紺華神王についての断篇 神暦299年 (2)

神暦299年



鬼神シャラは川べりの岩に座ると、両足を水に遊ばせながら切り出しました。
「ソウリュウと同盟を結んだよ」
ぼくはふいに足元から寒さを感じながら、シャラを睨みつけました。
「彼の行動にぼくは疑念を抱いています。証拠はありませんが、近年の平和の乱れに何らかの関わりがあるはず。なぜ、そのような者と結ぶのです」
「おれの場合は確信に変わったからだよ」
「どういうことです」
シャラは底の知れない眼を一瞬ぼくの方に走らせました。
「わからないかな。あいつは全てを変えるつもりなんだ」
彼の意味するところを、ぼくは信じたくありませんでした。
……セイドウ様、貴方はこれをどうお考えになりますか。
我々皇国と手を携える者たちが300年近く築き上げてきた秩序と万民の幸福を、完全に打ち壊そうとしている者がいるというのです。
何故です、とぼくは硬い声でどうにか尋ねました。
「あいつの考え? さあ」
「ぼくには話せないということですか」
「いや、そもそも聞いてないんだ。3分くらい話しただけだし、確信といっても単におれの直感だからね」
彼はにやりと笑って岩の上に足を持ち上げて膝をかかえました。
「それで、この同盟によってあなたにはどういう利益があるんです?」
「少なくともあいつから紺華を守れる。ちなみに」
と、彼は少し哀れむように目蓋を伏せました。
「迦沼も一緒に同盟したよ」

一昨年紺華と同盟を結んだ迦沼。
『赤法神の旦那、迦沼はどうしょうもねぇ土地ですよ』と、いつも寂しく笑っていた物神サトリ。
不吉な図形が脳裏にくっきりと浮かび上がり、ぼくは言葉を失いました。
龍戒・紺華・迦沼、この新しい三国同盟と龍戒の従属国ギルス、この四か国に司啓は囲まれています。
吹きつける夕風に今度こそ震えが走るのを感じてぼくは膝を握り締めました。
「なぜ、ぼくに教えるのです?」
「一応言っておきたくてね」彼は淡々と言いました。
「司啓を守りたかったらあいつに降伏したほうがいいと思うよ」
「そんなことは、できません。秩序に弓引く反逆者に頭を下げるなど」
即座に言い返したぼくの怒りををシャラは物憂い笑みで受け流し、
「じゃあ紺華に攻め込んで来るんだね」と言いました。
ぼくは一瞬理解できませんでした。
「君の国の兵力と優秀な部将たちなら、紺華を取れる可能性はあるよ。
 ソウリュウが動く前に動き、おれがアヴァリスと迦沼から援軍を呼ぶひまがなければね。
 どっちみち司啓は取られちゃうだろうけど体面は守れるでしょ。
 迦沼はやめといたほうがいい。あそこは激戦地になる」
彼がそんな仮想の計算をしていること自体信じられない思いで、ぼくはそれも否定しました。
「司啓の愚民を見捨てるわけにはいきません」
シャラはわざとらしいため息をつきました。
「じゃあ降伏したほうがいいよ」
できないと繰り返そうとするぼくに軽く指先を向けて彼は制しました。
「君は戦ったことがないからね」

彼の口元は弧を描き、両の眼には鬼神の誇りと悪意がのぞいていました。
侮辱されたことを痛感しながら、ぼくは返すべき言葉を探しました。
「……あなたがぼくをここに連れてきたのは、それを言うためですか」
シャラは岩の上にあぐらをかくと、夕陽を受けて橙色に光る川面を見やりました。
「ここで死んだ奴は、ダグナの軍閥の将軍に家族を人質に取られてね」
彼は昔話に目を細めていました。
「おれたち統一戦線の情報をそっちに流してたんだ。おかげで酷い目に遭ったよ」
彼の言う酷い目がどの程度のものなのか、ぼくには分かりませんでした。
「でもどうにか巻き返して敵の主力を壊滅させることができた。それから、あいつを見つけて片をつけて」
と言って彼が川の真ん中に視線を振ったときにも、友人を斬ったその心情は量れませんでした。
「いよいよ将軍の本拠地に乗り込めば全部おしまいっていうときに、君が来た」
ようやくそう言った彼の言葉には、300年経っても消えない無念を感じました。
いいえ、それは怨恨といっても過言ではありませんでした。
「だからおれにとってこの土地は未回収の紺華なんだよ」
シャラは微笑みながらそう締めくくりました。

