安門事件、通州事件、そして大山事件と、中国共産党の工作もあってか、次々と日本人を狙い撃ちにした挑発行為が蒋介石政権の部隊や同政権に通じた勢力の部隊によって繰り返されたために、日本政府は、世論の憤激もあって、日支戦争を早期に終了させるにさせられなかった、ということを我々はしっかりと銘記すべきでしょう。(太田)


 「<さて、海軍>軍令部<からは、>・・・<8月>6日に・・・長谷川第三艦隊<(*16*17)>司令長官が連合艦隊所属の第8戦隊、第一水雷戦隊、第一航空戦隊を増派部隊として作戦指揮するという命令が出され<ていた。>・・・
 政府と陸海軍の首脳が、思い切った調停案を作成して、外交交渉による和平工作に望みをかけていたその同じ時期に、現地海軍は着々と全面戦争を発動、それも開戦とともに急襲作戦を展開するための準備を整えていたのである。・・・ 
→笠原は、海軍は、陸軍とは違って、省部、そして上下が一丸となって最悪事態に備えていた、と書くべきでした。(ちなみに、このような陸軍と海軍の違いは、組織が後者の方が小さく、かつ単純であったこと、海軍の本分は艦艇にあるところ、艦艇内が日本型経済体制になったら規律、安全が即危うくなること、等に由来すると私は考えています。)(太田)
 12日・・・の夜、米内海相は・・・四相会議を開催させ、陸軍上海派兵の方針を承認させた。そして翌13日の夜開かれた臨時閣議において「上海方面の居留民直接保護のため」という名目で、陸軍の上海派兵を決定した。・・・
 <他方、>同日早朝、参謀本部第一部長石原莞爾少将は、軍令部第一部長近藤信竹少将に「出兵不同意」を表明している。・・・
 8月・・・13日・・・午前中に小競り合いのていどの銃撃戦があった上海市街では、夕方から海軍陸戦隊と中国軍との間で本格的な戦闘が開始され、戦火は華北から華中へといっきょに飛び火したのである。」(64〜65)
 
→笠原は、いかにも陸軍(の少なくとも中央の一部)に比べて海軍が好戦的であったような印象を与えようとしていますが、陸軍は、満州国と華北にしか実働部隊を展開していなかったのに対し、海軍は、蒋介石政権の首都の南京のある揚子江流域に、同流域を中心的行動地域とする部隊を展開しており、蒋介石政権内の反日的気運や同政権軍、とりわけ末端部隊、の対日攻撃態勢を、むしろ陸軍よりも的確に把握していた可能性が高く、このことが当時の海軍の陸軍との切迫感の違いとなって現われていたのではないか、と思われるのです。(太田)


 「<13>日の夜11時50分、長谷川司令長官は、第二空襲部隊に南京、広徳、杭州、第三空襲部隊に南昌、第八、第十0戦隊および第一水雷戦隊飛行機に上海の紅橋飛行場の急襲を命じた。
 8月14日の渡洋爆撃は、東支那海に台風が停滞していたため、長崎大村基地からの先制攻撃は中止されたが、台湾の台北基地を発進した第三空襲部隊の18機が悪天候をおして杭州と広徳を空襲し、のちに「世界戦史空前の渡洋空爆」「航空戦史上いまだかつて見ざる渡洋爆撃の偉勲」と喧伝された。・・・
 こうして、海軍は、陸軍や政府に先んずるかたちで8月14日に不拡大方針を放棄し、・・・中国との全面戦争の作戦を開始したのである。・・・
 1931年9月18日の柳条湖における満鉄爆破事件は、翌日朝に関東軍司令部の迅速な対応措置ぶりに、同事件の計画性、謀略性を察知することができたが、大山事件後に実行された第3艦隊ならびに軍令部の迅速周到な作戦準備・発動ぶりには、同様な計画性が察知される。それは盧溝橋事件発生後の陸軍の対応との相違を比較しても、明らかであろう。
→既に記したようなことからも、このように、外形的類似性だけでもって、計画性(陰謀性)の存在を推認するのは、笠原の軍事知識の浅さと扇動家的偏向に由来する暴論であることがお分かりいただけることでしょう。(太田)
 8月15日午前1時半、近衛内閣<は>「帝国政府声明」、いわゆる第一次近衛政府声明を発表した。
 
 ・・・支那側が帝国を侮蔑して不法暴虐いたらざるなく、全支にわたる我が居留民の生命財産奇殆に陥るにおよんでは、帝国としてはもはや隠忍その限度にたっし、支那軍の暴戻を膺懲し、もって南京政府の反省を促すため、今や断乎たる措置をとるのやむなきにいたれり。
 
 この声明を石射猪太郎は「独りよがりの声明、日本人以外には誰ももっともというものはあるまい」と日記(8月15日)に書き、さらに「無名の師だ。それがもとだ。日本はまず悔い改めねばならぬ。しからば支那も悔い改めるにきまっている。日支親善は日本次第という支那の言い分のほうが正しい」とまで書いて、政府の傲慢な姿勢を批判した。
 この日、陸軍は第3師団と第11師団よりなる上海派遣軍(軍司令官松井石根大将)の「編組」を発表した。「編組」というのは、同派遣軍の任務が上海地区の日本人保護と言う限定された小範囲の一時的派遣であり、純粋の作戦軍ではないという意味で、天皇の命令による「戦闘序列」という正式用語はわざわざ避けた。参謀本部がまだ戦局不拡大方針でのぞんでいたことの表れである。
→海軍の方の部隊も、「<8月>6日に・・・長谷川第三艦隊<(注16、17)>司令長官が連合艦隊所属の第8戦隊、第一水雷戦隊、第一航空戦隊を増派部隊として作戦指揮するという命令が出され<ていた。>」(前出)と「編組」であったわけであり、笠原のコジツケには長嘆息するほかありません。
 なお、石射のこの時の感想は私的なものとはいえ、上司の広田外相を含む閣議決定に対する造反であり言語道断です。彼は7月に辞表を提出したものの広田に慰留されて東亜局長にとどまっていた
http://ja.wikipedia.org/wiki/広田弘毅
という経緯がありますが、私なら、(恐らく石射のような考えはそもそも抱かなかったでしょうが、それはともかくとして、)この時点で再度辞表を叩き付け、慰留されても断固拒否して外務省も去り、世論に自分の信ずるところを実名で、いや少なくとも匿名で訴えていたことでしょう。(太田)
 いっぽう海軍はこの日、満を持していた中国の首都南京の渡洋爆撃を敢行した。・・・
 南京渡洋爆撃の「成功」とそれに歓呼の喝采をあげた国民の反応は、不拡大派には大きな打撃となった。
 ・・・蒋介石は、・・・8月15日に総動員を下令して、全面抗戦体制に入った。8月21日に中国はソ連と「中ソ不可侵条約」を締結調印、ソ連の軍事的、経済的援助を増大させるとともに、国内的には共産党との合作促進の条件をととのえ、翌22日に共産党軍(紅軍)を国民革命軍第八路軍(略称八路軍)として国軍に編入することを発表。地方の共産党政権を辺区政府として承認することにした。」(66〜69、76〜77)
 
→1936年12月の西安事件の時に既に(ソ連の意向に基づき、)国共合作は決まっていたところ、中ソ不可侵条約や中国共産党軍の形式的な蒋介石政府軍への編入についても案は相当前にできあがっていたと考えないと、8月15日の第一次近衛政府声明の後、1週間以内にこれら措置をとれるはずがありません。
 海軍は、こういったこともおおむね把握していたのではないでしょうか。
 また、ないものねだりと言うべきでしょうが、笠原は、当時の日本政府がソ連に対する抑止政策を陸軍を中心に推進していたこと、そのために、対ソ緩衝地帯として満州を確保しなければならなかったこと、そして、満州の後背地たる支那本体を日本に対して無害化しなければならなかったこと、その支那本体がどれだけ親ソ勢力が食い込んでいたかが国共合作の顕在化によって明らかになったこと、に完全に口を拭っています。(太田)


 「海軍省は、・・・8月22日に戦備考査協議会を組織し、その覚書のなかに「今次事変の推移を見るに、事変勃発いらいの不拡大局地解決方針による時局収拾はその望みなきにいたり、今や対支膺懲の作戦を余儀なくせられ、作戦相当長期にわたり、戦局拡大の算大なるのみならず、その第三国の動向に対しても慎重なる考慮を必要とするにいたれり」と述べている。
 海軍は日中全面戦争を、航空戦力を中心とする海軍軍備の近代化・拡張をすすめる絶好の機会として利用し、米・英・ソの動向にも対抗できる海軍戦力の拡充をめざすことを考えていたのである。」(81)
 
→この箇所は、笠原の歪曲的な深読みです。
 海軍に、陸軍と軍事予算の分捕り合戦を行うため、ソ連以外に米国等の脅威をプレイアップしてきた前歴があることは確かですが、この覚書に関して言えば、当時、海軍が的確な情勢判断をしていた、というだけのことでしょう。(太田)


 「8月15日の南京渡洋爆撃は、・・・木更津航空隊の被害も大きかった。そのため・・・<高々度からの、連日の夜間爆撃に切り替えた。>・・・
 これに対して8月29日、南京駐在のアメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、イタリアの五カ国の外交代表が南京空襲を抗議し、停止する要求を日本に提出した。抗議書には「いかなる国の政治的首都、とりわけ戦争状態にない国の首都に対する爆撃に対して、人間性と国際的礼譲についての配慮を必要とするような抑制について日本側当局に適当な配慮を促すべきである…爆撃は、かかげられた軍事目標にもかかわらず、現実的には教育や財産の無差別の破壊、および民間人の死傷、苦痛に満ちた死につながっている」とあ<った。>・・・
 この間、・・・空襲された都市は、漢口、上海、南昌、揚州など長江中流域の主要都市に拡大した。さらに8月31日には、広東と福州を空襲し、戦火をいっきょに華南まで飛び火させた。・・・
 <続いて、>海軍は山海関から広東省にいたる外国権益下の香港・澳問・広州湾を除いた全中国の海域の封鎖を開始したのである。・・・
 日本海軍が実施した海上封鎖が、中国援助のビルマ・ルート(蒋介石政府援助のルートという意味で援蒋ルートともいわれた)建設の契機となり、やがては同ルートをめぐる対立が日米戦争、アジア太平洋戦争にまで発展することになるが、その可能性を陸軍省の上級幹部たちは知っていた。陸軍省軍務局軍事課長の田中新一大佐の『支那事変記録』には次のような情報が・・・記されている。
 
 ・・・8月中、米国は雲南省昆明からビルマ領バーモに至る自動車公路1200キロメートル建設工費1000万元のクレジットを与えたという。事変の将来にかんがみ、支那沿岸経由の交通至難化することを見越し、右自動車公路によって援支物資を供与するとともに、アメリカが必要とする桐油、タングステン等の取得を確保せんとするにあるべく、事変は逐次中南支に拡大することを示唆するかにもみえてきた。
→米国は、戦火が上海に飛び火した直後に、(恐らくはビルマを領有していた英国の黙認の下、)蒋介石政権に対する(日本による経済封鎖破りを目的とした)軍事的支援に事実上着手した、ということです。
 国共合作が顕在化した時期に、米国がかかる支援に着手したということは、この時点で、既に、米(英)ソ支(?霖羔Α紡估?椶箸いβ席人寮鐐茲旅戎泙?猟蠅靴心兇?△蠅泙后??
 米国のローズベルト政権は、常軌を逸していた、と指弾されるべきでしょう。(太田)
 ・・・8月26日、駐華イギリス大使クナッチバル・ヒューゲッセン<(*18)>が自動車で南京から上海に向かっていた途中、・・・海軍機の機銃掃射を受け、大使が重傷を負う事件が発生した<(*19)(コラム#4272、4274、4719、5438)>。大使の車は屋根に大きなイギリス国旗をペンキで描いて走行していたところ、・・・銃弾が浴びせられた。イギリス側は・・・日本政府に謝罪と保障(ママ)および責任者の処罰を要求し、イーデン外相は日本がそれを受け入れなければ、駐日イギリス大使のロバート・クレーギー卿を本国に召還する決意をかためた。・・・ <しかし、>第三艦隊はとうとうその事実を認めようとしなかった。
 結局、外務次官堀内謙介とクレーギー駐日英大使(9月3日着任)が外交決着の努力をおこない、9月21日、閣議決定をへて広田外相が英大使に遺憾の意を表明、今後同事件の再発を防止する措置をとることを約束する解答を手交し・・・海軍側の責任者の特定と処罰問題をあいまいにしたまま外交決着がはかられた。」(81〜91)
 
→注19で紹介した石射の短い記述にはおかしい点が3点もあります。(笠原がその引用を避けたのは意図的か?)
 第一に、長谷川司令長官は上海を定係港としていた(第三艦隊の)旗艦出雲にいたのでしょうから、(やはり上海にいたはずの日本の駐支大使がどうしたかは知りませんが、)上海にいた日本の高官が、上海の病院に入院した「友好国」の高官ヒューゲッセン(ヒューゲッセンの英語ウィキ前掲)を見舞ったのは不思議ではない上、遺憾(regret)の意を表することは、それだけでは必ずしも謝罪を意味するものとは言えないことです。
 第二に、この事件のわずか4日前(3日前?)に蒋介石政権軍の航空機が上海の国際租界を誤爆している・・同政権は、当初、日本軍がやったと言い張った・・
http://www.geocities.jp/yu77799/nicchuusensou/shan... 前掲
ことからも、ヒューゲッセン事件「当時上海方面の制空権が、完全にわが海軍に帰していた」、とは考えにくいことです。
 第三に、「海軍も次第に反省して、ようやく加害機は日本機であったらしいとの結論に達し・・・た」はずがないことです。海軍中央が、外務省の強い働きかけ・・高度の政治判断というよりは人間主義に基づくものか・・もあり、第三艦隊の反対を押し切って、「友好国」英国に対して政治的に配慮した対応を行うことにしぶしぶ同意した、ということであったと思われるのです。
 そもそも、決着自体、玉虫色の内容になっていることに注意してください。
 それでも、これは、悪しき先例を残すことになります。
 (この関連で、コラム#4719で紹介した、上海派遣軍司令官の松井石根陸軍大将の本件に係る意見具申を振り返っていただきたいところです。)
 このように見てくると、石射は、人間としても、また官僚/外交官としても遜色があった、と言わざるをえません。
 彼を、東亜局長という重要ポストに就任させた外務省は(これに限ったことではありませんが)おかしい、ということです。(太田)



<補論>

 笠原が、史実のつまみ食いを行っていることから、このあたりで、簡単に、全体像的な史実を紹介しておきたいと思います。
 --第二次上海事変のあらまし--
 (以下、引用したところの、本事変に係る日本語ウィキペディアは、基本的に当時の日本の主要紙の記事と防衛庁(省)公刊の『戦史叢書』に拠っており、相当程度信頼できると判断した。)

 「背景
 
 ・・・1934年からドイツの中国国民党への投資が続いており、ドイツ製の軍需物資が輸出され、ドイツ軍事顧問団の指導により、大陸沿岸と揚子江には砲台が築かれ、第一次世界大戦型の要塞線「ゼークトライン(チャイニーズヒンデンブルクラインとも)」が上海の西方の非武装地帯に上海停戦協定を違反して盧溝橋事件以前から築かれていた。又、継続的に参謀も派遣され、当時ドイツからの軍事顧問として国民党で働いていたファルケンハウゼンの計画にそって、国民党軍は上海租界を攻撃し、日本軍を要塞線にひきつけようとした。・・・
 中国軍はドイツ製の鉄帽、ドイツ製のモーゼルM98歩兵銃、当時世界一といわれたチェコ製の軽機関銃などを装備し、火力では日本軍をはるかに上回り、第36師、第87師、第88師、教導総隊などはドイツ軍事顧問団の訓練を受けていた。1934年・・・、上海・南京間の陣地構築が始まり、1936年には陣地構築が急ピッチで進んだ。福山と呉県の間(呉福線)、江陰と無錫の間(錫澄線)、呉淞と竜華の間(淞滬線)、呉県から嘉興を通って乍浦鎮の間(呉福延伸線)にトーチカ群が設置された。
 ゼークト大将とファルケンハウゼン中将は戦術だけでなく、戦争指導にまでかかわり、対日敵視政策、対日強硬策を蒋介石に進言した。ファルケンハウゼンは中国の敵は日本が第一、共産党を第二と考え、・・・1935年・・・10月には、漢口と上海にある租界の日本軍を奇襲することを提案し、・・・1936年・・・4月には、いまこそ対日開戦のチャンスだと進言した。・・・
 7月10日蒋介石は・・・徐州付近に駐屯していた中央軍4個師団に11日夜明けからの河南省の境への進撃準備を命じた。7月16日には中国北部地域に移動した中国軍兵力は平時兵力を含めて約30個師団に達している。アメリカはこの行動を非難し、地方的解決をもとめている。一方、日本軍は日本政府の事態の不拡大政策に基づき事態の沈静化に努め、8月3日には天津治安維持委員会の高委員長に被災した天津のための救済資金十万元を伝達している。しかし、8月12日未明には中国正規軍が上海まで前進し、国際共同租界の日本人区域を包囲した。翌8月13日には商務印書館付近の中国軍が日本軍陣地に対し機関銃による射撃を開始、小規模な戦闘が勃発した。さらに中国軍は空襲を加え、8月14日には上海地区の警備司令官である張治中が率いる中国政府軍が航空機により日本軍艦艇を攻撃。日本政府は国民党軍が上海において日本側に対しての砲撃、さらに日本の軍艦に対しての爆撃まで行ったことから、それまで日本が取っていた事態の不拡大政策を見直し、8月15日未明、「支那軍膺懲、南京政府の反省を促す」との声明を発表した。このように中国政府軍による上海攻撃の結果、日中両軍は全面戦争に突入した。・・・国共合作<が>事実上成立してい<たことから、>・・・蒋はソ連と不可侵条約を結び(8月21日)、共産党と妥協して統一戦線を作った(9月22日世に言う第二次国共合作)。
 <なお、>国民政府軍の精鋭部隊は上海から南京に続く約4ヶ月の戦闘で殆ど壊滅状態になり、政府軍はその後の共産党との内戦にも敗れることになった。・・・
 <ちなみに、>当時の上海はフランス租界、日英米の共同租界、上海特別市の三行政区域に分かれていた。自国民を守るため、米軍2800人、英国軍2600人、日本海軍陸戦隊2500人、仏軍2050人、伊軍770人がいた。・・・
 
