身に覚えのある額の痛みと、身に覚えのない後頭部の痛みで目が覚めた。
覚醒へと近づく意識は白い靄に包まれ、昨日の事をうまく思い出せないで居る。
「……ああ、私は――結局、裏庭で眠ってしまったのか……」
ふと、周囲を見回す。今居るここは間違いなく私の屋敷の客間だ。
はて、私には夢遊病の気があったのだろうか。と首を傾げていると、客間の扉が開き、
誰かが入ってくるのを感じた。賊か?と一瞬身を硬くする。
「……誰だ。私の屋敷で何をしている」
頭の回転速度を上げる。コンディションは良好、頭の痛さも然したるものではない。
三人以下なら是を撃滅。四人以上なら戦略的撤退。我が屋敷に押入るとはいい度胸だ。
私を侮辱するとどうなるか、たっぷりと体で教えてやる。さあ来い、賊め――
「兄様?起きられたのですか?」
よく見れば。ああ、賊ではない。一気に目が覚める。頭が冴え渡る。
声の主は盆にティーセットと濡れたタオルを乗せて慎重な足取りで歩いてくる。
そこまで細かく注視できるというのに……私は己の浅薄を哂った。
「そうだ、そうだったな。私は君に来てくれと頼んだ。頼んだのだ。そして今君がここにいる。
何も問題はないし、矛盾もない。ただ一つ、私が暈けていただけの事だ。
――おはよう、ルーク=ウェルマー。遠い所を態々、すまないな」
笑顔で差し出した握手の右手に、ルークは自らの手ではなく、濡れたタオルを置いた。
「おはようございます。頭、冷やしてください。湯浴みの準備も出来ていますので、是非どうぞ。
その様に草臥れたみすぼらしい格好の兄様は、見るに耐えません」

――私は何時、ルークを怒らせるようなことをしただろうか?
力なく笑いながら浴室へ向かう私の背中に、ルークの鋭い視線が容赦なく刺さっていた。

突っ撥ねるような言動のその実、ルークの気配りは完璧に近い程素晴らしい。
使用人としての才能があるのではないか、と思うが、何れ紳士となり国を支える少年に
そんな事をさせるわけにはいかないのだ。全くもって、惜しい。

「いい湯だった。着替えも用意されている。おまけに紅茶の準備まで出来ている……完璧だ。
ルーク。どうだ、私の屋敷で働かぬか?三食昼寝付き、個室アリだ。いい条件だと思うが」
途端、怒りで顔を赤くするルーク。からかうのは楽しい。紳士にあるまじき行為だが、これ位は大目に見てくれよう。
「……冗談だ。何、そう怒るな。偶には冗談の一つも吐いてみたくなる」
「兄様の冗談は、僕にとっては洒落になりません。……愚鈍な兄様には、何の事かお解かりにならないでしょうけど」
腕を組んで、そっぽを向いてしまうルーク。愚鈍、という響きに一瞬眉根を寄せるが、こういう時は私から折れなければ
ならないことも知っているつもりだ。
これ好機とばかりに、そっぽを向いているルークの隙を見て、その頭に手を置いた。
髪の流れに逆らわぬように、力を入れずに撫でてやる。
「はは、よしよし。そう臍を曲げるな。私が他人への賞賛を口に出すなど、滅多にないことなのだぞ」
ルークの髪は、黒く美しい。……本人は混血であることの証明のようなものだ、と嘯いていたが。
黄金や白銀で美しい、と感じるのは当然だ。それは見慣れぬし、その色のものが大抵高価であるから。
だが黒、全ての色素を以ってして尚存在を誇示し続ける漆黒。
どこにでもある、当たり前の色を以ってして美しいと思わせるのだ、ルークの髪は本当に素晴らしい。
「……僕は、犬ですか。……そんな事で、機嫌を直すとでも、思ってるんですか……」
とは言うが、言葉に棘がない。顔も赤い。ルークは感情を隠せない。尻尾があったなら、きっと千切れる程に振っているだろう。
時に行動は、言葉を凌駕する。そんな言葉をかみ締めていた。

「…そうか、不快か。いや、すまん。私はルークの髪の毛を触る悪癖があるようだ。自重しよう」
わざとらしく眉根を寄せ、手を引く。
「……あ……兄様は僕の事を犬か何かと勘違いしてらっしゃいます」
俯くルーク。言葉の端々に残念そうな含みが聞こえて、つい笑ってしまう。
「ふむ。私は猫より犬が好きだが、確かに紳士を犬扱いするのは失礼の極みだな。
本当にすまなかった。もう二度としないと誓おう」
宣誓のように、胸に手を当てて言う。
「…い、いえ、その…兄様がそうなさりたいのなら、僕は一向に構いませんが!」
語気が荒いのは、慌てているからであろう。それがたまらなく可笑しい。
「そうか。よし、漸くルークの許可がおりたのだ。今日はゆっくりと時間をかけてその髪の手触りを
愉しませてもらおうか」
…自分でも破綻した事を言っているのはわかっている。
だが、ルークの言動は私の悪戯心を助長するのだ。こればかりはどうしようもない。
再びルークの頭に手を伸ばし、艶やかな髪の手触りを愉しもうとしたその時――客間の扉が開いた。

碧色の眼を擦りながら、その人物がやってくる。ルークのそれとはまた違う美しさの金髪が、朝の陽光を浴びて輝く。
何ということ、何という失念。私は今の今まで、彼の事を頭の片隅においやってしまっていた。
それはまるで、思い出したくない事――昨晩の私の痴態――から逃れるように。
「兄様?」
一向に髪を撫でる気配がない、そう思ったのか、ルークが伺うように私を見る。そして、彼を見て、言葉を詰まらせる。

輝ける金色の髪。穏やかな光を湛える碧眼。そのか細く白い肌には、乱雑に短く切られた私のガウン。

「おはよう、ノエ。よく眠れたか?」
肯定するように一度だけ頭を振る。まだ夢から醒めきらぬその顔に、まるで毒気のない微笑みを浮かべて――

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