神暦が始まる2年前のことでした。
統一戦線に敗北した直後、このダグナの軍閥の将軍はちょうど司啓地方にやってきたぼくたち皇国軍6万の兵に全面降伏し、領土を明け渡しました。
現在の司啓にあった他の全ての小勢力も、歯向かうことなくぼくの統治に服しました。
紺華統一戦線はぼくに対してこの軍閥の領土の紺華への返還と、将軍の身柄の引き渡しを要求しました。
しかしぼくたち皇国軍は領土の接収と引き換えに将軍に対して身の安全を約束しましたから、これに応じるわけにはいきませんでした。
大河の南側にある以上、この領土は紺華とはいえないという皇国の判断もありました。
紺華統一戦線の指導者エドヴァは、ぼくとの交渉の席で殺気立った同志たちを何度もいさめていました。
彼は、長く続いた統一戦争で疲弊した自分たちが皇国に楯突くことの圧倒的不利を悟ったのです。
結局、彼らは神国連合への加入と神王選出の権利と引き換えにこちらの言い分を飲みました。
エドヴァの直属の部下であるシャラは、最初からやる気のなさそうな態度でぼくと彼らの議論を他人事のように見ていました。
彼がこの件についてぼくに話をすることも今まで一度もありませんでした。

ぼくが身じろぎもせずに彼の話を聞いていたので、シャラは苦笑しました。
「そんなに恐い顔をしなくてもいいよ、リシュ君。君はまだ子供だったんだから」
その言葉がぼくを一番苛立たせることを、彼は知っているのでしょうか。
しかし、彼が本当に許せなかったのは、このぼくではない気がしました。
ぼくは念のために確認しました。
「それでは、あなたはこの土地が欲しいがために覇帝ソウリュウに協力するのですか?
 ソウリュウが司啓を手に入れようとしているなら、ここだけ割譲してもらう約束でもしたのですか?」
シャラが急に気が抜けたような顔をしたので、ぼくはやはり見当違いのことを言ったのだと分かりました。
「ああ、この土地も司啓もいずれもらうつもりだけど。別に取り引きとかじゃなくてね」
大した感慨もなさそうに、さりげなく物騒なことを言っている彼を睨みました。
「いずれは覇帝さえも敵に回すということですか? あなたは」
ぼくは痛む足で立ち上がり、動悸を抑えようと息を吸い込みました。
「あなたはやけに楽しそうに見える」
彼は沈黙しました。
「紺華を守るとかこの因縁の地を取り返すとか、本当はそんなことは二の次なんじゃないですか。
あなたは、ソウリュウが引き起こそうとしている戦乱を歓迎しているはずです」
「……そうだって言ったら?」
シャラは冷静に言い放ち、ぼくは胃の辺りが熱くなるのを感じました。
来るべき多くの死や愚民たちの苦しみを、崩壊する幸福な世界を、叫びたくなる憤りをどうにか理性で押さえ込みました。
なぜならぼくは知っていたからです。
「……あなたは最初から納得していなかったんですよね。ぼくたちの作る世界に」
苦々しい笑みを浮かべたぼくの視線を、彼は少し首を傾げて受け止めました。
「そうだね。君たちの考え方はなんか変だなって思った。
 慣れてしまえばこれもいいかなって思ってたんだけど、やっぱり退屈になってきてさ。
 それにね、最初からいつかは終わる平和だと思っていたんだ」
シャラは岩の上に立ち上がると、袴をはたきながら言いました。
「だからこの時のためにおれは神王になったんだよ。
 戦いを止められて不完全燃焼のまま、年をとって死ぬよりはね。しかし長く待ったもんだ」
愚民たちの安寧よりも自らの戦闘本能を優先する彼の言い草に、ぼくは怒りを通り越して呆れました。
「あなたは血に飢えた鬼神ですからね。やはりあなたを神王にするべきではなかった」
そう言うと、シャラはなぜか気に障ったように動きを止めました。
「おれは血に飢えてるのかな?」
「何を言ってるんですか。そうじゃないなら何なんです。何を考えているんですか」
「……まあいいや。君に言っても分かってくれない気がする」
彼は投げやりにそう言うと、ひとつ伸びをして、あくび混じりに「帰るよ」と告げました。
ぼくは彼に一歩詰め寄りました。
「待ちなさい。あなたを許すわけにはいきません。赤法神の名において、ぼくはあなた方を弾劾します」
岩から降りたシャラは面倒くさそうにこちらを振り返ると、
「無理だよ、証拠もないのに。それに、もう皇国は半分しか機能してないじゃない。もうどの国も何をしても止まらないんだ。
早く帰らないと真っ暗になるよ」
そう言って夕暮れの中を下流へ向かって歩き出しました。
彼をこのまま帰してはならない。そう思いました。
ぼくに力と経験の差を思い知らせ、忠告を装ってぼくを挑発し、言いたいことを言って気が済んだ彼をそのまま帰らせるわけにはいかないのです。
「なら、ぼくは龍戒神王を止めに行きます」
ぼくははっきりと言いました。
シャラは立ち止まり、ゆっくりと横顔を向けました。
「何だって?」
「ぼくは一人でソウリュウを説得に行きます。あなたも訊かなかった彼の真意を尋ねてきます。
 そして、その間違いを正し、戦争を止めてみせます」
斜陽を背に受けて影になっている顔の中で、シャラが驚きに目を見開くのが見えました。
「無謀だ」彼はなぜか嬉しそうに言いました。
「どうなっても知らないよ。生きて帰れるかどうかわからないよ。
あいつはきっと皇国の理屈なんか、最初から歯牙にもかけてないんだから」
ぼくは拳を握り締めました。
「皇国の理屈じゃあありません。ぼくの考えを話してくるんです」
この言葉は深く考えもせずに言ったのです。
しかし、鬼神シャラは笑みを消して、瞬きしてぼくを見つめました。
そして安堵したように、懸念するように目を細めました。
「健闘を祈るよ、リシュ」
柔らかい声で囁くと、戦を待ち望む鬼神は長い袖をひるがえして去っていきました。
彼の姿は少し離れた川の曲がり角で見えなくなり、やがて下流で零獣ゲブラルと兵士たちが彼を問いただす遠い声が聞こえました。
夕日は下流の山陰に隠れつつありました。