  大山事件
 
 ・・・作家ユン・チアンとイギリス人歴史学者ジョン・ハリデイの夫婦は、<『マオ 誰も知らなかった毛沢東(Mao: The Unknown Story)』(コラム#1879)の中で、>大山事件は張治中による工作とみている。
 8月9日、張治中は蒋介石の許可なしに上海飛行場の外で事件を仕組んだ。張治中が配置しておいた中国軍部隊が日本軍海軍陸戦隊の中尉と一等兵を射殺したのである。さらに一人の中国人死刑囚が中国軍の軍服を着せられ、飛行場の門外で射殺された。日本側が先に発砲したように見せかける工作である。
 なお・・・、張治中はソ連のスパイでもあったという。<(コラム#1879とそのQ&A参照)>・・・
 
  戦闘
 
 ・・8月12日未明、中国正規軍本隊が上海まで前進、中国軍の屈指の精鋭部隊である第87師、第88師などの約3万人が国際共同租界の日本人区域を包囲した。日本軍の上陸に備えて揚子江の呉淞鎮と宝山にも約1千名を配置した。対する日本軍は、上海陸戦隊2200、漢口から引き揚げてきた特別陸戦隊300、呉と佐世保から送られた特別陸戦隊1200、出雲の陸戦隊200、他320の計4千人あまりであった。・・・
 8月13日午前10時半頃、商務印書館付近の中国軍は日本軍陣地に対し機関銃による射撃を突然開始している。日本の陸戦隊は応戦したが不拡大方針に基づいて可能な限りの交戦回避の努力を行い、また戦闘区域が国際区域に拡大しないよう、防衛的戦術に限定したほか、中国軍機が低空を飛行したが陸戦隊は対空砲火を行わなかった。・・・
 午後4時54分には、八字橋方面の中国軍が西八字橋、済陽橋、柳営路橋を爆破、砲撃を開始し、日本軍は応戦した。午後5時には大川内上海特別陸戦隊司令官が全軍の戦闘配置を命令し、戦闘が開始された。・・・
→攻撃を仕掛けたのは蒋介石政権軍側からだった、ということです。(太田)
 長谷川清・・・第三艦隊司令長官・・・は、・・・5個師団の増援を日本政府に要求した。しかし政府は華北の収拾に気をとられ、1個師団の増援にとどまった。
 13日午後9時頃から国民党軍が帝国海軍上海特別陸戦隊への総攻撃を開始し戦闘に突入した。当時、上海居留民保護のため上海に駐留していた陸戦隊の数は多めに見ても5千人であったのに対し、国民党軍はすでに無錫、蘇州などで・・・20万人以上が待機していた。同日夜には日本海軍が渡洋爆撃命令を発令している。
→海軍が、かねてから危機意識を持っていたこと、そして、この時点で全面先制攻撃ないし全面反撃を企図したのは当然です。
 長谷川が、パナイ号事件の責任者であったにもかかわらず、「戦後・・・A級戦犯容疑で約2ヶ月間、巣鴨刑務所に収監された<けれど、>・・・無罪と判断して釈放した」
http://ja.wikipedia.org/wiki/長谷川清
ことが想起されます。
 笠原がいかに筆をまげているかをじっくり反芻していただきたいものです。(太田)
 8月14日には日本艦艇をねらったとされる国民党軍機による空襲・・・が開始された。この爆撃によって周辺のフランス租界・国際共同租界に投下された爆弾はパレス・ホテルとキャセイ・ホテル前の路上に着弾し、729人が即死し、861人が負傷した、31分後には婦女子の避難所となっていた大世界娯楽センターに爆弾が落ち1,012人が死亡し、1,007人が負傷した。民間人3000人以上の死傷者が出た事に対し、国民党政府は遺憾の意を表明した。しかし、租界への爆撃、もしくは誤爆はその後も発生した。又、国民党系メディアが爆撃は日本軍機によるものであると誤った内容の報道をしたこともあった一方、前日の渡洋爆撃命令を受けて、日本海軍も台湾の航空基地より爆撃機を飛ばして、杭州や広徳を爆撃している。九州から南京への渡洋爆撃も予定されていたが、九州の天候が悪かったため延期された。
→日本側が爆撃を開始したのは蒋介石政府側が爆撃を開始したのと同じ日であり、何度も同趣旨のことを申し上げますが、海軍が一方的に戦線を一挙に拡大したという印象を与える笠原の記述が極めて不適切であることが分かろうというものです。
 そもそも、陸上部隊に関しては、とりわけ戦闘開始時点の兵員数において、日本側が圧倒的に劣勢であったわけであり、その劣勢を補うためにも航空機の積極的活用による攻撃は不可欠でした。
 なお、日本側の爆撃が広範囲にわたったのは、相手側が全面攻撃を仕掛けてきた以上、相手側の航空基地や陸上部隊の兵站拠点、更には戦略的拠点、を攻撃するのは、戦術上の鉄則だからです。
 相手側の航空機が日本側と同様の広範囲な攻撃を行わなかったのは、単にその能力がなかったからに過ぎません。(太田)
 同じく14日、上海租界内の帝国海軍上海陸戦隊が国民党軍の攻撃にさらされる。しかし、この攻撃は国民党軍が砲を随伴しなかった(もしくは保有しなかった)ため失敗に終わり、日本軍の反撃を招いた。重火器の欠乏から18日には国民党軍は攻撃を停止する。
 日本政府は、国民党軍が上海において日本側に対しての砲撃、さらには日本の軍艦に対しての爆撃まで行ったことから14日夜から緊急閣議を開き、それまで日本側が取ってきた事態の不拡大政策を見直し、8月15日未明、「支那軍膺懲、南京政府の反省を促す」との声明を発表した。第3師団と第11師団に動員命令が下り、上海派遣軍が編制され、松井石根大将が司令官となる。日本海軍は、前日に延期された九州から南京への航空機による渡洋爆撃をこの日より開始し、戦闘の激化と共に飛行機を輸入に頼る国民党軍を駆逐し、上海周辺の制空権を掌握していく。
 第87師、第88師の2個師であった中国軍は、15日になると、第15師、第118師が加わり、17日には第36師も参戦し、7万あまりとなった。日本側は、横須賀と呉の特別陸戦隊1400名が18日朝に、佐世保の特別陸戦隊2個大隊1000名が19日夜に上海に到着し、合わせて約6300名となった。
 8月18日、英政府が日中両国に対し、「日中両軍が撤退し、国際租界とその延長上の街路に居住する日本人の保護を外国当局に委ねる事に同意するならば、英政府は他の列強諸国が協力するという条件の下で責任を負う用意がある」と通告した。仏政府はこれを支持、米政府もすでに戦闘中止を要求していた。
 しかし、既に本格的な戦闘に突入していた日本政府は、これを拒否。国民党政府が協定違反による開戦意思を持っている以上、日本はそれと対決する以外ないと判断し、日本は全面戦争への突入に踏み込んだ。このときまでに、各国の租界の警備兵は大幅に増強され、各地域はバリケードで封鎖して中国軍と対峙したが、中国軍も列強と戦争を行うつもりは無かったので、租界への侵入は行わなかった。日中の衝突が列強の即得利益を脅かしかねないと感じた列強各国はこの事件において中立を表明した。
 8月21日、・・・中ソ不可侵条約が締結された。ソ連は直ちに飛行機四、五百機と操縦士および教官を送り込んだ。
 8月19日以降も中国軍の激しい攻撃は続いたが、特別陸戦隊は10倍ほどの精鋭を相手に、大損害を出しながらも、租界の日本側の拠点を死守した。蒋介石は後日、「緒戦の1週目、全力で上海の敵軍を消滅することができなかった」と悔やんだ。
 8月23日、上海派遣軍の2個師団が、上海北部沿岸に艦船砲撃の支援の下で上陸に成功した。支援艦隊の中には、第六駆逐隊司令官として伏見宮博義王中佐も加わっていた[25]。9月上旬までには上海陸戦隊本部前面から中国軍を駆逐する。同時期に中国側は第二次国共合作を成立させ、日本側は華北で攻勢に出るなど、全面戦争の様相を呈した。しかし、中国軍の優勢な火力とドイツ軍事顧問団によるトーチカ構築と作戦によって、上海派遣軍は大苦戦し、橋頭保を築くのが精いっぱいで、上海市街地まで20キロかなたの揚子江岸にしばられた。中国軍の陣地は堅固で、中国兵は頑強だった。依然として、特別陸戦隊は数倍の敵と対峙しており、居留民の安全が確保されたわけはなかった。このため、8月30日には海軍から、31日には松井軍司令官から、陸軍部隊の増派が要請された。
→ヒューゲッセン事件が起こったのは、このような激戦の続いていた真最中の8月26日であったことを思い出してください。(太田)
 石原莞爾参謀本部第1部長一人が不拡大を名目に派兵をしぶっていたが、9月9日、台湾守備隊、第9師団、第13師団、第101師団に動員命令が下された。9月末までで第11師団は戦死者1560名、戦傷者3980名、第3師団は戦死者1080名、戦傷者3589名であった。9月27日、石原部長の辞職が決定した。
→この期に及んでの石原の抵抗は理解に苦しみます。戦闘、というより戦争の火ぶたが切って落とされた以上は、勝たなければならず、兵力の出し惜しみは百害あって一利なしだからです。
 結局のところ、石原は夢想家(「哲学」者)であって実務家(軍事官僚)不適格者であった、ということでしょうね。(太田)
 10月上旬、大場鎮の5キロ手前の呉淞クリークまで進んだが、中国軍の激しい抵抗に、呉淞クリークを越えて1キロ進むのに10日もかかる有様であった。10月18日には5個師団と1支隊の戦死傷者は22082名に達した。
 10月9日、3個師団を第10軍として杭州湾から上陸させることを決定した。
 10月10日、上海派遣軍はゼークトラインに攻撃を開始、2日後には各所で突破に成功した。10月26日、上海派遣軍は最大の目標であった上海近郊の要衝大場(Dachang)鎮を攻略し、・・・落として、上海はほぼ日本軍の制圧下になったが、中国軍は蘇州河の南岸に陣地を構えており、第3師団と第9師団は強力なトーチカのため、進めなかった。
 11月5日、上海南方60キロの杭州湾に面した金山衛に日本の第10軍が上陸した。上陸しても、中国軍の攻撃はほとんどなかった。・・・蘇州河で戦っている中国軍は、第10軍によって退路が絶たれるかも知れず、大きく動揺した。11月9日、中国軍は一斉に退却し始めた。後方にあった呉福線や錫澄線の陣地は全くの無駄になった。
 日本側は3ヶ月で戦死者10076名、戦傷者31866名、合わせて41942名の死傷者を出し<た。>・・・。
 日中戦争において中国側国民革命軍は堅壁清野と呼ばれる焦土作戦を用い、退却する際には掠奪と破壊が行われた。中国軍が退却する前には掠奪を行うことが常となっていたため掠奪の発生により実際は11月9日となった中国軍の退却が予測された。中国政府は「徴発」に反抗する者を漢奸として処刑の対象としていた・・・。上海の英字紙には中国軍が撤退にあたり放火したことは軍事上のこととは認めながら残念なことであるとし、一方中国軍の撤退により上海に居住する数百万の非戦闘員に対する危険が非常に小さくなったとして日本軍に感謝すべきとの論評がなされた。
 10倍近い敵軍を壊走させた上海派遣軍は、10月20日に編成された第10軍(柳川平助中将)とともにすかさず追撃に入った。また、平行追撃と同時に敗軍の追討のために南京を攻略する構えを見せた。当初、参謀本部は和平交渉を行う為の相手政府を失う恐れから、南京進撃を中止するよう下令したが、のちに現地軍の方針を採用し南京攻略の独走を追認した。
 ファルケンハウゼンは、要塞線が突破された時点で南京からの撤退を主張したが、蒋介石が南京での防衛戦にこだわったため、多くの兵力や市民が南京周辺で日本軍に包囲された。・・・
 
  漢奸狩り
 
 中国では日中戦争が本格化すると漢奸狩りと称して日本軍と通じる者あるいは日本軍に便宜を与える者と判断された自国民を銃殺あるいは斬首によって公開処刑することが日常化した。上海南市においても毎日数十人が漢奸として処刑され、その総数は4,000名に達し、中には政府の官吏も300名以上含まれていた。戒厳令下であるため裁判は必要とされず、宣告を受けたものは直ちに処刑され、その首は警察官によって裏切り者に対する警告のための晒しものとされた。・・・
 
  督戦隊・・・
 
 中国軍(国民革命軍)では督戦隊が戦場から退却する中国兵に銃撃を加えた。・・・日本軍と督戦隊に挟まれた第十九師の部隊は必死に督戦隊を攻撃し、督戦隊も全力で応戦したため、数千名に及ぶ死傷者を出している。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/第二次上海事変
 
→蒋介石政権軍による、退却する際の掠奪や破壊にせよ、漢奸狩りにせよ、督戦隊にせよ、いずれも野蛮を絵にかいたような話であり、通州事件や大山事件等、日本人が、蒋介石政権軍やその息のかかった部隊によって、一般住民を含め、多数虐殺されていたこともあり、日本軍兵士達の間で、蒋介石政権、ひいては支那人一般に対する嫌悪感や反感が募って行ったことは想像に難くありません。
 しかも、日本軍側には多大な死傷者が出ていました。
 これらが、南京事件を始めとする、爾後の日支戦争における、日本軍兵士・・徴兵されたところの、高度経済成長下の自由民主主義的社会の一般市民がその大部分を占めており、しかも、その大部分が戦場に急に引っ張り出された平和志向の縄文人であった・・による支那一般住民に対するご乱行の伏線となった、というのが私のとりあえずの考えです。(太田)

 --第二次上海事変・米世論・ローズベルト--

 「1937年8月30日のニューヨーク・タイムズでは<第二次上海事変の>一連の事件について「日本軍は敵の挑発の下で最大限に抑制した態度を示し、数日の間だけでも全ての日本軍上陸部隊を兵営の中から一歩も出させなかった。ただしそれによって日本人の生命と財産を幾分危険にさらしたのではあるが…」と上海特派員によって報じた。 またニューヨーク・ヘラルドトリビューン紙は9月16日に「中国軍が上海地域で戦闘を無理強いしてきたのは疑う余地は無い」と報じている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/第二次上海事変 上掲
 
→2紙だけでは断定できないものの、米国のメディアは、日本に対して理解を示していたわけです。
 さて、引き続き、今度はローズベルトに係る日本語ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/フランクリン・ルーズベルト
から引用します。
 典拠が全記述におおむね付けられている、比較的出来のよい内容だと思います。(太田)


 「9月6日にはルーズベルトは「世界の政府間の平和のために<米国>が先頭に立って 大掃除をする準備ができていることを公にする」とヘンリー・モーゲンソー財務長官とハル国務長官に語り、1937年10月5日、世界でおこなわれつつあるとする侵略行為を非難するために「病人」になぞらえて<下掲の>隔離演説(隔離声明、防疫演説)(・・・Quarantine Speech)をシカゴで行った。
 
 「世界の九割の人々の平和と自由、そして安全が、すべての国際的な秩序と法を破壊しよう としている残り一割の人々によって脅かされようとしている。(…)不幸にも世界 に無秩序という疫病が広がっているようである。身体を蝕む疫病が広がりだした場合、共同体は、疫病の流行から共同体の健康を守るために病人を隔離することを認めている」
 
