葉鍵キャラを政治家に見立て葉鍵国を統べる仮想政界「葉鍵政界」の派生wikiです。葉鍵板を参考に、99%のネタと1%の知性で盛り上げ楽しんでいきましょう。(元は葉鍵政期スレのまとめwiki的位置づけでしたが、現在は三次創作サイトの方向に突き進んでいます。)

 消極的自由と積極的自由はアイザイア・バーリンが "Two Concepts of Liberty" (二つの自由概念)において提唱した、自由概念の一つ。消極的自由 (Negative freedom) は他者(主に国家)の強制的干渉が不在の状態を意味し、積極的自由 (Positive freedom) は自己の行為や生が自己の意志や決定に基づいていること、自己自身 を律しうる自立した状態にあることを意味する。

 両者の区別は、理念的には自由という概念への解釈の差による。自由を他者に従わないことと見れば消極的自由の側面が現れ、自己自身に従うことと見れば積極的自由の側面が現れることとなる。
 また、社会的な、とりわけ物質的条件によって、いかなる権利の上の禁止も無いのに自己の望むことをなしえないとき、また当人が無知などから無自覚に権利の行使を放棄しているときに、この状態を自由とみなすかどうかという問題について両者の相違が現れる。すなわち、消極的自由は権利の上の禁止が存在しないことをもって足りるのに対して、積極的自由は自己の望むことをなし得ることを求める。

 例えば、国家が一部の人々や企業に公金を使って特別の利益を付与したり、一部の人々や企業を保護するために、これらに不利益を及ぼす恐れのある行為を規制したりする行為を考える。
 これは消極的自由の見地からは、市民から強制的に徴収した税金によって一部の人々に特別の利益を付与したり、通常の権利行使を一部の人々に不利益を及ぼす恐れがあるという理由で否定する行為であり、批判されるべきことになる。
 しかし、積極的自由の見地からは、それらの人々に特別の利益を付与することに合理的な理由(それらの人々が貧困状態にあったり、社会的に差別を受けていたりする、など)がある場合には、それらの人々の自己実現の可能性を広げることは積極的自由の理念にかなっており、また市民も合理的な思考を経ればそれらの人々に特別な利益を付与することを否定するはずはなく、さらに、そのような合理的な思考こそが真に自己を実現するために必要であると考える。

 バーリンは消極的自由と積極的自由の区別は、西O州の政治思想の伝統に深く根付いたものであると指摘する。消極的自由は主にホッブス、ロック、アダム・スミス、ジョン・スチュアート・ミルらA国の政治哲学者によって、積極的自由は主にルソー、ヘーゲル、マルクスら大陸O州の哲学者によって提唱されてきた。

 積極的自由は消極的自由に対して、それが形式的な自由を与えるものであっても、現実には大多数の個人に対しては(貧困の拡大や社会的なモラルの崩壊によって)自己の意志の及ぶ範囲を実質的に縮小させ危機に晒すものであり、実質的な自由の名に値しないと批判する。とりわけ、自由主義経済が貧困を広め、多くの人々を不幸にしているという批判が代表的なものである。

 一方、消極的自由の観点からは、積極的自由は自己の意志に従うことができるということによって規定されることから、その「自己」が「我々」や「投影された自己としての理想的他者」、あるいはより一般的には「本来の自己」へと転化することで、真に自己の意志に基づいてなされた行為までも規制することが可能となると批判し、また、特定の立場の人々の自己実現を容易にするために、他者の自由な行動を犠牲にすることを容認する結果になると批判する。。事実、多くの哲学者は「自己」のあるべき姿を探求してきたが、彼らはしばしば、その「あるべき姿」に全ての人々が到達することで理想的な世界が実現されると考え、政治は人々を「あるべき姿」に導くことで彼らを幸福にすべきだと考える。このような考えは「父権主義/温情的抑圧主義」(パターナリズム/paternalism)として批判される。マルクス・レーニン主義もそのような見地からプロレタリア独裁を主張する。

 従来、資本主義国家は消極的自由に基づく自由放任主義経済を採用していたが、結果として貧困層の増大などの社会問題を発生させた。そこで、積極的自由の概念を取り入れ、社会公共の利益を達成する手段として国家による介入を是認する修正主義が登場した。第二次世界大戦後の資本主義国家は実際には国家による介入を伴う混合経済体制にあり、特に大陸O州では社会民主主義が発達し、福祉国家的施策を実行していくことになった。
 しかし、冷戦末期から、このような政府による介入政策が政府の財政悪化、失業率の増大のほか、政府が既存の産業構造保持に偏り経済成長を阻害するといった問題が表出した。そこで、経済政策における自由主義、社会政策における保守主義を掲げる新保守主義?が台頭した。
 この新保守主義路線は消極的自由の見地から規制緩和や減税、国有企業の民営化を推し進める一方で「特定の立場の人々の自己実現を容易にするために、他者の自由な行動を制限すべきではない」という立場から、社会保障の削減を進めた結果、経済格差が広がり、公共サービスを受けられない層が増大する結果を招いた。特に葉鍵国においては、社会保障の貧弱さの為に、十全な公共サービスを受けられない人々が大幅に増加する結果となった。「特定の立場の人々の自己実現を容易にするために、他者の自由な行動を制限すべきではない」という消極的自由の理念は「自己責任論」として激しく批判されている。
 なお、新保守主義は上記の通り、経済政策における自由主義を掲げる一方、社会政策における保守主義を掲げるために必ずしも消極的自由の理念とは相容れない。上述の通り、消極的自由の観点からは、そのような考えはパターナリズムとして批判の対象となる。社会政策においても自由主義を掲げる立場はリバタリアニズムなどと呼ばれる。


葉鍵国における消極的自由


 葉鍵国においては、政府、特に官僚による行政権力が強い権限を持って民間の経済活動を統制している。ただし、その権力は大陸O州諸国に比べると強くはなく、むしろ行政権力の運用の恣意性や非効率性、行政と政治・財界の癒着に批判の重点が置かれており、その意味では消極的自由が比較的に尊重された経済体制であるといえる。
 一方で、警察権力による市民への恣意的な逮捕拘束が広く行われていることや、被疑者・被告人の防禦権が十分尊重されていないことなどが人権上の問題として諸外国より指摘されており、この点で消極的自由の尊重に問題があるといえる。

 近年、1980年代の民営化の流れから構造改革が行われ、規制緩和や民営化が進められているが、官僚支配の問題や司法権力による人権侵害の問題の改善が進んでおらず、消極的自由の見地からは課題が多い。また、有害規制や児童ポルノ規制などの名目での表現規制も消極的自由の侵害として、批判を受けている。
 一方で、雇用規制の緩和により非正社員が増加する一方で、元々希薄であった社会保障がさらに縮小したことなどにより、貧困であるにもかかわらず公共サービスを受けられない人々の数は増大し、大きな問題となっている。

 現在、葉鍵国の政界において消極的自由を最も強く推し進めているのは葉鍵新党新党魁の両政党(国会では合同の院内会派葉鍵自由同盟を結成)である。両政党は上記の観点から、表現規制撤廃、許認可権限の縮小、司法権力の制限などを通じて、消極的自由の拡大を推し進める一方、社会保障の拡張と労働契約における均等待遇原則の確立を通じて貧困の救済を図る方向で、限定的に積極的自由の路線を採用する。



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      |超葉鍵政界|/

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