吉原Wikiは、東京・吉原エリアにて展開している100店舗以上のソープランドの情報を総額料金一覧で掲載しているサイトです。料金はピンキリではあるものの、サービス自体は大同小異と捉えられがちなソープランド。そうした一店舗一店舗の「個性」を的確に把握し、正確かつ有益な情報を発信していきます。

概説

歌舞伎と並び、江戸文化の二大双璧と見なされた吉原遊郭。徳川家康の隠居の地である駿府にあった広大な遊郭を移させたのが始まりであり、明暦の大火(1657年)による焼失を経て浅草寺裏の日本堤に移転。これにより、以前の日本橋の方を元吉原、浅草の方は正式には新吉原(略して吉原)と呼ぶようになりました。

それではここで、吉原遊郭を理解する上で最低限必要となる知識を簡単にまとめます。
  • そもそも遊郭とは?
遊郭とは、公許の遊女屋を集め周囲を塀や堀などで囲った区画のことで、一区画にまとめているのは治安や風紀を公権力側が統制するという目的のためです。また、遊女は人類史上最も古い職業で必要悪とも言われて続けており(古代の巫女、源義経の相手静御前で知られる白拍子も遊女を兼ねていたと言われます)、遊郭を形成するにはお上からの特別な許可が必要だったようです。
  • そこで働く遊女とは?
宴席で男性客に踊りをはじめとする遊芸を披露し、時代および立地により、客の求めに応じて性交を伴う性的サービスをする女性のこと。遊女には位がありそれによって揚代が決まっていて、その中でも位の高い者は花魁(おいらん)と呼ばれました。
  • どうしてできたのか?
江戸幕府開府のため広く全国から男手を募った結果、江戸は男性ばかりの町となってしまいました。町中にはそうした男性の欲求を満たすため、自然と遊女屋があちこちにできることとなったわけですが、お上は市街地の拡張に伴い治安・風紀上やっかいな遊女屋に次々と移転を命令。これに庄司甚右衛門という人が代表となって遊郭を作る運動を起こし、この請願が受け入れられ、幕府公認の遊郭街「吉原」の成立へとつながりました。幕府にとっても、一括管理させることで治安が維持され、税金も課すことができるというメリットを見逃せなかったのです。
  • 「吉原」という名前の由来は?
遊郭街は当初現在の日本橋人形町あたりにできたのですが、当時は江戸中心街から離れた僻地で、葭(あし:イネ科の多年草)が群生する原っぱでした。このため、葭の原なので「葭原」という地名になりましたが、その後「あし」が「悪し」に通じ縁起が良くないということで、葭を吉にして「吉原」となりました。なお、吉原遊郭設立請願の代表者であり、吉原の総名主であった庄司甚右衛門の出身地が駿河の国の東海道吉原宿(現在の静岡県富士市)であったためという説もあるそうです。

以後、吉原遊郭は度重なる大火、関東大震災、東京大空襲による幾たびもの焼失という悲劇を重ねても、ほかの場所へ移転することなく現代に至っています。戦後の高度経済成長期を経て、各ターミナル駅周辺には大歓楽街が形成されたにも関わらず、お世辞にも繁華とは言えない台東区千束地区から離れようとする試みはついになされなかったのです。

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