 <この>演説は直接には特定の国家を名指しすることはなかったものの、一般には・・・ドイツやイタリア、日本などの国家実行を非難するルーズベルトの政策理念を表明する演説と考えられている。演説のなかでは、「宣戦の布告も警告も、また正当な理由もなく婦女子をふくむ一般市民が、空中からの爆弾によって仮借なく殺戮されている戦慄すべき状態が現出している。このような好戦的傾向が漸次他国に蔓延するおそれがある。彼ら平和を愛好する国民の共同行動によって隔離されるべきである」とも語られた。なおハルの証言では、<米>国務省が作成した演説原案には「隔離」の部分はなく、演説直前にルーズベルト自身が入れた。・・・
 隔離演説はニューヨーク・タイムズやコロンビア大学学長のニコラス・バトラーから賞賛される一方、ウォールストリート・ジャーナルは「外国への手出しをやめろ、<米国>は平和を欲する」という記事を掲載し、またシカゴ・ トリビューンは、ルーズベルトはシカゴを「戦争恐怖の世界的ハリケーンの中心」に変えたと報じ、またハル国務長官もこの「隔離」や「伝染病」というレトリックは無用の反対をもたらしたとして批判した。さらにクリスチャン・センチュリー紙は「もし<米国>が中国のために参戦すれば、その結果はひとりロシアの勝利に終わるであろう」と警告した。挑発的な内容を持つこの隔離演説は<米>国内で非難を受け、演説後、6つの平和主義団体が「ルーズベルトは<米>国民を世界大戦の道に連れて行こうとしている」との声明を出した。<米>労働総同盟は「<米国>の労働者は<欧州>、アジアの戦争に介入することを欲しない」との決議を行った。<米国>を参戦させないための請願に2500万人の署名を求める運動も始まった。
 日本でこの隔離演説が報道されると、毎日新聞は「米大統領の諷刺演説に應酬―率直にわが眞意吐露‘戦争’も已むを得ず」「紛争國“隔離”を提唱―米大統領演説」と題した記事で、朝日新聞は「米大統領獅子吼―平和確保に協力せん」と題した記事においてこの演説が日本を指すものとして報道した。また松方幸次郎は日本駐在のユージン・ドゥーマン参事官に対して日本海軍はこれまで慎重論であったが、この隔離演説に対して強烈な反感を抱いていると伝えた。
→当時の米国の世論の状況がよく分かりますね。(日本の世論の状況についても・・。)
 だからこそ、私は、いわば米世論に真っ向から反するような隔離演説を行った「ローズベルト政権は、常軌を逸していた」(前出)、と申し上げたわけです。
 それにしても、NYタイムスは、いかなる理由で、この隔離演説を称賛したのでしょうか。
 第二次上海事件勃発直後の同紙記事(上出)や、下出のような感想を抱いた・・この箇所の典拠のハミルトン・フィッシュの本は持っているが時点をチェックする労を惜しんだ・・同紙記者の存在に照らし、奇異な印象を持ちます。(太田) 
 駐米ドイツ大使のハンス・ディックホフは、演説の直接的なきっかけは、中国での日本の行動にあり、また大統領を悩ませていた黒人問題から大衆の気を逸らせる意図もあるとドイツ本国へ伝えた。 なおニューヨークタイムズ記者のアーサー・クロックは「隔離声明以来、ルーズベルト大統領は、日本の敵意を煽り、枢軸側へ追いやるために、あらゆる手段を駆使した」としている。・・・
 <他方、米国は、《1939年11月のソ連のフィンランド侵攻に対してこそ、航空機エンジニアの引き揚げと航空機生産に必要な物資の禁輸を行い、》【これは、日本に対して同時期(12月)に行ったところの、航空機ガソリン製造設備、製造技術の関する権利の輸出の停止】《と同等以上の措置であった》けれど、[ソ連による、翌1940年6〜8月の]バルト諸国占領<に対しては、>・・・他のほとんどの西側諸国と同様、併合を承認<こそ>しなかったものの、直接的な干渉を行なうことなく<、宥和的な姿勢を示した。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/バルト諸国占領
http://www.iiipublishing.com/politics/asian_war/so...(《》内)
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/ABCD包囲網(【】内)
http://ja.wikipedia.org/wiki/第二次世界大戦([]内)>
→大恐慌からいまだ回復できていなかった米国にあって、前にも申し上げたように、人種主義者のローズベルトが、米国内の黒人問題への取り組みをネグり、そのこともあって、一層有色人種の日本を排斥する一方で、白色人種扱いをした赤露とつるみ、米国内世論をあざむき、大逆罪を犯してまでして、日本を対米英開戦に追い込むことによって、全世界に大災厄をもたらした、ということです。(太田)
 中国の国連への提訴と、<米>大統領による隔離演説を経て、同年11月3日から24日にかけて、ブリュッセル会議(九ヶ国条約会議)が開催。日本側は出席を拒否した。<米国>は隔離演説で見せたような挑発的な言明は避け,会議でウェルズ国務次官は「日本を侵略者呼ばわりするのは我々の考えではない。日本を懲罰するのではなく単に意見を交換するだけだ」と述べ、中国を失望させた。
 12月12日には、・・・パナイ号事件が起きるが、<米国>はこの事件をもって開戦とはしなかった。西川秀和はその理由を「日本政府が速やかに賠償に応じたことも一因であるが、<米>国民の一般感情が強硬策を求めるまでに沸騰しておらず、 第一次世界大戦後の孤立主義的傾向を完全に払拭するまでに至らなかったことに大きな原因がある」としている。ルーズベルトはパナイ号事件に激怒していたが、隔離演説で予想を上回る反発が世論に起きたため、挑発的な言辞を使用することも報復的な対策をとることもなかった。」
 
→ここに出て来た西川秀和は、1977年生まれ。南山大学大学院文学研究科修了後、早稲田大学社会科学総合学術院に移り、同院の助手を経て大阪大学外国語学部非常勤講師。学術博士で、研究領域は、歴代アメリカ大統領の演説分析、国際言語文化という人物です。
http://www.policyspace.com/cat/cat_253.php
https://twitter.com/Poeta_Laureatus
 こういった新感覚の歴史学者がどんどん出て来るといいですね。(太田)

(<補論>ここまで)



 「海軍の作戦計画は、現代戦・総力戦思想にもとづく戦略爆撃の実施であった。この新軍事理論を先駆的に提起したのがイタリアのジュリオ・ドゥーエ陸軍少将<(コラム#520〜523、526、2985)>の著書『制空権論』(1921年出版)である。・・・
 これまで見てきた海軍の都市空襲と海上封鎖、鉄道、橋の爆撃は、まさに・・・戦略爆撃であり、・・・それを中国に宣戦布告もせずに、いっぽう的に強行した日本海軍に対して、国際的非難が集中したのは当然であった。
→第二次上海事変は、蒋介石政権が、「宣戦布告もせずに、」組織的計画的に、上海等に条約上権限に基づいて駐留していた日本軍に対して仕掛けてきたものであり、その反撃のために、帝国海軍が、敵の指揮・兵站中枢である南京を始めとする、上海周辺の諸都市の指揮・兵站拠点や、これら諸都市を結ぶ海上・陸上兵站線を攻撃したことは当然であり、国際法違反でも何でもありません。(太田)
 しかし、当時の日本国民は、この国際法違反の行為に喝采をあげ、その戦果に興奮したのである。・・・
→話が逆であり、「当時の日本国民」の世論に則って近衛政権、陸軍、及び海軍が行動した、というだけのことです。(太田)
 <そ>の発動を正当化したのが、第一次近衛声明の南京政府「断固膺懲」の表明であった。・・・陸軍中央と政府、そして天皇もまだ不拡大方針で戦局の早期解決を模索していたときに、海軍は・・・局地戦争をいっきょに全面戦争に拡大してしまったのである。・・・
 「膺懲」というスローガン<は、こうして、>・・・中国に抗日勢力が存続するかぎり、「膺懲」を続けるという、日中戦争を長期の泥沼に引きずりこむ「自縄自縛」の言葉となった。その意味で、「支那膺懲」を戦争目的として声高に叫んだ近衛首相の責任も大きいと言わねばならない。」(92〜93)
 
→結果論で歴史を裁断するのは基本的に望ましくはありませんが、日本が結局戦争に負けたことから結果論で当時の海軍や近衛首相を非難するのであれば、蒋介石政権が結局(日本が負けてからそう遠くない時点で赤露勢力によって)政権を奪われたことから結果論で、(赤露抑止政策を推進していた)日本との戦争を終わらせようとしなかった蒋介石を非難する方がまだ筋が良い、というべきでしょう。
 というのも、日本は、戦争に形の上では負けたけれど、戦争目的は達成したのに対し、蒋介石政権は全てを失ったのですからね。
 日本にとって、この戦争の主目的が、一、対赤露抑止と二、通商の自由の確保であり、中途で加わった付随的目的が、三、欧米の植民地の解放であったところ、一は米国に全面的に肩代わりさせることで、二は三の成功と米国が自国市場を基本的に解放したことにより、三は日本が戦争の途中で仏領インドシナに進駐し、マラヤ、インドネシア、ビルマを占領し、インドにまで攻め込むことが決定的契機となって、それぞれ達成されたことを思い起こしてください。(太田)


 「<宣戦布告せずに>帝国議会における天皇の勅語を「宣戦布告」とみなすという日本人だけに通用する手続きをふんだ政府は、本格的な戦時体制への移行に着手し、9月9日に「・・・国民精神総動員を実施する旨の内閣告諭を全国各官庁に訓令した。ついで11日、国民精神総動員運動が発足し、日比谷公会堂で政府主催の国民精神総動員大演説会が開かれ、・・・近衛首相は「時局に処する国民の覚悟」と題する大演説をおこなった。
 
 抗日の激するところ、いまや国を挙げて赤化勢力の奴隷たらんとする現状に立ちいたった。ことここにいたっては、ただに日本の安全の見地からのみに止まらず、広くは正義人道のため、特に東洋百年の大計のためにこれに一大鉄槌を加えて直ちに抗日勢力のよってもって立つ根源を破壊し、徹底的実物教訓によりてその戦意を喪失せしめ、しかる後において支那の健全分子に活路をあたえ、これと手を握って俯仰天地に愧じざる東洋平和の恒久的組織を確立するの必要に迫られてきた。(中略)
 この日本国民の歴史的大事業を、我らの時代において解決するということは、むしろ今日生をうけたる我ら同時代国民の光栄であり、我々は喜んでこの任務を遂行すべきであると思う。
 
 近衛首相の演説は、抗日政策を推進している蒋介石政府を打倒して、傀儡親日派政権を樹立することまで謳っており、その後に近衛内閣が進めようとした政策を飛びこえた「過激」なものであった。」(100)
 
→この時、近衛首相が口にしたところの、日支戦争は、支那が赤露勢力の手に落ちることを防止するという、日本の安全保障と支那人民の保護に資するための(=人間主義的な)戦いである、とは、同首相の「過激」さの表れどころか、当時の日本世論の常識の表明に過ぎなかったというのに、笠原は何という世迷言を言っているのでしょうか。
 仮に米英が日本を対米英戦争に追い込むなどという愚行を行わなかったとすれば、「傀儡」汪兆銘政権が蒋介石政権を圧倒し支那の正統政権になっていた可能性が大である、と私は考えています。
 黄河決壊事件(コラム#6269)を起こすなどという凶行を演じた蒋介石政権が、その舞台となった河南省でどういう運命を辿ったのか(*20)を思い起こすだけで、それ以上の説明は不要でしょう。(太田)


 「上海戦には不拡大方針をとった参謀本部の作戦から、上海派遣軍には精鋭の部隊を送らずに、現役を終了した予備役兵と5年4か月の同役を終了した後備役の兵士の兵隊が多く派遣された。したがって兵士としては高齢であり、多くが結婚して所帯をもっていた。そうした充たされた家庭生活からの突然の出征であったから、大多数の兵士は「赤紙」が届けられると、「しまった」「困った」というのが率直な心境であったが、それが熱烈な歓迎をうけて、経験しなかった興奮と緊張のもとにやがて歓喜となり、出征兵士として観劇に満ちて戦地に向かうという覚悟と決意を抱くように変化していった。」(106)
 
→予備役と後備役とは言っても、彼らは、基本的に戦争体験はなかったはずであり、まともな再訓練を受けることなく平和な生活から突然戦場に送り込まれたという点では、むしろ、現役兵でなかっただけに、彼らはより大きな環境の変化に直面させられた、と言えそうです。
 このことも、彼らの南京攻城戦でのご乱行と、それを嚆矢として支那で続出することとなる、日本兵によるご乱行の伏線として頭に入れておくべきでしょうね。(太田)


 「陸軍が・・・満州事変・・・をおこして予算を獲得したという実績を目の当たりにした海軍エリート層の間に、対米強硬論を唱え、対米軍備拡張を叫ぶ加藤寛治<(*21)>・末次信正<(*22)>派の勢力が急速に伸長していった。・・・
 1920年代末までは「軍政派」が「海軍エスタブリッシュメント」を形成し、部内の「花形」的存在になっており、「良識派」の指導者たちが海軍の伝統をになってきた。ロンドン軍縮条約をめぐって、当時の加藤寛治軍令部長、末次信正同次長の「艦隊派」=「統帥派」のコンビは、条約反対の強硬論をまくしたてたが、そのときは同条約の受諾にふみきった海軍省首脳部すなわち「軍政派」に敗れた。しかし、加藤・末次派は、・・・自派勢力の巻きかえしをはかった。その背後には、ロンドン条約に強硬に反対する東郷平八郎元帥がいた。
 ・・・最初の成果が、1932年2月、伏見宮博恭王の軍令部長就任であった。・・・
 第二の成果は、1933年9月に実施された軍令部条例の改定であった。それまで海軍では、軍令部長の権限が陸軍の参謀総長よりもはるかに限られており、軍政関係(たとえば予算問題や制度改廃)には直接タッチすることはできなかった。・・・それが、この改定によって海軍大臣の権威が極度に縮小され、海軍省に対する軍令部の優位が確立することになった。従来は海相に属していた平時における兵力の指揮権が、軍令部総長(陸軍の参謀総長にならって、こう改称された)に移され、兵力量に関する権限が明確に軍令部側に移ったのだ。さらにこの改定以後、海相の選任のさい、伏見野宮の同意をえるという慣行さえできてしまった。・・・
 第三は、1933年から34年にかけて、加藤が大角岑生海相をおどらせて実行させた「大角人事」だった。この結果、1920年代に軍縮に尽力した「条約派」の智将たちは、現役から「粛清」され、予備役にまわされた。・・・
 1936年3月、海軍は「海軍政策及び制度研究調査委員会」を設置、海軍次官の長谷川清中将を中心に日本の南方進出をはかる「国策要綱」を作成した。・・・このときの海軍次官長谷川中将こそ、第三艦隊司令長官(36年12月就任)として盧溝橋事件以後の海軍の日中全面戦争作戦を指揮した人物である。
 それまでの「国防国策大綱」は石原莞爾参謀本部第二課(戦争指導課)長の策案によるソ連を主要敵国とする「南守北進」の方針にもとづいていた。そのため、陸軍優先の国防政策がとられていたが、それを逆転させてアメリカを主要敵国とする「北守南進」の方針に変更させ、海軍優先の国防政策に転換させようとしたのである。・・・
 同年6月、海軍のイニシャチブによって「帝国国防方針」の第三次改訂がおこなわれ、対ソ戦備を要求する陸軍と対米軍備の優先を固執する海軍との競合的な主張を併記した「南北並進論」が決定された。・・・このとき、想定敵国の一つとしてかつての同盟国であったイギリスがはじめて加えられた。
 ついで8月の五相会議(広田弘毅首相・有田八郎外相・馬場?唇貘∩蝓?蘄蘯澌賣α蝓?別扈た罰ち蝓砲歪觜餽駛品鍰砲硫魵蠅鬚Δ韻董?酲綿多覆寮鑪?箸修里燭瓩侶拡瀆室造鯆蠅瓩拭峭餾?隆霆燹廚魴萃蠅靴拭?ΑΑΑ廖?112〜116)
 
→笠原は、国際情勢も、それを反映していた世論も捨象して、いわば真空の中で海軍や陸軍について論じており、彼の噴飯ものの艦隊派陰謀論はその帰結である、ということを強調しておきたいと思います。
 ワシントン軍縮会議における「軍政派」と「艦隊派」の争いは、注21からも分かるように、争いの範疇に入りませんし、ロンドン軍縮会議における両派の対立も、対米英海軍という目的を共有した上での、条約と無条約のいずれがよりその目的達成に得策か、という技術的争いに過ぎません。
 「艦隊派」ですら、注22からも分かるように、対赤露抑止という国民的コンセンサスを「軍政派」及び、当然のことながら陸軍とも共有していた、という背景の下での話なのですからね。
 そもそも、日本を取り巻く国際情勢は、1920年代中頃から、ソ連の国力の増大、容共の中国国民党による支那統一の加速化及び反日活動の活発化、米国の対日敵視、英国の日本離れ(シンガポール軍港の整備等)、更には米国発の世界大恐慌とその結果としてのブロック化された世界経済からの日本の締め出し、といった具合に急速に緊迫の度合いを増してきており、そうした中で、陸軍と海軍の(対米英も勘案した)軍備拡張、及び、政治経済社会の有事即応化ないし総動員化を、日本の世論が要請するに至っていたわけです。
 陸海軍経費の増額はもとより、軍令部の権限強化(海軍の有事即応化)についても、かかる文脈の下では、必要不可欠なことであった、と受け止めるべきなのです。
 むしろ、首相及び内閣の権限強化や(空軍の設置ともあいまった)陸海空を統合した国防省の設置や国家諜報機関の設立がなされなかった等、政治経済社会の有事即応化が不十分であったことが悔やまれます。(太田)


 「<このように見てくると、>長谷川清中将が、・・・対米海軍拡張の現実的緊急性を認識させるために、北海事件<(コラム#4546)>や上海水兵射殺事件<(*23)>を口実に華中・華南で「戦果」をあげる作戦準備をした・・・こと<が、>・・・いっそう納得がいくのである。」(119)
 
→注23の第一段落(・・笠原は全く触れず・・)、第二段落(・・笠原は殆んど触れず・・)のような状況下で長谷川中将が対蒋介石政権の作戦準備をしたことを、笠原が、一体どうして「対米海軍拡張」を目論んだものと中傷できるのか、私には全く理解できません。
 なお、日支戦争が、盧溝橋事件ではなく、第二次上海事変によって始まったとの認識に立てば、それは、まさに独ソが連携して容共ファシスト政権たる蒋介石政権(第二次国共合作していたので毛沢東政権でもあった)を使って、自由民主主義諸国中、孤立していた日本を弱体化させるために仕掛けた戦争であった、という見方もできそうです。
 日本は1936年11月25日に日独防共協定を締結することで、ナチスドイツをこの反日連携から脱落させる手がかりを得ていた(同協定は、日ソ(独ソ)戦が勃発した際にドイツ(日本)が中立を守る秘密附属協定を伴っていた。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/日独防共協定
とはいえ、蒋介石政府軍は、第一次上海事変を、引き続き、ファルケンハウゼン以下のドイツ軍事顧問団の事実上の指揮の下で戦ったのです。(*24


