私の日本の戦後政治論を簡単に整理しておきましょう。
私は、大正デモクラシー以降の日本は自由民主主義的社会であり、自由民主主義は終戦に至るまで機能していたと考えています。
(なぜ、自由民主主義「的」社会かというと、帝国憲法の文面上はあくまでも立憲君主国であったことと、女性に参政権が認められていなかったからです。)
ところが、その日本において、戦後、一転して自由民主主義は機能不全に陥ります。
占領中に機能不全に陥ったのは当然ですが、「主権回復」後も機能不全状況が続いたまま、現在に至るのです。
これは、日本が、米国に外交・安全保障の基本を委ねるという形で、主権を大幅に米国に委譲し、日本は米国の保護国(属国)であり続けるという、いわゆる吉田ドクトリンを採用し、爾来一貫してこのドクトリンを墨守し続けたためです。
そのよってきたるゆえんは、戦後日本のリーダー達が、自分達自身の外交・安全保障に係る意思決定能力を疑い続けているからであり、この疑いを日本人一般もまた共有し続けてきたところにあります。
言うまでもなく、自由民主主義とは、自分達が選んだリーダー達が決めた政策によって自らを律していくということであり、他国のリーダー達に重要な政策を決めてもらってそれによって自らを律し続けているという状況は、自由民主主義の機能不全以外のなにものでもありません。
しかし、吉田ドクトリンは麻薬のようなドクトリンであり、それを墨守し続けたことによって、日本のリーダー達の意思決定能力は、外交・安全保障に係るものだけでなく、それ以外のありとあらゆる政策に係るものにわたっても低下するに至ったのです。
(外交・安全保障以外の分野でも、日本が宗主国米国の意向を尊重せざるをえない、ということもまた、厳然たる事実です。)
幕末/維新期に比べて既に戦前低下していた日本のリーダー達の意思決定能力が、使わなかった結果、更に錆び付いてしまった、ということです。(日本のリーダー論については、コラム#3445参照)
この結果、何が起こったのでしょうか。
リーダーの最たるものである政治家達、とりわけ自民党の政治家達にあっては、ひたすら支援者達への利益誘導に勤しみ、それによって当選を重ね、自民党を権力の座にとどまらせ続けることが自己目的化する一方、政治家をサポートするリーダーであるところのキャリアを中心とする官僚達からなる官僚機構は、官僚達の生涯所得最大化のための生活互助会に堕してしまったのです。
そして、この政官両者は癒着を深めて行きます。
その結果もたらされたのが、目を覆わしめるような昨今の政治と官僚機構の退廃と腐敗なのです。
このような自民党の政治家達に惰性的に票を投じ続けてきた日本の有権者達の責任は重大であり、厳しい自己批判が求められます。
私の思い描いているのは二段階革命です。
第一革命は、非自民党政権の長期的樹立による自民党の解体であり、自民党的政治家の一掃であり、政官癒着の粉砕であり、官僚機構の解体的再編であり、こうしたものを通じての政治家の意思決定能力回復基盤の整備です。
これらと平行して行われるであろう地方分権も、(中央の)政治家の意思決定能力回復基盤の整備に寄与するものです。
第二革命は、第一革命の結果、意思決定能力を若干なりとも回復することができた政治家達が、必要があれば政界再編を行い、もって吉田ドクトリンを廃棄し、日本の米国からの「独立」を達成することです。
現在第一革命前夜の状況であるわけですが、ここで何よりも優先するのは第一革命の実現によるリーダー達の政策に係る意思決定能力回復基盤の整備なのであって、第一革命前の現在はもとより、第一革命後の初期においてすら、個々の政策の是非などというものは、あえて極端に申し上げれば、どうでもよい話なのです。
第一、日本が米国から「独立」するまでは、日本が宗主国の意向に反する政策など実行できるわけがないのであって、全然心配する必要なんかありませんよ。
(以上、
http://blog.ohtan.net/archives/51394292.htmlより)