ここから先は疲労困憊と動揺のあまりよく覚えていないのです。
迎えに来てくれたゲブラルと兵士たちに付き添われて、川を下りきる頃には辺りは真っ暗になっていました。
シャラはとっくに船まで帰ったらしく、次の日の早朝に勝手に出港していきました。
今、ぼくはダグナから都へ帰る旅の途上にあり、宿の部屋でこれを書いています。
彼からもっと情報を引き出すべきだったと今になって思います。
あまりにも冷静さを失っていました。
ぼくはその中でどうにか毅然とした態度をとれたでしょうか。
皇国に仕えてきた者として、その理想を――たとえ崩れつつあるものだとしても――彼にもう一度諭すべきだったのでしょうか。
そんなことをしても無駄であることが、彼との300年の付き合いの中でよく分かっていたのです。
しかしぼくは、さらに難敵であろう覇帝ソウリュウを説得しに行こうとしています。
ご安心ください、一人で先走ったりはしません。
すでにソウリュウの叛意とシャラとサトリとの三国同盟についての報告を結んだ鳩を皇陰に飛ばしました。
無事に届くと良いのですが。
この手紙もセイドウ様の手元に届くかどうか不安です。
最近、身辺に常に気配を感じるのです。
龍戒の諜報活動はかなり進んでいると思われます。
世界的な治安の悪化、この誘発には間違いなくソウリュウが関わっているということが、シャラの話で分かったのですから。
都に帰ったら、さらに様々な準備をしておかなければなりません。
……もうすぐ夜が明けます。
ここ数日、よく眠れない日々が続きましたが、この乱文を書くことで少し気分が楽になりました。
もしこの手紙が届いたら、セイドウ様からもシンリュウ様に警告をお願いいたします。
ぼくを助けようとしてご無理はなさらないでください。
これは、300年間ソウリュウとシャラの危険性を軽視していたぼくの責任なのです。
そのつけを支払うことになることも、覚悟はしています。
ただ、ぼくに従う愚民たちを思うとやりきれません。セイドウ様は、やはりそれは甘いとおっしゃいますか。
セイドウ様は法の柱たる堯舜を守りぬくことができますよう、切にお祈りしております。

では、大伯父上もくれぐれも御身大切に。またお会いできる日を楽しみにしています。

3月29日 リシュ





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2008年09月21日(日) 09:18:20 Modified by ID:H/qQjSwCxw




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