 「1934年・・・山本五十六少将は、「頭の固い鉄砲屋(海軍の俗語で砲術関係者のこと)の考えを変えるのには、航空が実績をあげてみせるほか方法はない」と・・・語っ<てい>る。
 その山本五十六は中将に昇進して35年から航空本部長に就き航空軍備の強化と飛行部隊の育成に尽力、・・・その結果1936年には・・・陸上基地から敵艦隊を攻撃するための・・・航続距離4380キロにおよぶ新鋭爆撃機・九六式陸上攻撃機(中型攻撃機、中攻と略称)<(*25)>が完成した。・・・
 <そして、山本は、>36年12月に長谷川中将が第三艦隊司令長官に転出したのと入れ替わりに海軍次官に就任、海軍の日中全面戦争化にかかわったのである。・・・
 1937年・・・9月10日、ちょうど一年前の上海水兵射殺事件に際して海軍中央が指示した上海公大飛行場<(*26)>の建設・整備がようやく整い、<海軍>第二連合航空隊・・・が大連の周水子基地から移駐した。
 上海の航空基地が使用できるようになったため、それまでの渡洋夜間空襲に代えて、戦闘機の護衛をつけた本格的な空襲部隊の出動が可能になった。9月14日、長谷川第三艦隊司令長官は、・・・南京反復攻撃を命令し、さらに、・・・準備できしだい広東・・・漢口、南昌等の・・・攻撃を・・・下令した。・・・
 <上海から>出撃する九六式艦上戦闘機<(*27)>は、1936年に完成した・・・新鋭機<だった。>」(122〜125)
 
→笠原が目の敵にする海軍軍備増強、就中その航空戦力増強のおかげで、日本は対米英戦劈頭、真珠湾攻撃に成功して米国の在太平洋海軍力を一時的に無力化し、そのことともあいまって、東南アジアにおける制空、制海権を確保できたのであり、その結果、日本は、マライ、フィリピン、インドネシア、ビルマの英米蘭諸植民地を一挙に占領することに成功し、この衝撃が、私の言う、日本の日支・太平洋戦争における戦争目的の、(副次的なものではあったとはいえ、)第3(と主目的の一つであった第2の一部)の達成を可能ならしめたことを、我々は忘れてはいけないでしょう。
 なお、隴を得て蜀を望むたぐいではあるけれど、当時の日本政府の総合調整権能が十全でなかったため、海軍に予算を割きすぎ、戦艦大和や武蔵のたぐいの不必要な装備にまでカネをかけたために、陸軍により十分な予算を与えることができなかったことが悔やまれます。
 陸軍がもっと近代化されていたならば、ビルマを落とした勢いでインドに侵攻し、占領することも大いに可能であった、と考えられるからです。
 そうしておれば、たとえ最終的に日本が敗北していたとしても、アジア(ひいては世界の)欧米植民地を解放したのが日本であったことを、より紛れのない形で世界に示すことができたはずです。
 更に言えば、海軍軍備増強、就中その航空戦力増強は、日本の戦後における、戦前に引き続いたところの、高度成長の基盤となった技術力の飛躍的向上をもたらしたことも、我々は銘記すべきでしょう。(太田)


 「海軍航空隊の南京空襲部隊による南京爆撃は第一次(9月19日)から第11次(9月25日)まで続けて行われ、延べ291機が参加、撃墜した中国戦闘機は48(うち確実42)機、投下した爆弾数は計355発、重量にして32.3トンに達した。日本側の被害は、戦死(行方不明を含む)18名、失った機数10機であった。
 19日の第一、二次の空襲によって基本的に南京の制空権を制覇して以後、散発的な交戦はあったが、第7次以降は南京上空にまったく中国機影が認められない状況になり、南京の制空権は完全に日本軍が確保した。・・・
 南京陥落直後の話になるが、当時第13航空隊の艦上爆撃隊の指揮官であった奥宮正武大尉は、南京攻撃時に戦死した飛行搭乗員たちの消息を調べて約一週間南京市の内外を広範に駆けめぐり、陸軍部隊が捕虜・市民を大量に虐殺している光景を何度か目撃しているが、そのときのことをこう記している。
 
 この一連の調査中、私は、市の内外を合わせて、20数柱の<飛行搭乗員>の遺体を発見することが出来た。そのさい私の胸を打ったのは、中華門の南方にある農村の墓地で立派な木製の棺に収められた9柱の遺体であった。・・・首都の被爆で混乱を極めていたであろう時に、人道的な見地から、敵兵を丁重に葬ってくれた紅卍会の人々に感謝せずにはいられなかった。その頃城外で行き合った多くの農民からは、敵意をまったく感じなかった。また、城内の中心に近いところでは、墜落した日本機が民家とその住民を道連れにしたという悲劇も聞いた。繁華街の人々も、親切に私の調査に協力してくれた。」(129〜130)
 
→「捕虜・市民を大量に虐殺」は「捕虜・便衣兵を大量に殺害」でしょうが、奥宮の手記からは、日本の海軍による爆撃のコラテラルダメージ、及び、日本の陸軍兵士による一般住民の若干の虐殺や相当多数の強姦にもかかわらず、住民が日本軍に協力的だったというのですから、民心がいかに蒋介石政権から離れていたかが窺えます。
 そもそも、南京からの撤退にあたっても、蒋介石軍は、外国人在住者達の目が光っていた城内ではともかく、城外では掠奪や破壊をやって立つ鳥跡を濁していったに違いありませんしね。(太田)


 「南京空襲部隊は9月25日の第11次空襲をもって南京攻撃を終了し、同部隊の編制を解いた。元編成に戻った第二連合航空隊・・・は、それまで上海戦において陸軍の先頭に「南京方面作戦のため十分なる兵力をもって組織的に協力を実施し得ざりしところ…10月1日を期し、当隊兵力の大部分をもって積極的に陸軍作戦に対する協力を開始せり」として、上海区域の陸軍作戦に全面協力を開始する。・・・
 日本<陸>軍が上海戦で・・・けっきょくは19万人という大兵力をつぎこむことになり、最後には4万3672人にも達する死傷者(戦死者9115人)を出すという苦戦を強いられることになったにもかかわらず、海軍航空隊は、陸軍の窮状をよそに、(まだ南京攻略戦が発動されていない段階で)南京空襲作戦を優先したのだった。海軍にとっては、・・・将来の対米航空決戦の準備をすることが、陸軍作戦強力よりも海軍の組織的利益にかなっていたのである。」(135〜136)
 
→笠原は、前出のドゥーエについての記述にも表れているように、少しは軍事についての勉強もしたのでしょうが、その勉強が全く身に付いていないのか、それとも、勉強したことを無視してプロパガンダ的な自説を一方的に述べ続けているのか、そのどちらかでしょうね。
 海軍としては、戦闘機の掩護がなければ、(地上戦闘が主として行われるところの)白昼に攻撃機(爆撃機)を飛ばすわけにはいかず、また近接航空支援は戦闘機をもってするところ、攻撃機や戦闘機が敵航空機の妨害なしに行動できる状態を確保するため、すなわち制空権を確保するため、かつまた、海軍の戦闘機は上海公大飛行場を唯一の基地としていたところ、この飛行場を敵航空機によって破壊されないためにも、南京等、上海周辺の敵航空機や航空基地を破壊する必要があり、それに加えて、南京における敵の(航空作戦・兵站中枢を含む)作戦・兵站中枢を無力化する必要もあったことから、これらの目標に対する戦略爆撃ないし航空阻止を優先的に行わざるをえなかった、ということに尽きます。
 そして、以上を達成した上で、海軍は、ようやく戦術爆撃(近接航空支援と戦場航空阻止)に切り替えることができた、ということなのです。
 当然のことながら、以上については、海軍は、陸軍と事前に調整し理解を得ていたものと考えられます。(そうでなかったとすれば、陸軍からクレームが付いていたはずですが、そのような形跡は皆無です。)(太田)


 「南京空襲作戦の最中、長谷川清第三艦隊司令長官は、南京駐在の列国外交機関・各国居留民と南京市民に対して南京空爆宣言をおこなった。
 
  通告文(9月19日付)
 我が海軍航空隊は9月21日正午以後、南京市および付近における支那軍ならびに作戦および軍事行動に関係あるいっさいの施設に対し、爆弾その他の加害手段を加えることあるべし。(中略)
 第三艦隊長官においては南京市および付近に在住する友好国官憲および国民に対し、自発的に適時安全地域に避難の措置をとられんことを強調せざるをえず。なお、揚子江上に避難せらるるむき、および警備艦船は下三山上流に避泊せられんことを希望す。
  警告文(9月20<日>付)
 帝国海軍航空隊は、爾今南京市およびその付近における支那軍隊その他作戦および軍事行動に関係ある一切の施設に対し、必要と認むる行動をとることあるべく、(中略)非戦闘員は該軍事目標に接近せざるを可とすべく、これを敢えてなすものは、当該各人自身の危険においても、その起こるべき危害にともなう責任は、我が軍においてはこれを負わざるべし。」(136〜137)
 
→笠原は、「南京空襲作戦の最中」と書いていますが、9月19日に実施された第一次攻撃は、「飛行場にある中国機の爆破ならびに誘出を」目的としたものであり、誘出機の撃破の後に爆撃したのは(当然のことながら南京城外の)「板橋鎮新飛行場」と、(恐らくは同じく南京城外の)「兵工廠」・・これは敵航空機の整備や修理、或いは飛行場の修復をさせないために攻撃しなければならない・・であり(126)、同日中に引き続き実施された第二次攻撃では、残余誘出機の撃破の後に爆撃したのは(恐らく爆弾が余ったことに伴い、勇み足的にやった可能性が高い(?))「南京の中心にある憲兵司令部と警備司令部」であり(128)、また、第三次攻撃については記述がありませんが、20日の第四次攻撃については「空戦のため照準を失し、爆弾は市中に落下」してしまった(131)という誤爆であって、しかも、21日には攻撃が行われなかった(131)というのですから、長谷川長官の通告は、南京本格爆撃の3日前に行われたものであって、南京在住の外国人や支那人達に避難のための時間的余裕を十分与えていた、従って、厳しい言い方をすれば、一般住民で被爆した者は、自業自得であった、ということです。(太田)


 「<ところが、>南京にはアメリカ伝道団各派の創立・運営する学校や病院、教会施設が集中していたから、第三艦隊司令長官の南京避難勧告は、日本軍がそれらのミッション施設を爆撃して、アメリカ人を南京から追い出そうとするものだと受け取られ、大きな反発を引き起こした。・・・
→以前にも指摘したことですが、支那に比べてキリスト教の布教が進まなかった日本に対する、米国の宣教師等の反感が、このような反応の背景にあったと考えられます。(太田)
 9月25日に、・・・コーディル・ハル国務長官は日本に警告をおこなった。・・・
 日本海軍機による<南京等の>無防備都市<(*28)>の爆撃、および日本の中国侵略を非難する世界の世論がたかまるなかで、イギリスは国際連盟に日本の行動を非難する決議案を上程し・・・28日の連盟総会において全会一致で採択された。・・・
→南京等が無防備都市の定義にあてはまらないことは明白ですが、いずれにせよ、一方的に、(戦争を仕掛けた側の)蒋介石政権側に立って英国が動いたことは、日本の世論の反英感情を募らせたに違いありません。(太田)
 世界の非難の高まりをうけて、9月27日、堀内謙介<(*29)>外務次官は、駐日イギリス大使クレーギーに対して日本軍機は25日以降にはもう南京爆撃をおこなわないと明言し・・・た。
 <しかし、海軍の>第二連合航空隊は10月に入るとさらに激しい南京空襲を再開した。」(137〜139、141、145)
 
→笠原は、外務省と海軍との間でこのような齟齬が生じた理由を解明しようとしていません。
 恐らくは、外務省の国内(官庁間)情報収集能力や情報吟味体制の不十分さに由来する大失態なのではないか、と想像されます。(太田)


 「<かかる背景の下、>ローズベルトは、10月5日、・・・「隔離演説」をおこなった。・・・
 翌6日には、アメリカ国務長官ハルも、・・・「日本の行動は国際関係を規律する原則に違反し、9カ国条約およびケロッグ不戦条約に違反する」という声明を発表した。・・・
 <このような>日本批判に対して、6日、外務省の河相達夫<(*30)>情報部長は、次のように反駁の声明を発表した。
 
 世界は現に"持てる国"と"持たざる国"との争いがあり、資源、原料分配の不公平がやかましく論ぜられている。もしこの不公平が是正されず、"持てる国"が"持たざる国"に対して既得権利の譲歩を拒んだならば、これを解決する道は戦争による外ないではないか。
 
 ・・・<これは>あまりにも直裁すぎて「陸海から取消要求が来たというから笑わせる」と石射猪太郎はこの日の日記に書いている。・・・
→この声明は、欧米の帝国主義諸国(=持てる国)によって植民地を含めたブロック経済化が進展した結果、日本(=持てない国)が資源や市場かから占め出されていることを批判しようとしたのでしょうが、表現が露骨過ぎて反発を招くだけであったことでしょう。
 陸海軍が外務省に抗議したのは当然です。
 外務省は、言葉を武器に戦う役所であるはずなのに、言葉の使い方を知らない人物を、よりにもよって情報部長に就けていたとは信じがたい思いです。(太田) 
 広田弘毅外相は、9日、・・・日本政府の見解を改めて発表した。
 
 日本の行為は自衛措置であって、逆に中国こそ、赤色勢力に操られ、執拗悪性の排日を実行し、武力行使によって自国内にある日本の権益を排除しようとするもので、不戦条約に背くものである。
→広田は、その年の2月2日まで首相を務めていた人物であり、この10月9日の彼の見解表明は、9月11日の近衛首相の演説(コラム#6272)とセットで受け止められるべき、日本政府の(日本が追求しているのは対赤露抑止なる)公式見解なのであって、何度も繰り返しますが、それは当時の国民的コンセンサスを踏まえたものだったのです。
 外務省は、この見解をあらゆる機会をとらえて、具体的事実を摘示しつつ、欧米列強、就中米英の当局者や世論に向けて訴えて行かなければならなかったのですが、それをやった形跡がないどころか、堀内次官や河相部長のような失策ばかりをやらかしていたわけです。(太田)
 ・・・1937年当時、日本の国際貿易において、アメリカは輸入の33.6%、輸出の20.1%を占めて、日本の経済的死命を制しうる立場にあり、戦争遂行に不可欠な軍需品や戦争資材、とりわけ石油の対日供給において決定的な役割を果たしていた。このため、日本の政府・軍部首脳がもっとも恐れたことは、ブリュッセル・・・<の>九カ国条約・・・会議においてアメリカの主導による対日経済封鎖が決定されることであった。・・・
 <そこで、>10月1日、・・・四相会議は、南京政府との和平交渉のための条件をさだめた「支那事変対処要綱」を決定し・・・た。・・・
 同要綱の講和条件は、中国の「満州国」承認、華北の一定地域と上海周辺に非武装地帯を設定すること、華北は中国中央政府の行政のもとにおくことを認め、日中経済合作の協定をむすぶことを主とする比較的「寛大なもの」であった。・・・
 <その上で、>広田外相から駐日ドイツ大使ディルクセン<(*31)>に対して日中和平交渉をドイツが斡旋してくれるように申し入れた。・・・
 
 ドイツ外務省の意向をうけた中華ドイツ大使トラウトマン<(*32)>は、積極的に日中戦争の和平工作に乗りだした。トラウトマン和平工作(あるいは単にトラウトマン工作)といわれる。
 
 11月初、トラウトマンは蒋介石に対してさきの「支那事変対処要綱」にもとづく日本政府の和平条件をつたえた。しかしこのとき蒋介石は、九カ国条約会議・・・で列国による対日制裁が決定することを期待して、日本側の提案は同会議の結果が判明するまでは、とくに考慮に値しないと答えて交渉は進展しなかった。・・・
 <しかし、その>ブリュッセル会議<は>日本の中国侵略に対して警告宣言を発すると言う平和的手段に訴えることで終わっ<てしまっ>た・・・。」(147〜152)
 
→蒋介石が、トラウトマン工作をただちに受け入れなかったのは、致命的なミスであったことが判明します。(太田)


 「日本の海軍の大海軍主義者たち<は>増長<し、>海軍省発行『支那事変に於ける帝国海軍の行動』はこう豪語した。
 
 ・・・支那事変と並行して開催された連盟総会や「ブラッセル」における九カ国条約会議がなぜに無為に終わり、また第三国がなぜに武力干渉に乗り出しえなかったかということである。ここにおいて万人の脳裏に浮かぶものは、・・・西太平洋の制海権をにぎる我が連合艦隊の無言の勢威ではあるまいか。
→こういう文書を発出したことを「増長」と捉える笠原からは、当時の日本が自由民主主義的国家であったという視点が全く感じられません。
 海軍予算の大幅増を認めてくれた衆議院(国会)、ひいては世論に対し、海軍が、我々は、かくかくしかじか、皆さんのお役に立っておりますよ、ということをいささかオーバーぎみに訴えた心中は、私には実によく分かるのですが・・。(太田)
 イギリスは恐れるに足らず、という対英優越意識を背景に、海軍はイギリス権益と抵触する中国南岸の海上封鎖をさらに強化した。10月20日、海軍は第四艦隊を新編し、第三艦隊および第四艦隊をもって支那方面艦隊を編成した(初代長官は第三艦隊長官長谷川中将が兼務)。長谷川支那方面艦隊長官は、第三艦隊を中支部隊、第四艦隊を南支部隊として、第四艦隊に海州<(*33)>以南の中国沿岸の海上封鎖を命じた。・・・
 
