前作
『昨夜未明、東京都杉並区で……』
亜美が背中を向けてテレビを見ている。私は亜美の正面へと回り込む。
「どいて、見えない」
反応が冷たい。私が、お泊りから帰ってきてからずっとこんな調子。
「やーだーなー、もー。拗ねないでよー」
「べつにー」
「寂しかったのかー?」
「違うよ」
私はでも、と続けようとしたのだが、
何やら亜美の背中から話しかけるなオーラを感じとったので口をつぐむ。
(拗ねてんじゃんねー)
妹はけっこう分かりやすい性格をしている。嘘を吐く時も正面切って言えない純粋なやつだ。
意外とプライド高いし頑固だし甘えたがり。
「んじゃ、真美、先に行くからね」
「んー」
「玄関鍵ちゃんとかけて出るんだよ」
「わかってるってば」
私は亜美より一足先に収録の仕事が入っていた。肩越しに妹を覗き見る。
(ニュースなんて普段全然見ないくせに……)
時間も余りなかったので、私は少し乱暴にスニーカーを履いて玄関を開いた。
事務所へ行くまでの間、私はまだお礼を何にするかで悩んでいた。
何しろ、やよいっちのお宅訪問で得た、ありがたい文殊の知恵は結局のところ具体的な答えに至らなかった。
(おかしいなー、真美はただお礼がしたいだけなのになー)
というか、普段雪歩と行動をあまり共にしていない自分が、雪歩の好みを知るはずも無いのだ。
プリンスの好みならわかるのに。皮肉なもんだよ。
空を見上げる。
雲が眩しい。夏の空は好き。やけに伸びのいい飛行機雲きらきらしていて好き。誰にも掴めない宝石。
(そういや、ゆきぴょんってポエム好きだったよね)
詩。詩吟。俳句。五七五。五七五七七。うーむ。自由な詩。
「ゆきぴょんよ、ああゆきぴょんよ、ゆきぴょんよ」
高い空に吸い込まれるように、ぽつりと口から出た言葉。
「え? 呼んだ?」
そんな独り言に返ってきた言葉。
「うえええい!? ゆ、ゆきぴょん!? 真美の背後をとらないでよ!?」
いや、そういうことが言いたいのではなく。
「あ、あの、私、真美ちゃんの姿が見えたから、それで……」
私は思いっきり動揺して、すっとんきょんな声を出していた。
ゆきぴょんは完全に怯えていらっしゃいました。
「も、もう! 来るなら来るって言って!」
「いや、真美言ってることだいぶ無茶苦茶だよ?」
「ま、まこちんいつからそにいたの!?」
「ひどいなあ。ボク、ずっと横にいたよ」
口をとがらせるプリンス。
「てか、二人とも制服……いや、まこちんはジャージだけど」
「補習の帰りなんだよ。この暑いのに、やってられないよねー」
そう言ってまこちんは、Tシャツの襟元を引っ張って風を送っている。すっごい汗やばいよこの人。
「私も苦手だよ」
ゆきぴょんの額から雫が落ちる。ポケットからハンカチを取り出して、まこちんの汗を拭いてあげている。
「わわ、やめてよ雪歩ってば。ハンカチ汚れるよ」
「え? だ、だって、真ちゃん風邪ひいちゃうよ」
「これくらい平気だよ、それに……一端の運動部員がタオルを持っていないわけないじゃないか」
肩からぶら下げていたスポーツバックから、ふぁさっと、タオルを首にかけてまこちんが汗を拭う。
あれは、そう、事務所で配られたやつだ。
「あ、そうだよね。えへへ」
ゆきぴょんはハンカチをしまいながら、片手で恥ずかしそうに顔を隠す。
「でも、ありがとう」
「ううん」
誰もが知っている。二人はとっても、とっても仲が良いこと。私だってそれは百も承知。
それは、ごく自然なことだった。それが普通なんだと思っていた。
「お暑いねえ、よ!ご両人!」
「馬鹿なこと言ってないでよ、真美」
「へへ、あ、真美急いでたんだった! こんな所でおのろけ見ている場合じゃないよ」
私は、二三歩後ずさりして、
「じゃ、拙者先を急ぐので!」
駆け足で二人に手を振る。
「真美ちゃん、あんまり急ぐと転んじゃうから……」
「はるるんじゃないんだから。だいじょーだいじょー」
「あ、真美ちゃん……」
ゆきぴょんが何かいいかけていたような気がした。私はそれをさえぎって、
「ごめんね、じゃ!」
一度だけ振り返った。二人が手を振っていて、一方は制服で一方はジャージで、まるで、まるで。
みるみる遠ざかる二人。暑い空気が何ども肺に入っては出ていく。病み上がりの体にはきつくて、
角を何度か曲がり、二人の姿が見えなくなってから私は息を付いて、膝に手をついて肩で息をする。
「……っはあはあ」
思ったことない。思ってないよ。だって、二人とも大好きだもん。
言わない。言わないよ。大したことないもん。
からりとした空気が、喉を張り付かせて気持ちが悪い。
空を仰ぐ。歪な雲が天高く広がっていた。太陽に近づくように。
続く