兄様の邸宅へ続く森を駆けながら、昨日の事を思い返す。
「今夜、使用人を買う。…どういう服を着せればいいのかわからんのでな。明日、できるだけ早くに、我が屋敷に来て欲しい」
兄様からそう申し出られた時、驚きと喜びと、自分の耳を疑う気持ちで硬直してしまい、うまく言葉が出せなかった。
「……と、とうとうあの襤褸屋敷に手を加える事にしたんですか?…僕としても助かります」
……僕の口は、舌は、素直に僕の心に従ってはくれない。…僕は莫迦だ。兄様を傷付けているかもしれないのに。
それでも兄様は僕の言葉を笑い飛ばして、言葉を続けた。
「ルーク。屋敷の老朽化は許せ。私は今のままのあれが好きなのだ。…第一、使用人を買うのは改修の為ではない。
雑務を任せようと思ってな。……洗濯がこれほどまでに骨の折れる作業だったとは、思いもしなかった」
「兄様は温室育ちの造花です。水に触れれば悪くなるに決まってます」
莫迦兄様。それくらいのこと、僕に言ってくれれば全部やって見せるのに。…そんな軟弱な理由で他人をあの家に住ますなんて、呆れてしまう。
「……そう剥れるな。私は出来た兄だが、苦手な事もあるというものだ」
白い歯を見せて笑う兄様。……そんな顔、見ていられない。反射的に、ぷい、と顔を背けてしまう。
「出来た兄だなんて、よく言えますね。……弟の気持ちも、知らないくせに」
つい、ぽつりと、本音が漏れてしまう。
「ルークの気持ち、だと?」
兄様は、こういうところは絶対に聞き逃さない。それでいて鈍感なのだから――まさか僕に好かれているとは思いもしないだろうけど――始末が悪い。
「なんでもありません。……わかりました。仕事はお受けします。その使用人がどんな背格好になるか解りませんから、とりあえずは寸法を測るだけにしましょう」
……これで兄様の屋敷に行く口実が出来た。手を振りながら帰る兄様の背中を見つめながら、僕は内心小躍りしていた。

木々が徐々に本数を減らし、森の終わりがやってきた。
ここを抜ければ、兄様の屋敷は目の前。どんな顔をして会えばいいんだろうなんて、まるで女の子のような事を考えてしまった。

大きな屋敷に独りぼっちで住む兄様。離れに馬車の御者が居るのは知ってるけど、実質これじゃあ独りぼっちだ。
寂しくないのかな、なんて考えるのは、変なのだろうか。
屋敷の扉に手を掛ける。鍵はしていない筈だ。…思った通り、扉は軋む音もなく簡単に開いた。兄様の無用心さに、また呆れる。
「兄様、お邪魔しますよ――」
一応声を掛けて中に入る。さて、どこから探そう。私室かな?テラスかな?…なんだか冒険の様で、楽しい。
そんなことを考えながら客間を横ぎって、ふと裏庭の方を眺めた時――兄様の姿を、見つけた。なんだか嫌な予感がして、苦しい。

知らず歩が早まる。急ぎ足はやがて駆け足に、全力疾走に――
「兄様、兄様!しっかりしてください、兄様!」
兄様は、裏庭の石畳の上で、壁に背を預けて、目を閉じていた。おでこが腫れている。体はとても冷たくて、眉根には深い皺が刻まれている。
とても正常じゃない。兄様に何があったのか、兄様の体の状態は?おでこの腫れは……一度にたくさんの疑問が浮かんで、処理できない。
「…兄様…!」
体中から血の気が引く。膝が震え、兄様のそばにへたりこんでしまう。
こんなに近くで顔を見るのは、初めてかもしれない…なんて場違いな考えが浮かぶ。
…ああ、こんな時に僕は何を!今はお医者様を呼ぶのが先じゃないか!
……そう思って立ち上がろうとした時、不意に、僕の体が強い力で引っ張られた。

硬いけれど痛くはない感触。突然の事で、僕は今度こそ完全に硬直してしまった。
兄様の両腕が、僕の背中に廻っている。…兄様が、僕を、抱き締め、た――!?
「に……い、さま……」
早く。早く。お医者様を呼ばなければ。でも…駄目みたいだ。胸が苦しい。体が熱い。顔から火が出そう。
子犬のように身を竦めてしまうのは、怖いからじゃない。もっと強く抱き締めて欲しいから。…もっと兄様の近くに、いたいから。

兄様の唇が、ゆっくりと開かれる。
乾燥してしまったその唇から紡がれるのは、僕のなま――「……ノエ……」え。じゃなかった。
反射的に両腕を突き出し、兄様を突っぱねる。頭が壁にぶつかる鈍い音がしたが、もうそんなこと知るものか。
恥ずかしさと嬉しさで火が出そうだった体が、今度は怒りで熱くなる。

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