 軍部は、11月20日に戦時における最高統帥機関である大本営を設置<した>・・・。・・・
 11月6日に<は>日独防共協定に・・・イタリア・・・<が>参加した・・・。」(152〜154)
 

 「日本軍は・・・11月5日、第10軍・・・を杭州湾<(*34)>から上陸させ、上海の中国軍陣地の背後を衝かせた。これによって上海防衛軍に動揺がはしり、撤退と潰走がはじまり、やがて総崩れとなった。・・・
 
 11月中旬に、日本軍は上海全域を制圧した。・・・
 <しかし、>予後備兵中心の部隊ゆえの士気の低さと軍紀弛緩、それゆえの軍紀逸脱行為、不法行為の頻発の実態、そうした軍紀風紀の乱れた部隊を指揮、統率する実力と権威のない将校、指揮官としての資質と能力に劣る下士官などなど・・・中央においては拡大派であった田中新一・・・陸軍省軍務局軍事課長・・・さえ、こうした欠陥をもった上海派遣軍を南京攻略に動員するのは無理と判断し、・・・予後備兵の早期召集解除と国内帰還、将校・下士官の短期再教育の徹底を<考え>ていた・・・。・・・
 蒋介石<の方は、>・・・長期持久抗戦を覚悟、11月20日に国民政府の首都を重慶に移転することを宣布、同日唐生智<(コラム#4980)>を南京防衛司令長官に内命し・・・た。・・・
 <にもかかわらず、>陸軍中央部内の主導権を掌握しようとした拡大派の党派心と、南京占領=中国屈服の殊勲者という非現実的な功名心にかられた中支那方面軍、上海派遣軍、第10軍の上級指揮官たちの野心とが相乗して、南京攻略戦が強行されていったのである。・・・
 日本のマスコミも、・・・南京戦報道のための大規模な報道陣を戦地に送りこみ、・・・報道合戦をくり広げた。・・・国民は、・・・日本軍の進撃ぶりに喝采を挙げ、早期南京占領を待った。
→陸軍内の「拡大派」も「中支那方面軍<の>上級指揮官たちの野心」も、はたまた、「日本のマスコミ<の>・・・報道合戦」も、全て世論を踏まえてのものであったことを忘れてはなりません。(太田)
 こうし<た>・・・なかを、中支那方面軍は、掠奪、強姦、放火、虐殺とあらゆる蛮行をくりかえし、積み重ねながら、南京へ殺到していったのである。
→笠原は「蛮行」について具体的典拠を挙げていないので、額面通り受け取ってよいかどうかは定かではないものの、仮に全て事実だったとしても、前に記したように、支那の一般住民にとっては、そんなものは、軍閥や蒋介石軍の前科で慣れっこになっていたと想像されるのであって、だからこそ、奥宮海軍大尉は南京陥落後、南京内外で、(蒋介石軍に比べて相対的に規律がとれていてかつ人間主義的であったところの、)日本軍に対して協力的な一般住民にしか出会わなかった(コラム#6278)のでしょう。
 もとより、南京攻略戦から始まり、爾後続くこととなる、陸軍による支那一般住民に対する「蛮行」は、(蒋介石軍による同じ類の「蛮行」同様、)申し開きができないことであり、このことについては、未来永劫、日本人は支那人に対して謝罪を続ける覚悟を持つべきでしょう。(太田)
 12月1日、大本営は「中支那方面軍は、海軍と協同して敵国首都南京を攻略すべし」・・・との南京攻略を下令して、中支那方面軍の独断専行を正式に追認した。翌2日、蒋介石からトラウトマンに日本側の和平条件を認める意向を伝えたが、・・・広田外相は「犠牲を多くだしたる今日、かくのごとき軽易なる条件をもってしてはこれを容認しがたい」と述べ、近衛首相は「大体敗者としての言辞無礼なり」と強硬意見を述べた。杉山陸相は講和の促進を主張する中央部内の不拡大派の働きかけをうけていったん即時和平交渉の必要を表明したがすぐに覆し、「このたびはひとまずドイツの斡旋を断りたい」と申し出ると、近衛首相、広田外相もすぐに賛同をしめした。」(155〜156、158、160〜161、165〜166)
 
→海軍大臣の米内光政については、和平交渉に関して明確な発言をしなかったからこそ、引用がないのでしょうが、これだけでも、笠原の海軍「対米海軍拡張」陰謀説が吹き飛んでしまいそうですね。
 とまれ、元首相と現首相が和平交渉に反対し、賛成する陸軍大臣と沈黙していた海軍大臣とを押し切ったことは、当時の日本でも政治の軍事に対する優位・・私の嫌いな言葉だが、「シビリアンコントロール」・・が機能していたことを示すものです。
 そして、これまた、何度も繰り返しますが、広田と近衛は、世論を踏まえて和平交渉に反対したわけであり、当時の日本で、民主主義もまた機能していたことが分かります。
 しかし、世論に追随するだけなら、政治家はいりません。
 広田と近衛によって、この時、日本政府が蒋介石政権との和平交渉に入らないこととされたことが、結果から考えれば、太平洋戦争の勃発と日本人(だけをとっても、その)数百万人の死と日本の敗戦とを決定づけた以上、両名は、敗戦時にはその政治的責任をとってしかるべきでした。
 もとより、政治的責任の取り方は自殺だけではありませんが、敗戦時に自殺したのが、この時両名に押し切られた杉山元と、終戦時にたまたま陸相であった阿南惟幾であったことは見事な潔さであったのに対し、(ダメ貴族たる)近衛はGHQによって逮捕される運びとなった時になってようやく自殺し、(ダメ外交官たる)広田に至っては、妻が先に自殺し、その後、極東裁判で死刑が宣告されて処刑されるまで生きていたわけであり、両名とも卑怯であり醜態を晒した、とあえて申し上げておきましょう。
 (念のためですが、私は、トラウトマンに託した条件で日本は妥結すべきだったと言っているわけではありません。中ソ中立条約の解消等、赤露との訣別措置を追加的に求める等が考えられるところ、米英世論対策をも念頭に置き、ダメもとでとにかく交渉には入るべきであった、と考えています。)(太田)


 「12月1日、大本営は、中支那方面軍の戦闘序列(戦争または戦時に際して天皇の令する作戦軍の編組、それまでは天皇の命令のない「編合」となっていた)下令、同方面軍に南京攻略を命令した(中支那方面軍はすでに南京攻略を開始していたから、実際は追認にすぎなかった)。これを受けて同日、軍令部総長から「支那方面艦隊は陸軍と協力、南京を攻略」せよという大海令(天皇の命令を伝宣する軍令部総長の命令)が発令され、海軍は・・・遡江部隊(第11戦隊が基幹)は、長江両岸の要衝に設置された要塞や砲台を攻撃しつつ、あるいは・・・途中何カ所かに沈船を障害物として設けられた閉塞線を除去しつつ、さらには随所に敷設された機雷を回避または除去・処理(掃海)しながら、南京へと進撃した。
 ・・・予想外の難行軍を続けた遡江部隊は、中支那方面軍が南京城内を占領した12月13日午後、ようやく南京に突入した。・・・
 海軍軍医泰山弘道大佐は『上海戦従軍日誌』に「下関に追いつめられ、武器を捨てて身一つとなり、筏にて逃げんとする敵を、第11戦隊の砲艦により撃滅したるもの約1万人に達せりという」と書いている。海軍の艦船は、長江をわたって逃げようとした、無抵抗の敗残兵、市民に対して一方的な殺戮を行ったのだ。」(169〜172)
 
→笠原は、これが前出の「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」違反だから虐殺だとする(173)のですが、降伏していない敵残兵の掃蕩なのですから、全く問題はありません。(太田)


 「南京のすぐ下流の長江に八卦洲とよばれる大きな中洲がある。そこに・・・長江をわたって流ついた将兵や民間人が何千人と避難していた。ところが、すぐに日本軍官に発見され、・・・数日後に全員が長江の岸辺に集められ、集団虐殺されたのである。」(173)
 
→笠原は、ここは、蒋介石軍将校で、この中洲から「筏をつくり明け方の濃い霧を利用して脱出に成功した」(173)人物の証言によっており、この証言の信憑性の問題もあるけれど、そもそも、この人物が伝聞に基づいて語っている「集団虐殺」を、そのまま事実であると笠原が受け止めた根拠について、笠原は全く記していません。
 もとより、私は、日本軍が捕虜虐殺を南京城外で行った可能性が高いとは考えているわけですが、やったとしたらそれは陸軍の方でしょう。
 この証言者は、虐殺したのが海軍であったのか陸軍であったのか特定していないようであるにもかかわらず、笠原が、海軍も捕虜虐殺を行ったと読める記述を行った点も問題です。
 海軍でも陸軍でも同じではないか、というわけにはいきません。
 笠原が、海軍悪者論を展開している以上、この点は重要だからです。(太田)


 「この間、南京に対する空襲爆撃も継続して行われ<た。>・・・
 12月2日・・・はソ連製のи16型戦闘機<(*35)>約20機と交戦、さらに上空にマルチン重爆撃機<(*36)>の編隊を発見して攻撃、爆撃隊は南京大校場飛行場を爆撃した。・・・その日の成果はи16型戦闘機10機撃墜(うち3機不確実)、マルチン重爆撃機3機撃墜、南京大校場飛行場の格納庫付近に60キロ陸用爆弾12個命中、であった。日本側の被害は、戦闘機3機が機銃弾をそれぞれ数発ずつあびて弾痕をつけられた程度であった。・・・
→既に対日米ソ「合作」が成立しているとさえ言える、蒋介石政府の飛行部隊のラインアップですね。(太田)
 蒋介石は虎の子の飛行部隊のそれ以上の損失を恐れて奥地へ撤退させたため、以後・・・南京攻略戦は日本軍の完全な制空権下に行われることになった。・・・
→石射猪太郎が、その3か月以上も前の8月26日に起こったヒューゲッセン事件の時に、「当時上海方面の制空権が、完全にわが海軍に帰していた」と日記に記した(コラム#6264)ことがいかに荒唐無稽なことであったか、ということです。
 これもまた、日本の外務省の官庁間情報収集能力のお粗末さと、石射を始めとする外交官の不勉強に由来するところの軍事に関する識見の欠如を端的に物語る事例です。(太田)
 12月3日、第二連合航空隊は南京の東南、上海--南京のおよそ3分の1の訳130キロの位置にある常州に前進基地をひらき、同隊の約半数の兵力を移駐させ、同基地から南京爆撃へ発進できるようになった。・・・
 12月8日、上海の岡本総領事は、上海領事団首席領事に対して第三国人は一律に南京を立ち退くように申しいれを行い、翌9日同じく岡本総領事は、上海の外交団および領事団に対し「揚子江沿岸各地において、各国がその船舶車輛を支那側より遠ざけ、交戦地域以外に移転し」「出来うべくんば戦闘地域より完全に離脱せんことを希望」「もって帝国軍の第三国財産尊重の努力に協力せらるるよう通報」した。・・・
 この通告によって、交戦地域にいる第三国人の方が悪いという思い上がりが現地日本軍指揮官に生ずることになり、パナイ号事件発生の要因になっていく。」(174〜176、179〜180)
 
→「思い上がり」どころか、端的に申さば、「交戦地域」にとどまった「第三国人」が日本軍から攻撃を受けたとしても、日本の責任ではない、という趣旨の通報だったのですから、「戦闘地域」にとどまった方が悪いに決まっているではありませんか。
 9月19日、20日に長谷川第三艦隊司令長官が南京空爆宣言を行った時、駐華米国大使ジョンソンは、ただちに米「河川用砲艦ルソン号とグアム号に大使館員一行をを連れて避難し」(138)ていますが、12月9日の岡本総領事による「戦闘地域・・・離脱」通報については、米海軍が、それを無視して離脱しなかった、いや、より正しくは、(前述したように、)「離脱」していた可能性が高いパナイ号等に戦闘地域の中心に取って返すという自殺行為を行わしめたのは、一体どうしてなのでしょうか。(太田)

 さて、笠原は、180頁から長々と説明を行った後、204〜205頁に至って、

 「<12月12日、>海軍攻撃機隊の搭乗員たちは、パナイ号がその位置に・・・いるという情報を知らされずにいたので、中国部隊輸送のアメリカ艦船と「誤認」して撃沈した、つまり星条旗をかかげた砲艦がパナイ号とは知らずに撃沈したという「誤認」である。・・・
 ただし、事実どおり公表しては、アメリカにとっては「故意爆撃」となる。そこで、「汽船に国旗を認めず」(海軍報道)「米艦船たることを識別することあたわずして」(海軍公表)という「誤認」まで粉飾して公表して、陳謝するということになった。
 こう考えると、支那方面艦隊司令部が、パナイ号撃沈の事実関係を認定するための現地調査も細部調査も何もせずに即座に撃沈の事実を認める大決断を下し、謝罪する措置にふみきったいきさつが、矛盾なく理解できる。」
 
と断じています。
 ここまでは、基本的に笠原の指摘どおりでしょう。
 しかし、ここから先の記述は問題だらけです。


 「「誤認」にはそう「誤認」するにいたる経緯があり、理由があり、原因がある。・・・
 その第一が、・・・海軍が<行った>・・・海上封鎖であった。・・・
 <これに対し、>中国側が外国船偽装あるいは外国船を利用して、物資や兵器、兵員を輸送するケースがあった<ところ、それは>違法といえるかもしれないが、・・・<それは、>窮地にたたされた中国が「自衛」のためにやむを得ず行ったものである。
 しかし、このことが現地日本軍に・・・流布され、陸海軍の部隊指揮官の間に「船舶の国籍いかんを問わず撃滅せよ」という認識と心理が広範に存在したことが、「誤認」を必然的なものにした要因になったといえよう。
→(既述にして、後述もするところの、)退避勧告まで日本側がしていた以上、戦闘区域内にとどまっていた第三国艦船が、無害であることを日本側に積極的に開示しない限り、それを攻撃の対象とすることに何ら問題はないのであって、笠原の主張は言いがかり以外の何物でもありません。(太田)
 第二は、・・・米英恐れるに足らずという海軍の慢心が、・・・しだいに英、米などの在華権益を駆逐しようという意図さえ含むようになり、空爆作戦による外国人の施設・財産・生命の侵害に対して無神経になっていた<のも要因になったといえそうだ>。
→この笠原の主張は、完全に誤りです。
 海軍は、そんな「慢心」があったどころか、陸軍よりもはるかに「英、米など」を恐れていたからこそ、(前述したように、)ヒューゲッセン事件の時にはやってもいないのに玉虫色の解決に甘んじたのですし、(後述するように、)パナイ号事件の時には米国艦船ではないと「誤認」したなどというウソを言ってまでして謝罪をしたのです。(太田)
 「中支那方面軍司令官・松井石根大将はパナイ号事件の翌日の戦陣日記に、・・・「かかる危険区域に残存する第三国民ならびにその艦船が多少の側杖をこうむるのはやむなきことなり。いわんや我が方はすでにこの方面における戦場の危険を列国に予告しておきたるおや」と記している。・・・さらに松井はレディーバード号事件に対してイギリス政府に謝罪した日本政府を、うろたえすぎだと批判し・・・たのである。」(206〜208)
 
→ここは、まさに、全面的に松井の言うとおりです。(太田)


 「<しかし、>パナイ号は日本側の警告にしたがうかたちで、戦闘区域から南京上流に避難していたところを爆撃されたのである。松井はおそらくパナイ号が撃沈された位置と状況を正確に知らなかったと思われる。」(208)
 
→笠原は、「南京付近戦闘経過要図」程度の戦場図
http://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:Battle_of_Nanking_1937.jpg
http://ja.wikipedia.org/wiki/南京攻略戦
すら頭に入っていないのか、知っていてあえて筆を捻じ曲げているのかどちらかでしょう。
 ただただ、笠原を軽蔑するほかありません。
 パナイ号事件が起こったのは12月12日午前ですが、その翌日の13日の午後4時に国崎支隊が南京の対岸の浦口に到達し、
http://home.att.ne.jp/blue/gendai-shi/nanking/nank...
ここに日本軍による南京包囲網が完成しています。
 同支隊が長江を舟艇で渡河した期日はこの典拠だけでは分かりませんが、渡河地点は南京より上流約60km・・私が目分量で測った・・であり、これだけでもパナイ号が戦闘区域内にいた可能性が高いと言えます。
 より決定的なことがあります。
 同支隊隷下の部隊だと思われますが、橋本率いる野戦重砲第13連隊が、渡河地点より更に約30km上流の南京から100km弱・・私がやはり目分量で測った・・の蕪湖
https://maps.google.co.jp/maps?f=q&source=embed&hl...
で残敵掃討戦を行っている最中に、パナイ号事件と同じ12月12日に、レディーバード事件を起こしていることです。
 この部隊は野戦重砲連隊ですから、榴弾砲を持っていたはずであり、同砲の最大射程は10km前後である
http://ja.wikipedia.org/wiki/九一式十糎榴弾砲
ことから、南京から長江上流100km超までは、陸軍だけをみても、南京攻略戦の戦闘区域(交戦地域)であったと言えそうであり、そこに、航空機部隊もからむのですから、長江上流45kmにいた(しかも、南京に向けて航行していた)パナイ号は、どちらかと言えば戦闘区域の中心に近い位置にいた、とさえ言えそうです。
 そもそも、日本軍は、蕪湖を12月9日くらいには既に落としています(*37)。

 一体その時、パナイ号は蕪湖の上流、下流、どちらにいたのでしょうか。
 いずれにせよ、蕪湖が日本軍の手に落ちた、すなわち、蕪湖までが戦闘区域に入ったことを、パナイ号は9日の時点で知るところとなっていたはずです(*38)。

