プロローグ

 序章


「・・・よもや、この儂が貴様なぞに敗れるとはな。」

 しわがれた野太い声が、白い息と共に吐き出される。
 太い眉と共に釣り上った鋭い双眸、顔の中央から聳える大きな鷲鼻。眉間と頬に現れる皺は、彫りの深い顔をさらに深く刻む。硬質な歯列の隙間から吐き出される白い息が、豊かな顎鬚にまとわりつき、そのまま氷の粒に変わっていった。
 暗紫を基調とした幾重の式服をもってしても隠せぬ、その山の様な見事な体躯は、いまや、大人の腕ほどもある太い鎖で、幾重にも戒められている。
「・・・半世紀前は、この儂が世界の三分のニを統べていたと言うに。」
 だが、男は、己の哀れな姿にも頓着することなく、言葉を続けていた。
 その淡々とした居ずまいからは、彼の前に立った者は誰であれ、威儀を正さずにはいられないような、厳粛な雰囲気が漂っていた。
 もしこの場に、毒砂の地に住まう、“無駄なる学”を修める似非学者が同行していたならば、古の世に伝わる「明王」に思いを馳せたかもしれない。

「そうだな、それは“事実だった”。」

 低く抑えられた、メゾソプラノ。それは、少女のそれと呼べるくらい若く、しかし硬質で、この地の冷気と同じ程に凍えた、声。
 戒められた巨漢の前に対峙するは、小柄な少女。
 烏帽子に似た漆黒の冠帽から流れる、栗色の長い髪、すらりと通った鼻立ち、線の細い顎。今この時も降っている雪よりも、なお滑らかで柔らかそうな肌は、吐く息さえも凍りつく極寒の中でも、とても血色が良かった。
「・・・だが。」
 少女の腕が、おもむろに前へと差し出された。無駄な飾りの捨てられた、淡い紫の簡素な式服の袖に、華奢な腕の線が浮き上がる。
「・・・世界を統べたのは、この私。それも“事実だ”。」
 袖から覗く、白魚のような指が、戒められた男を射抜く。
「貴公は、それを認めねばならぬ。」
 冠帽の下の瞳が、冷たく光った。

「・・・小娘が。」
 ぎりっ、と歯噛みする音。男の眼光が更に鋭くなる。
 しかし、対する少女は、全く動じる事なく男を見据える。ただ、その瞳は、更に冷たく、険しい。
「お控えあれ、トランベル神王(しんおう)!」
 一人の女性が、二人の間を割って入った。少女よりも頭一つ分ほど背の高い、優美な女性。艶のある長い黒髪と薄桜色の衣が、一瞬、白の野を舞った。
 彼女は、少女を庇うようにして、自らが神王と呼んだ男の前に立った。その左手は、少女を後ろへと、優しく下がらせようとする。
「わが神王様へのそれ以上の無礼、許しませぬ。」
 右手を挙げると、離れて控えていた数十人もの甲冑兵達が、またたく間に男を二重三重に囲む。しかし、矛槍の壁を前に、男はただ、軽く嗤った。まるでその様なモノなどは存在しないかのように。
「はん。月人(つきびと)風情が、小娘と同じく、威勢が良いわ。」
「まだ仰るか!?」
 女性の声が険しくなる。
「構わぬ。」
 少女が、前へ歩み出た。
「神王様――」
「――二度は言わぬ。」
 少女の声が、女性の声を遮る。
 女性は兵士達に合図を送ると、彼らと共に、男から下がった。

 少女は、我が身を案ずる者達が離れるのを横目で確かめると、再び、男に向き直った。
「・・・封じられる前に、何か言い残すことはあるか。」
 男は、もう一度嗤った。
「儂を封じるか・・・やはり、“あやつ”を封じただけのことはあるな。」
 少女は淡々と返す。
「無論だ。―――“偽りの神”どもは、残らず葬らねばならぬ。」
 男の太い眉が、ぴくりと動いた。
「“偽りの神”、か・・・敢えて問おう。その言葉の意味、分かって言っておるのだろうな?」
「言いたいことはそれだけか。」
 少女の即答に、一瞬、男は目を見開く。
 そして男は息を一つ吐き、小さく首を振った。
「まぁ、良かろう・・・あと一つ、問わせてもらおう。ジィーア神王――いや、今は“氷神ヴィスナー”と名乗っておったな。」
 鬚に覆われた口角が、にやりと釣り上った。
「氷雪の地に住まう、我と同じく『戦神』の力を持つ者よ。世界を統べた貴様は、これからどうするのだ?」
「愚問だ。」
 栗色の長い髪をかき上げ、少女は高らかに告げる。
「“愚に還った”全ての民達に、“安寧の春”をもたらす。それは私の責務であり、そして、私の悲願だ。」
 二つの視線が、ぶつかる。少女のものと、男のそれとが。

 ややあって。
「・・・・ふははははははっ!」
 男は高らかに嗤った。
「何がおかしいッ!?」
 少女は男に詰め寄り、その戒められた胸倉を掴み上げた。華奢に見える細腕が、男の巨躯を持ち上げる。
「“安寧の春”とな。」
 冷笑を以って。男は、少女を見下ろした。
「その“春”とやらに至るまでの――“冬”の季節の、なんと長きことか。」
「なんだと!?」
 ほう、と男は呟いた。
「貴様、本当に気付いておらぬのか?・・・それとも、己自身を欺き、気付かぬ振りをしておるのか?」
 そう言って、男は遠くを見やった。
 少女の瞳は、男の視線を追い、そして―――大きく見開かれた。少女の腕から巨躯が離れ、雪の上へとどさりと落ちる。


 それは、本陣から見えた光景。


 あちこちから見えるは、残り火と、黒ずんだ消し炭。
 瓦礫と化した城塞。灰塵へと返った村落、田畑。
 鞍をつけたままに戦馬は倒れもがき、輜重に繋がれたままの荷牛は動かなかった。
 折れた矛槍、打ち欠けた盾、弦の切れた弓、主から離れた兜、矢と刃の刺さった鎧―――そして、四散する“人であった”モノたち・・・。


 白き雪原は、一面の朱に染まっていた。


 少女はゆらりと歩み出し・・・そして膝から崩れ落ちた。得体の知れない熱い雫が、膝元の雪を溶かしていく。細い喉からは、言葉にならない声が止まらなかった。天を仰げば、どんよりとした曇天が視界を塞いだ。



 ―――“戦神”の慟哭が、灰色の空に響き渡る―――
2008年03月09日(日) 21:37:48 Modified by curios_moon




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