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ゆかりのスポット

  • 吉原大門(リンク:Google maps ストリートビュー)
吉原遊郭への正面玄関として黒塗り木造のアーチ型楼門が建設され、出入はこの大門一箇所のみに限定。これには治安目的のほか、遊女たちの逃亡を防ぐという意図がありました。明治期には2代目となる鉄門が築かましたが、明治44年(1911年)の大火で焼失。関東大震災を機会に撤去されました。現在は「吉原大門(よしわらおおもん)」の交差点名、バス停名として残っています。
  • 浄閑寺(リンク:Google maps ストリートビュー)
吉原遊郭の遊女を供養するお寺。1855(安政2)年に大震災があった時には吉原遊郭の大勢の遊女が投げ込み同然に葬られたことから、「投込寺」とも呼ばれました。埋葬された遊女は2万人を超え、その平均年齢は22歳弱。どの女性も粗末な格好でムシロに巻かれていたそうです。1793年に建立、1929年に改修された新吉原総霊塔の一角には、「生まれては苦界し、死しては浄閑寺」という有名な句が刻まれています。
大正12年の関東大震災にて、多くの人々がこの池に逃れ、490人が溺死したという悲劇が発生。この供養のため、大正15年に弁天祠付近に観音像が造立されました。昭和34年、吉原電話局(現在の吉原ビル)の建設に伴う埋め立て工事のため、池はわずかにその名残を留めるのみとなりましたが、「スピリチュアルスポット」として多くの女性を引きつけるほか、地元の有志によりお線香が絶えることがありません。
  • 吉原神社(リンク:Google maps ストリートビュー)
明治5年に創建。遊廓の盛衰とともに歴史を重ね、現在も幸せを祈る女性へのご利益はよく知られています。また、遊女、遊客とからみ、開運、縁結び、商売繁昌のご利益のある神として華やかな信仰を集め、その様は江戸の小噺集などにもしばしば登場しています。
  • 見返り柳(リンク:Google maps ストリートビュー)
衣紋坂入口の左手にある柳で、遊び帰りの客が後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ遊郭を振り返ったという言い伝えが残っています。現在は跡地に石碑が建っており、すぐ後ろにある柳の木は昭和になってから植えられました。
  • 吉原土手(リンク:Google maps ストリートビュー)
現在の土手通りに平行して山谷堀があり、船で遊郭に通う客を出迎える場所として賑わいました。すでに取り崩されていますが、当時を忍ばせる天ぷら店や鍋料理店などがいまも軒を連ねています。なお、日本堤のもとはこの土手を指したものです。
遊客がここで衣紋をつくろう(身なりを整える)ことに由来。土手通りから吉原遊郭の入口の間にあり、将軍が日光に赴く際などに街道から遊廓を見通せないよう、S字状に道を付けたとされています。
  • お歯黒どぶ
吉原遊郭は幅は5間(9メートル※のち、2間に縮小)の掘に囲まれており、その掘のことをお歯黒どぶと呼んでいました。構築の目的は遊郭を外界から隔離することにありましたが、実際は遊女が遊郭から逃げ出さないようにすることと、出入り口を大門1ヶ所にして治安を維持することにありました。名称は、お歯黒のように真っ黒で汚い下水溝だったことからきています。

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