 こうして四囲が戦闘区域になってしまってからも、(米大使館員達が、すぐ乗船せず、しかもすぐに出航させなかったせいだと思われますが、)パナイ号が、2日近くを空費し、しかも、10ノットで航行したとしても、6時間余で完全に戦闘区域外に出ることができたはずなのに、遡上することを決めた後、なお半日以上戦闘区域内にとどまっていたというのは、自殺的愚行以外の何物でもありません。
 砲撃を受けたので引き返した、ということのようですが、空爆や砲撃を受けた後に遡上することにしたのですから、砲撃を受けても、少なくとも戦闘の中心地域である南京方面へと引き返すべきではありませんでした。
 (軍人というものは時間や位置関係をとりわけ重視するところ、)当然のことながら、松井中支那方面軍司令官が、以上のような時間的経緯や位置関係の概略を知らなかったわけがないのです。(太田)


 「パナイ号撃沈の報に強い衝撃をうけたローズベルト大統領は、12月13日天皇裕仁宛に抗議書を送った・・・。しかし、天皇は広田外相からその親書を渡されることなく、12月14日に南京陥落を喜ぶ勅語を下賜した。」(210)
 
→広田外相は責任回避のためにそうしたとしか思えませんが、これもまた、広田の懲戒免職に値する職務懈怠ではないでしょうか。
 広田率いる外務省は、抗議書の件を、首相はもちろんですが、陸海軍にも伝えていなかった可能性が大です。
 陸海軍に伝えれば、侍従武官等から天皇にそのことが伝わり、天皇から二重に叱責を食らうことを覚悟しなければならないからです。
 この情報が(恐らく)首相や陸海軍に伝達されていなかったことは、以降の内閣の戦争指導に微妙に影を落とすことになったのではないでしょうか。
 この時点で、日本の外務省はかくも堕落してしまっており、それが敗戦を経て回復することなくそのまま現在に至っている、といったところでしょうか。(太田)



<補論2:どうして日本軍による捕虜/便衣兵殺害・一般住民殺害・強姦・略奪ばかりが問題視されるのか>


 「抗戦の果てに<南京等を除く>東南の豊かな地域が敗残兵の掠奪場と化してしまった。戦争前には思いもよらなかった事態だ(中略)撤兵時の掠奪強姦など軍規逸脱のすさまじさにつき、世の軍事家が予防を考えるよう望むのみだ」(蒋介石による1937年11月30日の日記)
http://ameblo.jp/michiru619/entry-11459773691.html 
 

 「支邦兵自身は日本軍<の南京>入城前に全然掠奪を為さざりし訳にはあらず,少なくともある程度には行い居れるなり。最後の数日間は疑なく彼等により人及財産に対する暴行犯されたるなり。支邦兵が彼等の軍服を脱ぎ住民服に着替える大急ぎの処置の中には、種々の事件を生じ、その中には着物を剥ぎ取るための殺人をも行ひしなるべし。」(米副領事(エスピー)が作成した報告書より)
http://www.tok2.com/home/johnvoid/nakkin_faq_ans8.... 
 

 「12月14日朝、まだ日本兵は中国の一般市民にたいして敵意ある態度をとってはいなかった。だが正午ごろになり、6人から10人ぐらいの日本兵の小グループがあちこちで組織された。かれらは連隊徽章をはずして、家から家を略奪して回った。中国兵は主に食料品に限って略奪したが、日本兵は見境なしであった。かれらは町を組織的かつ徹底的に略奪したのである。
 私が南京を去る12月15日までに、私と他のヨーロッパ人の見たところによれば、中国人の家はすベて例外なく、またヨーロッパ人の家はその大部分が日本兵に略奪しつ<く>された。屋根になびくヨーロッパの国旗は日本兵に引きずりおろされた。日本兵の一団が家財道具を持ち去る光景も見うけられた。かれらはとくに壁掛け時計を好んでいるようだった。
 まだ南京に残っていた外国の車も押収され・・・た。」(スミス(ロイター通信)記者による講演)
http://www.geocities.jp/yu77799/smythekouen.html 前出
 

 私の仮説は次のとおり。

一、「捕虜/便衣兵殺害」については、上海〜南京戦の間、日本側から(便衣兵はもとより)捕虜が出なかったので、支那側は殺害しようがなく、「一般住民殺害・強姦・略奪」については、南京城内に関しては、支那兵の方は、その少なからぬ部分が比較的長期駐留しており一般住民と馴染みがあって略奪等に躊躇があったところへ、敗残・脱出までの短時間に、兵士一人一人がバラバラに略奪等を行ったので、日本兵に比べて、略奪等の規模が小さかった。
二、支那兵は欧米人の家に対する略奪等は、味方意識があったこともあり、基本的に行わなかったのに対し、日本兵は(殺害・強姦こそ行わなかったが略奪は)行った。
三、南京城内での略奪等について記録を残したり証言したりした者の大部分は欧米人だったので、一、二、とりわけ二から、日本側に厳しい記録・証言になった。

(<補論2>ここまで)



 「米内海相は、アメリカ政府に対して海軍航空隊責任者の譴責処分を実施したと通達する前日、支那方面艦隊に対しては心配無用という「激励」電報を打っていたのである。その譴責処分というのも、・・・アメリカ政府と外交上の決着をつけるためのポーズにすぎなかった。・・・
 いっぽう、陸軍は陸軍で、パナイ号事件に不関与であったことを強調し、責任処理を海軍側におしつける姿勢をみせた。・・・
 陸軍発動艇が最後に機銃掃射をあびせてパナイ号に乗艦した事実があるにもかかわらず・・・陸軍側はこれを隠して、陸軍は不関与で責任はないという態度で貫こうとした。・・・
 もともとは現地陸軍司令部からの要請にもとづいて航空部隊を出撃させたのが原因となって、事件を引きおこすことになった海軍は不満だった。その憤懣の発露が、山本海軍次官の<レディーバード事件を起こしたところの>「橋本[欣五郎]なんか弾丸にあたらないか」という・・・言葉<にな>った。」(220〜221)
 
→同じ日に起きたレディーバード事件とパナイ号事件の対処方針が外務省と陸海軍との間でどのように決まったのか定かではありませんが、ヒューゲッセン事件の時の、(前海軍次官である第三艦隊司令官の意向に反し、その頭越しに、後任の山本海軍次官らと外務省との間の調整で決まったと考えられる)低姿勢の対処方針が先例となったのではないでしょうか。
 日本軍が起こしてもいない前者のケースで事実上の謝罪をした以上は、日本軍が起こしたことが明白な後者のケースでは、それがやむをえないものであっても、公式の謝罪をすべきである、という理屈です。
 仮にそうであったとすれば、陸軍も海軍も、内心は不満たらたらであって当然でしょう。(太田)


 「松井<石根(*39)中支那方面軍司令官は、>・・・<レディーバード事件とパナイ号事件の>両事件が重大な国際問題に発展し、責任者の処分が取り沙汰される段階にいたると、・・・知己であった『ニューヨーク・タイムズ』上海支局長ハレット・アベンドに同紙の一記者を中支那方面軍の司令部まで特別機で来させて、事件の内幕を聞かせた。そして同紙12月20日付に「橋本大佐がパナイ号への射撃を命令 1936年の東京における軍部クーデターの指導者、政治的影響力が処罪の障害となる。松井大将の軍秩序維持の努力は無視される」というスクープを書かせたのである。・・・
 
 「橋本が帰国するか、私が帰国するかだ。あのような扇動者の行為や方針に責任はとれない」と後日上海にもどった松井はアベンドに語っている。
 アベンドのスクープは四回にわたって『ニューヨーク・タイムズ』に掲載され、大きな反響を呼んだ。その結果、パナイ号事件は、橋本欣五郎のような狂信的な右翼軍人がアメリカやイギリスとの戦争を挑発するために引き起こしたものであり、日本政府はもちろんのこと、軍上層部でさえも、そのような無謀な排外的侵略的武力行動を抑制する力を失っていると、日本軍国主義への強い警戒心をアメリカ政府・国民にあたえることになった。・・・
 結局、陸軍はレディーバード号事件で橋本欣五郎を譴責処分にしなかった。後日談になるが、松井と橋本の対立で先に帰国させられたのは松井の方だった。松井石根大将は中支那派遣軍(司令官畑俊六大将)の編成にともなって中支那方面軍司令官を解任され、1938年2月に帰国した。橋本欣五郎大佐が召集解除になって帰国したのは一年後の39年3月だった。」(223〜224)
 
→私は、松井にはこれまで比較的好意的な印象を抱いていたのですが、この挿話には開いた口が塞がりません。
 自分の命令に従って行動しただけの橋本を貶めた上で責任をなすりつけるとは言語道断です。
 橋本は、レディーバード事件に関し、独断で先方に謝罪してしまうという過ちを犯していますが、河本大作への姿勢からも窺えるように、松井はこの種の独断専行(下剋上)が極度に嫌いな人物だったのかもしれません。
 しかし、結果的に日本政府、陸軍中央が橋本を追認する形で英米に謝罪した以上、松井は橋本を咎めることができなくなってしまったわけです。
 その怒りを、松井は、屈折した形で外国人記者に吐き出した、ということなのではないでしょうか。
 そんな松井の下、部下が南京で捕虜や便衣兵の殺害を独断専行で行う訳がありませんし、部下が兵士達による略奪等に目をつぶるわけがありません。
 前者は(赤露通かつ支那通として、支那人、とりわけ軍閥兵や蒋介石軍の兵士達、を軽蔑し切るに至っていた)松井が直接命じ、後者は南京攻略戦以前から事実の報告を受けていて何の措置もとらずに黙殺した可能性が大です。
 上掲ウィキペディアの執筆者が松井について「軍紀に厳しい」と記したのは、引用すべき資料の選択を誤ったのか、自ら言葉の選択を誤ったのか、いずれにせよ不適切でした。
 ご承知のように、私は、当時の陸軍は海軍よりマシで、その海軍でも外務省よりはマシであったと申し上げてきているわけですが、どんな組織にも腐った林檎はつきものであり、陸軍の場合、その数少ない腐った林檎の一つが松井であった、と言えそうです。

 ところで、不思議なことがあります。
 それは、NYタイムス南京支局長(?)であった、F・ティルマン・ダーディンが、南京脱出後、南京における日本兵による支那人の虐殺等について、12月17日に上海停泊中の米船オアフ号から送った記事が翌18日付の紙面を飾り、また、その12月18日に上海(のNYタイムス支局?)から送った記事が翌19日付の紙面を飾っており、
http://www.geocities.jp/yu77799/durdin.html 前掲
上海支局長ハレット・アベンドは、恐らく12月19日に送ることを許可したはずの、20日から4回にわたって紙面を飾った、松井のインタビュー記事の中に本件を織り込まなかったのはどうしてか、です。
 日本の現地軍の最高責任者に、本件について問い質す絶好のチャンスであったにもかかわらず・・。
 (笠原が一切言及していないので、本件は織り込まれなかった、と考えざるをえません。)
 まさか、アベントがライバル(?)のダーティンに花を持たせたくなかったなどということではなかったでしょうから、NYタイムスの読者にとっては、日本軍による支那人の虐殺等よりも、日本軍による米英軍艦等への攻撃の方がより関心があったので、それに応えようとした、ということなのでしょうね。

(太田)


 「このころ、近衛首相と広田外相の不仲は側近が心配するほどあからさまになっていた。・・・
 近衛首相の日独伊防共協定路線への急傾斜と、当時親英派と目されていた広田外相との軋轢も関係したと思われるが、近衛は病気で辞表を提出した馬場?唇貽睫蛎膺辰慮綰い法∨欛/倮騎し蛎臂?瞥夙焏髻砲鮟△韻拭?12月14日就任)。末次海軍大将こそは加藤寛治と組んで海軍部内に親独、反英米の「艦隊派」「統帥派」の一大派閥を形成するのに狂奔してきた、札つきの軍拡強硬論者であった。・・・
 内務省は、・・・治安警察法、治安維持法を運用し、・・・<また、>国民精神総動員運動の推進本部の役割をになっていた。・・・
 しかも、このとき近衛首相は、内閣を投げ出して、首相を辞めることを考えていた・・・。」(225〜226)
 
→近衛の孫である細川護熙が、(父親の細川護貞や)この祖父が出た京大法を目指すも二度不合格となって断念したという点こそ違え、時代の潮流を見抜いてそれに乗る才覚に優れる一方で、父親が子の護熙が首相になった時に「「あれの性格ではいずれ投げ出すだろう」という趣旨の発言をし」、的中したことが雄弁に物語っているように、容貌を含め、同じく首相を務めた近衛と瓜二つの人物であることは興味深いですね。(太田)


 「日本海軍機によるパナイ号撃沈の第一報は、1937年12月14日各新聞で、南京陥落直前の激戦のもようを華々しく報ずる紙面の片隅に小さく報道された。・・・
 翌12月15日の新聞は、パナイ号事件・レディーバード号事件が重大な国際問題化していることを・・・報じた。・・・
 ついで各新聞は、<16、17日、>アメリカ、イギリス政府が厳しい対応をみせていることを報道した。・・・
 こうして、パナイ号撃沈のニュースが流れると、民間でアメリカに謝罪する運動が自然発生的にはじまった。・・・
 新聞が仰々しく報道したのが、女性、少女、子供たちの謝罪活動であった。・・・
 パナイ号事件に対する謝罪運動は、個人や団体が、アメリカ政府・国民へのお詫びの手紙を書き、お見舞いの贈り物を差し出したり、事件遭難者への慰問金を集めて贈るというかたちで進められた。・・・
 日本の外務省、海軍そして国民が展開してきた謝罪・賠償運動は、広田外相のやりかたでもある、事件の原因や責任の究明よりは、国民的規模の陳謝と償いの申し出によって早く示談的決着に持ちこもうというものであった。それが、いちおう功を奏して、「円満解決」したととらえた日本側では、損害賠償に関する以外のことは、ほとんど問題にしなくなった。新聞のパナイ号事件報道も「喉元過ぐれば熱さを忘る」の諺そのままに、その後は紙面から消えていった。
 同じ12月27日付アメリカのボストンの新聞『クリスチャン・サイエンス・モニター』の社説「事件の終結--残る疑問」は、「日本は喜ばしげにパナイ号事件が終結したと言っている」ことを批判してこう述べた。
 
 不幸なことに、日本国民は・・・なおそれは誤爆だと信じている。さらに日本の新聞は全体として、アメリカの抗議の全文や、あるいは日本の陳謝さえも発表していない。国民は攻撃の重大さや、米国国民感情激昂の程度や日本政府が合衆国を満足させるために費やした文言の長さを知らされていないのである。・・・
 グルーは・・・、近衛首相が、パナイ号撃沈をめぐるアメリカ政府と国民の動向についてほとんど無知で、首相側近がセレクトした都合のよい情報だけを与えられていたため、アメリカおよび外国の対日意見について正確な認識をもっていなかったことを記している。パナイ号事件に対するアメリカ政府・国民の対日批判と抗議運動に関するニュースは、各地の在米領事から外務省に逐次報告されていたのである・・・。それらの情報は国民にはもちろん知らされなかったが、広田外相は、不仲ゆえにか、・・・近衛首相にも正確につたえなかったのである。」(229〜231、233〜234、242〜245)
 
→「国民が展開してきた謝罪・賠償運動は、広田外相のやりかたでもある」という笠原の記述もまた、転倒した論理に立脚しています。
 政府が本当のことを発表せず、日本の新聞もまた、(本件について検閲があったのかどうかは詳らかにしませんが、)米国の言い分の全体、就中故意による攻撃であったとした点、を報じなかったらしい中で、人間主義的で、かつ、米国大好き人間が多かった日本国民が下から自発的に始めた謝罪・賠償運動を、あたかも、外務省が上から組織したものであるかのように描いているからです。
 それにしても、日本国民の人の好さは、ここまで来ると滑稽としか言いようがありません。
 相手の米国人は、一般に日本人に比して非人間主義的である上、日本人とは違って人種主義者である者が大部分であり、そのこともあって、日本人、ひいては日本を見下していたときていたのですから、こんな謝罪・賠償運動をいくら行っても、何か魂胆があると勘繰られたり、愚行として笑いものにされたりするだけで、殆んど効果がないことを知らなかったのですから・・
 日本人に対するこのような偏見があったからこそ、米側は、グルー駐日大使も、米国の主要紙も、パナイ号/レディーバード号事件の真相を解明することができなかったのでしょう。
 いずれにせよ、銘記すべきは、ヒューゲッセン事件、及びパナイ号事件(、そして事実上レディーバード号事件も、)の対処方針の決定に中心的役割を果たしたのは、浅知恵の外務省もさることながら、海軍であって、しかも、そのキーパーソンが山本五十六海軍次官・・彼は米国の潜在能力に対しては正しくも畏怖の念を抱いていた・・であった可能性が高いことです。
 彼は、伝統的に米海軍を仮想的としてきたところの、帝国海軍の大幹部であるにもかかわらず、しかも、米国滞在経験が長かったにもかかわらず、米国の半可通にとどまり、当時の米国人の、多くが抱く(上述の偏見を含む)心情や孤立主義的傾向について、無知に近かった・・有体に言えば、当時の外務省の英米通並の認識しかなかった・・としか思えません。
 パナイ号事件等でバレバレのウソをついたりすれば、米国人の対日偏見を増幅させるだけであること、本当のことを米国に伝えて米国人の激昂を買ったところで、米国が孤立主義を克服して対日開戦をするようなことはありえないこと、が彼には分からなかったのではないか、と私は見ているのです。
 そこからは、日本及び米英にとっての日支戦争の意味を対赤露抑止の観点から米国人に対してあらゆる機会をとらえて説明する、といった発想が出て来るはずもありません。
 同じことが、その後の、彼が連合艦隊司令長官だった時の対米開戦/真珠湾奇襲攻撃についても言えます。
 米国の孤立主義の基調は全然変わっていなかったのですから、対英(マライ)攻撃だけにとどめ、対米開戦は思いとどまるように全力を挙げて日本政府部内の根回しを行わなければならなかったのに、それをしなかったことは致命的ですし、真珠湾攻撃開始直前に宣戦布告通知が米国政府に伝わるような形の奇襲にこだわったことも愚策でした。
 万一、宣戦布告の伝達が遅れた場合のことを彼が考えた形跡が全くない、ということは、彼は、駐米日本大使館に駐在武官として勤務した経験もあるというのに、大使館の事務能力のお粗末さや外務省そのものの退廃ぶりを十分把握していなかったことや、伝達が遅れた場合に米国民の圧倒的多数がいかなる反応をするかが全く想像できなかったこと、を示しています。(太田)


 「パナイ号撃沈・・・<について、>12月14日・・・『ニューヨーク・タイムズ』は「・・・日本海軍少将、中国軍の乗船が考えられたと釈明」と・・・報道。・・・『ワシントン・ポスト』は「・・・日本軍はパナイ号を識別していた」と・・・報じ<た。>」(247)
 
→パナイ号事件での誤爆としての謝罪を外務省や海軍現地部隊が東京と上海で行ったのは13日であり、海軍が公式にこのラインでの声明を行ったのは14日でした
http://ja.wikipedia.org/wiki/パナイ号事件 前掲
が、この14日付の記事にその発言を掲載された、匿名の日本海軍少将を、NYタイムスの記者が取材したのは13日であったと思われるところ、その時点ではまだこの政府方針をこの(恐らく現地部隊の)少将は知らないまま、ホンネを語ったと想像されます。(太田)


 「パナイ号事件報道に南京大虐殺報道がくわわったことにより、アメリカ国民の日本軍に対するイメージはさらに悪化し、侵略性・凶暴性・残虐性のイメージが増幅された。・・・
 <米>海軍局査問委員会の報告書は、・・・日本海軍機による故意爆撃説の決め手となった。・・・
 以後、新聞報道は、「誤爆説」を主張する日本当局に対する鋭い批判を展開する。・・・
 日本では、12月27日付の新聞がいっせいにパナイ号事件の「円満解決」を報道して以後は、同事件の報道は、潮が引いたように消えていった。これに反して、アメリカでは両政府間の「外交決着」を吹き飛ばす勢いで、パナイ号事件の写真報道旋風が巻きおこった。パナイ号撃沈の現場を撮影した写真と<映像>フィルムを携えたカメラマン・記者の帰国によって引き起こされたのだった。・・・
 アメリカ国民の・・・日本商品ボイコット運動の広がり<を含む>・・・抗議運動の詳細な情報は、在米日本大使、各領事らから広田外務大臣にあてて逐次報告されていたのである。にもかかわらず、日本政府・外務省はそれらのほとんどを機密扱いにし、日本国民には知らせなかった。・・・
 各地の日本商品ボイコット運動は、AFLやCIO傘下の地方労働組合組織が、指導的な役割をはたしていた。
 全国的な運動としては、アメリカ学生連合・・・が全国の大学のボイコット運動を指導していた。・・・
 <また、>1937年12月18日、50余の市民団体・平和団体がニューヨークに集まって結成した・・・「日本の侵略に反対するボイコット委員会The Committee for a Boycott against Japanese Agression」<は、>・・・数名の大学総長も名を連ね、教授や牧師が指導的役割をはたした。・・・
 これらの・・・市民団体に多くの女性が参加し、指導的な役割をはたした。さらに中国派遣の伝道団の活動や中国におけるアメリカ系ミッションスクール、教会施設の運営を支える、キリスト教団体・組織に参加する女性たちも、ボイコット運動の徹底、普及に大きな役割をはたした。・・・
 パナイ号事件にさいして、日本国内では「優しい大和撫子の純情」「日本の母のお見舞い」ともてはやされて、女性や婦人団体の「お詫び運動」がおこなわれていたとき、アメリカの多くの女性は、日本軍の侵略の犠牲となった中国婦女子に同情の思いを馳せ、パナイ号撃沈事件をきっかけにして、日本軍の行為に抗議する「日本商品ボイコット運動」を展開していたのである。・・・
→米国において、キリスト教原理主義と人種主義とを背景にして、有色人種でキリスト教嫌いの日本人が、同じく有色人種ではあるけれどキリスト教徒も多いところの、かよわき支那人達をいじめている、という偏見に満ちた皮相的な見方を米国民の多くが持っていたという状況下、日支戦争勃発以降、在支キリスト教宣教師達が米本国の親教会各派を通じて女性を中心に信徒達に対して精力的に反日キャンペーンを展開し、このキャンペーンに米主要新聞が意識的無意識的に協力し、更には、蒋介石政権の、同政権がキリスト教擁護政権であるかのように装った米国向けのプロパガンダもあって、反日運動が盛り上がった、というのがかねてよりの私の解釈であることは、ご承知のとおりです。
 なお、在支キリスト教宣教師と言っても、それはプロテスタントの宣教師であって、カトリックの宣教師は含まれておらず、後者は、反赤露意識と的確な日本・支那認識に基づき、日支戦争において、日本側を支持していたことはご承知のとおりです。(太田)
 <この結果、>アメリカの対日輸入総額の統計<によれば、>・・・1937年の12月は前年の12月に比べて約28パーセント減少、38年1月は前年1月に比べて約34パーセントの減少となっ<た>。・・・
 日本軍の中国侵略戦争が拡大の一途をたどるにつれ、より長期化し、日本商品のボイコットだけでなく、アメリカが日本に対して石油や屑鉄の輸出を禁止する対日経済制裁をもとめる運動へと発展していく・・・。・・・」(251〜252、256、269、272〜274、278〜279)
 
→これほど大規模なボイコットであった以上、報道規制があろうがなかろうが、一般の日本人もこれを知るところとなり、これが、ローズベルトの反日政策とあいまって、親米であった日本世論を硬化させ、世論は急速に米国離れをして行くことになったと考えられます。(太田)


 「<その一方で、>パナイ号撃沈事件によってアメリカ国民にもたらされた日米開戦の危機意識が引き金になって・・・ルイス・ルドロウ<(*40)>下院議員<によって、>議会が外国に対して宣戦布告するには、事前に宣戦の可否を国民投票に委ねなければならない、という憲法修正法案<が>議会に提出<され、>その採択の可否をめぐって国民を巻き込んだ論争が展開されたのである。・・・<そ>の背景には、・・・アメリカ国民が、戦争に巻きこまれるのを避けたいという意識があった。・・・ルドロウ法案は38年10日の下院議会で僅差で否決された。」(270)
 
→これは、米国世論の当時の孤立主義/平和主義がどれほどのものであったか、それゆえにこそ、(前述したように、)ローズベルトによる隔離演説がいかに不評であったか、を雄弁に物語る挿話です。
 全米で推進された対日ボイコット運動も、その真意は、ローズベルトに日米戦争をやらせないためには平和的手段で日本の対支「侵略」戦争を止めさせる算段を講じるしかない、というせっぱつまった思いにあった、と考えられるのです。
 (ローズベルトは、これを逆手にとって、輸入ボイコットならぬ、戦略物資の対日輸出規制を行うとともに、蒋介石政権に隠密裏に、しかし積極的に(フライングタイガースの参戦を含む)軍事的支援を行うことで、日本を対米英開戦へと追い込んで行くことになるわけです。)
 笠原は、このルドロウ法案が「米国が最初に攻撃された場合を除く」という内容のものであった
http://en.wikipedia.org/wiki/Ludlow_Amendment
ことを(これまた恐らく意図的に)記していません。
 これは、前述したばかりの私の山本五十六評価にもつながることですが、日本が米国を先制攻撃しない限り、米国世論は対日戦争に賛成することはありえなかった、だからこそ、1941年12月には、対英攻撃だけにとどめ、対米攻撃は行うべきではなかった、ということを意味します。(太田)


 「国内では、日本軍が南京を攻略すれば、中国は容易に屈服して、戦争は勝利のうちに終結するという安易な期待感をマスコミが報道し、日本国民は「南京城に日章旗が翻る時」が戦争終結のゴールであるかのごとく戦争報道に熱狂した。いっぽう、上海戦に疲弊した将兵たちは、休養も与えられず、補給体制も不十分なままに南京攻略戦に駆り立てられたため、すでに軍紀が弛緩し退廃していたうえに、さらに、苦戦や難行軍を強いられたため、中国軍民に対するむきだしの敵愾心と破壊欲を増長させ、虐殺、強姦、略奪、放火などあらゆる蛮行を行う軍隊になっていった。・・・
→笠原は、日本兵の「中国軍民に対するむきだしの敵愾心と破壊欲」が、支那側の日本人に対する累次の虐殺事件等によって、第二次上海事変が起きる前から醸成されていたことから意図的に目を逸らしています。(太田)
 <しかも、南京陥落後の>12月17日の段階で南京城内の憲兵はわずか17名であったし、なによりも、軍隊の一部しか南京城内に入れてはならないという鉄則を破って、総勢7万以上の日本軍を城内に入れ、中国市民約25万人の残留する市中に、野放し状態にしてしまったのである。・・・
 松井石根大将は、「一時我が将兵により少数の略奪行為(主として家具等なり)強姦などありしごとくも、多少はやむなき実情也」と戦陣日記(12月20日)に記している。
 松井司令官は、はやる功名心から、12月17日には早すぎた南京入場式を、無理をしてでも挙行することに汲々とし、その日の治安を確保するために、捕虜、投降兵、敗残兵の大量虐殺を執行させ、膨大な男子市民を巻き添えにして虐殺したことにも頓着しなかった。」(280〜282)
 
→私が、自らの松井評を変更したところ、この変更後の松井評を裏付ける根拠が更に増えた、と言ってよいでしょう。(太田)



<補論3>

 松井石根のウィキペディアの次のくだりに違和感があったので追及してみた。

 「参謀本部と政府は上海事件の不拡大を望んでいたが、松井は上海近辺に限定されていた権限を逸脱して、当時の首都南京を攻撃・占領した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/松井石根
 

 笠原は、次のように記述している。

 「上海派遣軍と第10軍を合わせて中支那方面軍を編合したさい、参謀本部は「中支那方面軍の作戦地域は概ね蘇州、嘉興を連ぬる線以東とす」(臨令第六百号)と制令線を指示し・・・<てい>た。・・・
 11月15日、下村定<(*41)参謀本部>第一部長<は、>(まだ南京攻略は考えていなかったが)制令線を越えて中国軍を追撃することに執着し、作戦課長河辺虎四郎<(*42)>大佐が上海に赴き、現地軍の状況を調査し、その結果にもとづいて方針を検討することになった。・・・
 
 河辺課長は・・・「方面軍参謀長以下おおむねただ今の作戦の一段落を見れば、兵力の整理休養を必要と認めあり」という報告を送った。そのとき、松井石根中支那方面軍司令官のみ「ただ今は軍隊が疲労しているので、今すぐにとは言わぬが、南京攻略はぜひやらねばならぬ」と南京攻略に意欲を燃やしていた。・・・
 <ところが、>第10軍では11月15日、軍司令官柳川平助中将臨席のもとに幕僚会議を開き、軍主力をもって独断南京追撃を敢行することを決定していた。
 <そして、>11月20日、第10軍から「集団は19日朝、全力をもって南京に向かってする追撃を命令」という報告(11月19日発電)が届いた。多田<駿(*43)(コラム#3776、4548、5569)>参謀次長は非常に驚き、急を要するのでただちに中止させ、制令線から後退させよ、と指示した。拡大派の下村第一部長は内心は南京追撃論だったので、本問題は中支那方面軍の統帥にまかせるべきであると意見を述べた。しかし、多田次長の強い意見にしたがい20日夕方、中支那方面軍参謀長あてに「第10軍の南京追撃は臨命第六百号[作戦地区]指示の範囲を逸脱している」と打電した。・・・
 
 11月24日には天皇の隣席のもとに、・・・第一回大本営御前会議が開かれた。同会議で参謀本部の下村第一部長が、中支那方面の陸軍の作戦計画についてつぎのように説明した。
 
 この軍[中支那方面軍]は、上海付近の敵を掃滅するを任務とし、かつ同地を南京方面より孤立せしむることを主眼として編組せられておりまする関係上、その推進方には相当制限がございますのみならず、目下その前線部隊は輜重はもとより砲兵のごとき戦列部隊すらもなお遠く後方にあるもの尠くございません。したがって一挙ただちに南京に到達し得べしとは考えておりませぬ。
 この場合、方面軍はその航空部隊をもって海軍航空兵力と協力して南京その他の要地を爆撃し、かつ絶えず進撃の気勢をしめして敵の戦意を消磨せしむることと存じます。
 統帥部といたしましては、今後の状況いかんにより該方面軍をして新たなる準備態勢を整え、南京その他を攻撃せしむることをも考慮しております。
 
 右の説明のなかで、「南京攻撃」の部分は起案原稿にはなく、下村第一部長が多田参謀次長の承認をえずに、御前会議の場で抜け駆け的に挿入説明したものだった。・・・
 11月24日、第10軍につづいて、今度は中支那方面軍から「事変解決を速やかならしむるため、現在の敵の頽勢に乗じ、南京を攻略するを要す」という意見具申が届き、・・・下村第一部長は、なお前進不可論を堅持する多田参謀次長を説得して、中支那方面軍作戦地域を制限している制令線の廃止を指示した(大陸指第五号)。・・・
 それでもこのとき、多田参謀次長は戦線拡大を深く憂慮し、中支那方面軍参謀長あてに、南京方面へは進撃しないように電報を打っている。・・・
 中支那方面軍参謀副長には、参謀本部内の拡大派の中心であった武藤章<(*44)(コラム#4120、4548、4963、5455)>大佐が、参謀本部所属のまま出張の形式で派遣されていた。その武藤参謀副・・・長は、参謀本部がまだ正式に南京攻略戦を承認していない段階で、上海派遣軍の師団長に対して、南京進撃中の第10軍の師団の「戦功」をもちあげて露骨に挑発し、南京への急進撃をけしかけた・・・。・・・
 
 いっぽう参謀本部の下村部長は、「当部においては南京攻略を実行する固き決意の下に着々審議中なり、いまだ決裁を得るまでにはいたらざるも取り敢えずお含みまで」と中支那方面軍参謀長あてに打電し(11月27日)・・・た。これに対しては「ただ今、貴電を見て安心す、勇躍貴意にそうごとくす」という返電が寄せられている。・・・
 12月1日、大本営は「中支那方面軍は、海軍と協同して敵国首都南京を攻略すべし」(大陸命第八号)との南京攻略を下令して、中支那方面軍の独断専行を正式に追認した。」(156〜157、160〜163、166)
 
 このように、笠原もまた、南京攻略戦の開始について、中支那方面軍、すなわち松井の独断専行であった、と総括しているわけだが、そこに至る笠原自身の上記記述に照らしてもそれはおかしい。
 1937年1月7日に参謀本部第1部長心得となり、3月1日に陸軍少将に昇任と同時に参謀本部第1部長に正式に就任した石原莞爾が、そのわずか半年後の9月27日に関東軍参謀副長へと「左遷」させられた
http://ja.wikipedia.org/wiki/石原莞爾 上掲
段階において、松井は、陸軍中央が日支戦争に関して積極論でまとまったと受け止めたはずであり、11月1日に積極派の武藤章が自分の直接の部下として参謀本部から送りこまれた時点でこの認識は一層確固としたものになったと考えられるのであって、爾後の松井の言動や、彼の部下の第10軍や上海派遣軍の言動は、参謀本部第一部長の下村による阿吽の「指導」を受けたものであったこともあり、独断専行であったとは到底言えない。
 そもそも、独断専行をあれほど嫌った松井が、第10軍司令官や武藤らによる独断専行を許すはずもなく、いわんや、自分自身が独断専行するわけもなかろう。
 従って、冒頭に掲げたウィキペディアの記述は訂正を要する。

(<補論3>ここまで)



 「南京攻略戦は参謀本部の作戦計画にはもともとなかったため、南京は陥落させたものの、次に実行すべき、明確な政策も作戦も、陸軍中央にはなかった。・・・そのとき、主要な作戦として実施したのは、北支那方面軍が前から要請していた山東作戦の実施を12月18日に下令しただけである。・・・いっぽうでは、大陸の現地軍が・・・統制に違反するかたちで、・・・関東軍は11月25日に蒙疆連合委員会を組織して蒙疆政府の設立の工作をすすめ、北支那方面軍は12月14日に傀儡政権・中華民国臨時政府(行政委員長王克敏<(*45)>、・・・北京を首都とさだめる)を樹立させた。・・・
→笠原は、王克敏を「阿片と賭博と派手な生活で身を持ち崩した」(293)人物であったと貶めていますが、典拠が付されていません。
 我々は、汪兆銘や王克敏を始めとする、困難な状況下で日本に協力した支那の人々に対して、敬意と感謝を最低限示してしかるべきでしょう。(太田)
 日本国内では、南京陥落<について、>全国津々浦々、さらに台湾や朝鮮の植民地においても大祝賀行事を繰り広げた。そして、第73帝国議会・衆議院(12月14日召集)では、「南京攻略祝賀に関する件」が議案として上奏され、27日の本会議において、「陸海軍に対する感謝決議」が、全会一致で採択された。・・・
 当時の日本国民だけが、南京事件の事実をまったく知らされず、パナイ号事件についても、アメリカ国民の抗議をふくめた真相を知らされないままにいた<のだ。>・・・。」(283〜285)
 
→「「新聞掲載事項許否判定要領」(1937年9月9日、陸軍省報道検閲係制定)に基づ<き、>・・・以下のものが「掲載を許可せず」となっていた。「四 左に列記するものは掲載を許可せず (12)我軍に不利なる記事写真 (13)支那兵または支那人逮捕尋問等の記事写真中、虐待の感を与える虞(おそれ)あるもの (14)惨虐なる写真、ただし支那兵または支那人の惨虐性に関する記事は差し支えなし 五 映画は本要領に準じ検閲するものとす」」
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/南京攻略戦 前掲
 従って「南京事件の事実」は報道できなかったかもしれませんが、パナイ号事件等についての米国での報道ぶりについては、日本の報道機関は米紙を引用紹介することはできたのではないでしょうか。
 笠原の指摘のとおりだとすれば、各紙等の報道姿勢に問題があった、ということになりそうです。(太田)


 「日本側の要請で・・・トラウトマン和平工作・・・<が再開されたが、>12月21日の近衛内閣の閣議決定で蒋介石政府に提示された条件は、10月1日の四相会議で決定した「支那事変対処要綱」・・・の講和条件よりはるかに過酷なものだった。それは、内蒙古に非武装地帯設定と防共自治政府の設立、華北に日中協力の特殊政治機構設定と経済合作、華中占領地域に非武装地帯設定と大上海区域に日中共同治安維持と経済合作、日本への賠償支払い、華北・内蒙・華中の保障駐兵等々が加えられていた。・・・回答期限も12月末までと猶予をおかなかった。
 この講和条件の提示を広田外相からうけた駐日ドイツ大使ディルクセンは、「私は中国政府による受諾はきわめて難しいと思う」と述べ、広田外相は「軍事情勢の変化と世論の圧力により、これ以外に各方面の意見をまとめることができなかったと」述べている。
 年が明けて1月11日、日露戦争いらいはじめての御前会議が開催された。天皇の隣席のもと、参謀本部総長・次長、軍令部総長・次長、総理、陸、海、外、内、蔵各大臣と枢密院議長が出席して「支那事変処理根本方針」を決定した。それは、・・・<先ほどの>講和条件を受諾するならば、和平交渉をおこない、受諾しないばあいは、国民政府の潰滅をはかるとした。・・・
 中国側の回答は、中国外交部長王寵恵<(*46)>からトラウトマン大使に手交され、1月14日にディルクセン大使から広田外相に手渡された。
 
 相当熟慮の結果、わが方は改変された条件は、その範囲多少広きに過ぎることを発見した。このゆえに中国政府は十分な検討を加え確たる決定に到達するため、新たに提議せられた条件の性質と内容を知らされることを希望する。
 
 ・・・同日開かれた閣議では、「もはやこのような遅延策にはかまわずに、予定のとおり国民政府を相手とせずとの声明をなし、次のステップに入るべきこと」に意見が一致した。これを聞いた大本営は、即断に反対し、大本営政府連絡会議の開催を要求した。・・・
 <しかし、年が明けてからというもの、>マスコミ、ジャーナリズムは、国民政府はすでに一地方政権に転落しており、蒋介石政府を相手にしなくても・・・華北や蒙疆における新政権の成立<もあり、>・・・中国を屈服させることは可能であ・・・るかのような報道をつづけ<てい>た。・・・
 川越<駐支>大使は、・・・船津工作をぶち壊しにした人物であるが、国民政府に代わって新政権を中国民衆は熱望している<と>述べ、そ<れ>を新聞が・・・報道し、<その結果、>国民の間に「国民政府を相手にせず」の強硬論が優勢とな<った。>・・・
→外務省に、上に広田あれば下に川越あり、というわけです。
 出先の外交官が世論を煽って、その世論に煽られた形で中央の外相が蒋介石政権膺懲論を追求する、という図式ですが、改めて当時の外務省が、既にいかに堕落していたかを思い知らされる感があります。(太田)
 1月15日に開かれた大本営政府連絡会議は、・・・<世論に追随する(太田)>政府側と、・・・<軍事専門家としての倫理と論理を譲らない(太田)>陸海軍統帥部(参謀本部と軍令部)とに分かれ、夜間にまでわたって、白熱した議論が繰りひろげられた。・・・
 参謀本部首脳は・・・停戦・和平を早期に実現しなければ、ずるずると中国との長期戦の泥沼に突入して戦力の消耗を強いられることになり、陸軍の主要戦略である対ソビエト戦争への万全の準備が不可能になるという戦略的な危機意識をもっていた。・・・
 この日の会議の帰趨を決める<統帥部が折れないのなら政府が総辞職するほかないという趣旨の>強硬発言をしたのが、米内海相だった。・・・
→首相(近衛)、外相(広田)、海相(米内)の日支戦争積極論/蒋介石政権膺懲論「3兄弟」への当初の反対論を擲ち、彼らに消極的に同調するに至った杉山陸相とは大違いで、米内は、1月11日の御前会議でも日中交渉の打ち切りを主張した
http://ja.wikipedia.org/wiki/米内光政
ところの当初から一貫した、日支戦争積極論/蒋介石政権膺懲論の権化とも言うべき人物であり、極東裁判の論理に照らせば、彼こそがA級戦犯の、しかもその筆頭とされてしかるべき人物であったにもかかわらず、同裁判には証人として登場しただけ
http://ja.wikipedia.org/wiki/米内光政
でした。
 いかに同裁判が恣意的なものであったか、ということです。(太田)
 夕刻、多田参謀次長は参謀本部へ帰って首脳会議を開いて協議し、軍令部とも調整した結果、夜7時半から再開された連絡会議において譲歩を表明した。
 「蒋政権否認を本日の会議で決定するのは時期尚早であり、統帥部としては不同意であるが、政府崩壊が内外におよぼす悪影響を認め、黙過してあえて反対しない。」
 それでも、・・・参謀本部は、・・・帷幄上奏を行い、閑院宮参謀総長が宮中に参内し、近衛首相よりも先に、参謀本部の決定を上奏して、逆転をはかろうとした。・・・
 天皇は、「それなら、まず最初に支那なんかと事を構えることをしなければよかったではないか…自分はこれは必ず決まったことをまたひっくりかえそうと思うんではないかと思ったから、『総理と最初に会う約束をしているから、それはいけない』と言って断った」のである。・・・
 翌16日、近衛内閣は「爾後国民政府を対手(あいて)とせず」という第二次近衛声明を発表した。」(286〜288、290〜294)
 
→有事の挙国一致内閣下においても、政治の軍事に対する優位が確固としていたこと(前述)、天皇もまた象徴天皇としての立場に徹していたこと、がよく分かります。
 問題は、何度も記しますが、政治(内閣)が世論に追随するだけの存在に堕していたところにあったのです。
 なお、杉山陸相が、「3兄弟」に同調してしまったことはまことに残念です。
 それを愧じて敗戦時に彼は自裁したのでしょうが、杉山の同調は、結果として日本の敗戦をもたらしただけでなく、陸軍に全責任を押し付けるという、戦後の、(米国は別格として、)外務省及びその(吉田茂以下の)OB達、旧海軍関係者、及びマスコミ・ジャーナリズムからなる新「3兄弟」の跋扈を許し、吉田ドクトリンの生誕と墨守につながってしまったのですからね。
 (なお、陸軍には、1940年時点、ないし1941年12月時点での対英のみ開戦に、最後まで固執できなかった、というもう一つの重大な落ち度がありますが、その話にはここでは立ち入らないでおきましょう。)(太田)


 「1938年における海軍臨時軍事費、とりわけ航空兵力予算の大幅増額、海軍兵学校の生徒の激増、飛行機搭乗員養成員の急増、これらはすべて、海軍が、想定敵国であるアメリカとの航空兵力決戦に備えて、いっきょに軍備拡充をはかろうとした証左である。・・・
→何度も指摘したように、これは、史実のプロパガンダ的歪曲以外の何物でもありません。
 軍事力増強を行いつつあった赤露に対する抑止を続けつつ、蒋介石政権を打倒し、親日政権を支那で樹立するためだけでも、(米英が同政権支持を続ける限り、なおさら、)日本はより大きな軍事力が必要でしたし、その場合、航空兵力に重点志向するのも、当時の最新の軍事動向からして、当然のことだったからです。
 (ただし、戦艦建造費にまで予算を割きすぎ、陸軍に十分な予算を充当できなかったことは問題でした。)(太田)
 ローズベルト大統領は、・・・1939年の予算に(当初の計画から二隻増やして)四隻の最新鋭戦艦の建造を決意するにいたった。・・・しかし、1938年1月の議会は、四隻の最新鋭戦艦の建造に十分必要な予算の計上<を>否決した。・・・
→これも繰り返しですが、いかに、当時の米国で孤立主義的傾向が強かったかを改めて裏付ける挿話です。(太田)
 1月10日、ローズベルト大統領は、アメリカ艦隊の主力部隊を大西洋から太平洋に移動させる命令を下した。・・・
 1938年2月14日、イギリス海軍がシンガポールで大海軍基地の開港式を挙行したとき、アメリカは巡洋艦を派遣して、英米海軍提携のデモ<ン>ストレーションを行ったが、日本海軍は招待からはずされていた。・・・
→しかし、ローズベルト政権は、世論の意向に逆らって、日本との軍事衝突が起こるような布石を次々に打って行ったというわけです。
 しかも、水心有れば魚心で、その方向にローズベルト政権を誘ったのは、既にシンガポールの海軍基地建設に着手することで、日本との敵対政策を鮮明に打ち出していた英国でした。
 我々は、このような英国の動きが、結局は大英帝国の早期瓦解につながった自殺的愚行であったことを知っています。(太田)
 1937年11月に日・独・伊三国防共協定が結ばれ、いわゆるベルリン--ローマ--東京枢軸が結成されたが、パナイ号撃沈は、世界ファシズム連合を形成した日本が、世界最強の民主主義国家アメリカに敵対行動をとった最初の事件であると、アメリカ政府と国民には理解された。パナイ号撃沈事件の背後には、世界におけるファシズム陣営対民主主義陣営の対立という構図も意識されていた。・・・
→これは、日本が赤露及び容共ファシスト蒋介石政権との対決政策を推進していた成熟した自由民主主義国家であったことを無視した紋切型謬見です。
 成熟した自由民主主義国家であった英米は、赤露から地理的に遠く離れていたこともあり、赤露に対する警戒感が十分ではなく、とりわけ米国は赤露音痴に近い状態にありました。
 イタリアとドイツのファシズムは、自由民主主義が未成熟であった両国の共産主義へのヒステリー的対応、という側面がありましたが、英米同様の成熟した自由民主主義国家であった日本は、地理的に英米よりはるかに赤露に近く、しかし英米よりは赤露に地理的に近かったものの、日本と違って接壌関係にはなかった伊独両国とは異なり、日本は、赤露と、朝鮮半島と樺太で接壌しており、また、米国と並ぶ主要市場であった支那に赤露勢力が浸透しつつあったこともあって、当時の数少ない成熟した民主主義国家群の中で、正しくも、最も先鋭的な危機意識を持って、殆んどただ一国、一貫して対赤露抑止戦略を追求し続けていたわけです。
 その日本がドイツと組んだのは、単にドイツが敵の敵であったからであり、それに加えて、ドイツに蒋介石政権支援を止めさせる狙いがあったからに他なりません。
 (イタリアは、日独にとっては金魚の糞のようなものであったと言えるでしょう。)
 この日本の戦略を的確に理解していたのが法王庁であったわけであり、ファシズム(とりわけナチスドイツ)と赤露双方を仇敵としていた法王庁が、日支戦争で(、日本が仇敵の一方たるナチスドイツと組むに至っていたにもかかわらず、)日本の支持を続け、また、日米戦争の回避に尽力したのはそのためであったことを、もう一度思い出してください。(太田)
 アメリカ政府が日米通商航海条約の廃棄を通告する(1939年7月26日)以前に、アメリカの世論は、74パーセントが中国に同情をしめし、66パーセントが日本商品のボイコットに賛成、72パーセントが武器・軍需品の対日禁輸を支持するようになっていた。・・・
→繰り返しますが、米国の世論の背景には人種主義があったこと、また、蒋介石政権支持、日本には敵対とは言っても、米国の世論としては、日本との戦争の意思は皆無であったことを忘れないでください。(太田)
 「日米戦争への道」を進めた主たる要因と責任は、日本の軍部・政府の戦争指導体制が無責任なものであったことと、国民の側にそれを阻止し、チェックする能力がなかったことである。・・・その・・・日本の無責任な戦争指導体制を支え、補完していたのが昭和天皇であった。・・・
→国内の分裂やリーダーシップの欠如は、むしろ成熟した自由民主主義国家であることの証左なのであって、米国は、例えば政権と世論との深刻な乖離・対立を抱え、英国は、例えばカナダや豪州と本国との間に深刻な乖離・対立を抱えていたことくらいは、太田コラムの読者であれば、先刻ご承知でしょう。
 また、笠原が象徴天皇であることに徹していた昭和天皇を批判するのは、当時の日本が英国よりも自由民主主義度において進んでいた面があることが彼には全く見えていない、ということでしょうね。(太田)
 石油、屑鉄<は>もちろん、飛行機や飛行機エンジンもふくめて、軍需資源、機材のアメリカ依存を深めながら、海軍軍備拡張の緊急性を国民に宣伝、予算と資材獲得のために「南進政策」を強行し、アメリカとの戦争危機を醸成していく海軍。
 そして、・・・航空用ガソリンの対日禁輸と石油・屑鉄の対日輸出規制(1940年7月)、さらに対日石油輸出の完全禁止(1941年8月)と致命的な制裁をうけた海軍は、アメリカに代わる石油・軍需資源の供給地をもとめて東南アジアの軍事占領を決定、<更には、>・・・死中に活を求め、真珠湾攻撃を敢行したのである。」(300、302〜306、308、309〜311)
 
→笠原は、米国「との戦争危機を醸成」と扇動的な表現を使っていますが、肝心の米国の世論に日本と戦争する気が皆無であった以上は、そんな危機は醸成されるはずがなかったわけです。
 むしろ、海軍が陸軍に同調することなく(対米開戦に反対することなく)、「真珠湾攻撃を敢行した」(対米開戦をした)ことによって、初めて「戦争危機」が(一挙に)「醸成」されたのです。(太田)


 「1955年年頭、村山富市首相は侵略戦争反省と謝罪の国会決議を実現させるという所信表明をおこなった。これに反対して、与党自民党議員の過半が同国会決議阻止の議員連盟を結成、・・・6月9日の国会で自民・社会・さきがけの与党三党で採択された「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議」は、日本の侵略戦争を直接に反省しないものとなった。・・・
 私が深刻な衝撃を受けたのは、村山内閣が政策方針で提起した侵略戦争反省と謝罪の決議を、形式的には議会制民主主義の手続きをとおして、国民の側がその実現を妨げ、骨抜きにしたことであった。政府ではなく、国民の動向が国の政策を誤らせることがあるという事実を知った。このことは、戦争政策と国民の関係を考えるとき、一方的に戦争に動員され、犠牲となった国民という単純な構図ではなく、国民の側に戦争政策に便乗、加担し、戦争拡大になだれ込んでいった側面があったことの責任も問われなければならない、という本書の問題意識になった。
 私がアメリカに滞在していた間も、広島・長崎への原爆投下の是非をめぐる熱い論議が展開されていた。論争は、スミソニアン国立航空宇宙博物館で企画していた広島原爆投下に関する展示が、同年1月に中止に決定したことをきっかけに続けられていた。・・・数量的には原爆投下肯定派が多かったが、それでもこうした議論が国民規模で展開できるアメリカ国民のほうが、意思表明もせず、意見ももたず大勢に順応しがちな日本国民よりは、民主主義的に成熟していると感じた。それでも、私が良く聞いたり、目にした言葉は「Remember Pearl Harbor!」であり、戦争中、日本人を軽蔑をこめて呼称した「ジャップ Jap」という言葉であった。・・・
 アメリカの知人の一人が私にこう言った。
 「原爆投下を肯定しているアメリカ人の多くも、内心は原爆被害の悲惨さに心を痛めている。しかし、それを表明しないのは、アメリカに戦争を仕掛け、中国やアジアを侵略した日本の政府と国民がまだ正式に反省と謝罪をしていないのに、アメリカから先に原爆投下は誤りであったとは言えないからだ。・・・
 本書で明らかにしたとおり、日本国民が予期しない長期日中全面戦争に動員されていった(国民の側の)要因は、日本国民が、世界の動きに無知であったこと、侵略戦争を不法とした時代の流れを認識する力がなかったこと、アメリカ政府・国民の動き、中国政府・民衆の動きを知らず、理解しなかったことである。」(336〜338)
 
→本シリーズの冒頭で既に引用した部分を含め、この本の末尾の部分から長々と引用したのは、既に十分過ぎるほど行った笠原批判を繰り返すのが目的ではないのであって、いかに戦前の日本の世論が米国の世論に比べてまっとうかつ健全であったか、そして、戦後の(日本全体を家畜化し政治や社会科学において無能化したところの、)吉田ドクトリン/対米属国化にもかかわらず、依然、日本の世論が世界覇権国たる宗主国米国の(笠原の「知人の一人」を含むところの)世論に比べてまっとうかつ健全であり続けているかを皆さんに肌で感じていただき、日本の将来に希望をつないでいただくためです。
 それにしても、単純な誤爆であると思っていたパナイ号事件が、実は日本の先の大戦史の全体像を把握するための最善の手がかりを提供する事件であったことを知ることができた現在、この事件から、信じ難いほど歪曲された全体像をその中で描いているとはいえ、笠原がこの本を書いてくれたことに、私として、感謝の意を表しておきたいと思います。(太田)

(完)

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