新架空国家運営グループ、World of Fictional Nations(WFN)の公式Wikiです。

×
フランス国
État français

国旗


国章
標語
秩序、平等、友愛
国歌
歌劇「カルメン」第1組曲よりアリア「諸君らの乾杯を喜んで受けよう」
公用語
フランス語
首都
ヴィシー
最大の都市
パリ
最高法規
フランス国国法典
国教
アイリスの花・真人十字教
嚮導司教
フランス国王
アシア・オレリア・ノートラダム
面積
総計551,500㎢
人口
総計68,305,148人
GDP
自国通貨表示2兆6244億1600万ドル
建国
フランク王国(メロヴィング朝)
486年
西フランク王国(カロリング朝)
843年8月10日
フランス王国
987年
フランス第一共和制
1792年8月10日
フランス国
1994年8月10日
通貨
名称
フランス・フラン
記号
₣

概要

フランス国(フランス語:France pays)は、西欧に存在する立憲君主制の神権国家。首都はヴィシー、最大都市はパリ。通商はフランス。
その領域は、本土であるフランス・メトロポリテーヌとフランス植民地帝国の名残で世界各地に点在するに外洋州によって構成されており、フランス本土は北は北海、イギリス海峡、ビスケー湾に、南は地中海に面する欧州大陸の中央に位置する。
アイリスの花・真人十字教による八月革命によってフランス共和国政府が打倒された事によって従来同国が保持していた国際的な影響力が喪失した一方でフランス軍の国内展開に係る負担の低下や強権的な政治が可能になった事によって国内情勢は現在も安定している。

政治

政府・統治機構

  • 概要
フランス国において政府は1958年に制定された第五共和政憲法下ではフランス国の行政権司る行政府のみを指していたものの8月革命時に制定されたフランス国国家福音書とその後アシア・オレリア・ノートラダムによる中央集権化の過程で制定された2027年と2029年のフランス国国法典下で国家機関は統制司教(2027年以降は嚮導司教)の下に一本化され、現在では行政府、立法府たる枢密院、司法府たる高等法院の全体、即ち国に属する統治機構全体を指す様になった。
各機関の首長はそれぞれ宰相府、枢相、高等法院長官とされており、何れもフランス国国法典によって嚮導司教が指名すると定められている。
  • 構成
政府の首長は、フランス国の国家元首たる国王であり統治権を総攬する(国法典5条)嚮導司教であり、政府の構成員とされる3役職は何れも嚮導司教によって任命される。
    • 嚮導司教
嚮導司教は、万世一系の国家元首であり、国民の信仰の擁護者としての地位と開闢以来続く人類の聖法に則る導きによって初代統制司教によって建設された顕世における唯一の楽園、フランス国を統治する(国法典1条)。

8月革命以降統制司教位の継承は明確に定められておらず、初代統制司教レナ・ガッテーニョの退位時にはレナ・ガッテーニョが後継者を指名する形が採られた。2029年の改正フランス国国法典によって王家家憲の規定に基づき初代嚮導司教の地位を受け継ぐ女子が継ぐ事が定められた(国法典2条)。この改正は退位後も第2次アヴィニョン教皇庁からの顧問団という形で編成された遣フランス教皇庁顧問団団長マリー・カストルを通じて絶大な権力を維持していたレナ・ガッテーニョの権力を削ぎ、加えて世襲制を採用する事でフランス国を私物化する為に当時の統制司教(後の初代嚮導司教)であるアシア・オレリア・ノートラダムによって行われたものであり、マリー・カストルと第2次アヴィニョン教皇庁(遣フランス教皇庁顧問団)の支援を得る為、それまでレナ・ガッテーニョが立場を曖昧にしていたマリー・カストルの真意であるバラクィヤルの守護の下の悔悛騎士修道会の認可が行われた。

正式な称号は2029年フランス国国法典の公布に併せて制定された国王称号法で定められた、「フランス・メトロポリテーヌ及びフランス外洋県の国家元首たるフランス国王、フランスの信仰の擁護者たる嚮導司教、神の恩寵によるアイリスの花・真人十字教統制司教」
    • 宰相
    • 枢相
    • 高等法院長官

中央政府の機関

軍事

フランス国には教団によって反乱が行われる迄の間、フランス陸軍、フランス海軍、フランス航空宇宙軍、フランス国家憲兵隊によって構成されるフランス軍が存在しており、教団によってアイリスの花・真人十字軍に改組される際もこの構成を元に陸上解放軍、海洋開放軍、航空解放軍、国家浄化隊が設置された。
その後、アシア・オレリア・ノートラダムが嚮導司教に就任すると
「異教徒の信仰を正す結果、それを行った者達が神の救いを受ける事が出来ないなんて事はあってはならない。」
として国家浄化隊が解体、同年8月になるとアイリスの花・真人十字軍も解体され王立フランス友愛軍に改組された。

治安

フランス国ではフランス本土を担当する国内治安総局と外洋県を担当する対外治安総局による徹底的な監視社会の構築が続いており、特に第2次アヴィニョン教皇庁を含むフランス本土では人工知能Raguel previewを活用した一億数千万の監視カメラによるコンピュータネットワークの他、自動ネット検閲システムや指紋や音声といった生体データベースを元にAIが国民の監視を行い、犯罪者と将来的に犯罪者となる可能性の高い国民の数秒内での感知が可能なRaguelと称されるシステムが構築されている。
これによってフランス国内の犯罪率は常に数%を維持しており、特にパリを始めとする都市部では犯罪率0%を達成する日も出現する様になっている。

歴史

フランスの誕生

フランスは、843年8月10日に締結されたヴェルダン条約にその起源を持つ。この条約は、敬虔王として知られるフランク王国(カロリング朝)の国王ルートヴィヒ1世が死亡した為、フランク王国のロタール1世、ルートヴィヒ2世、シャルル2世の3兄弟がフランク王国を東・中・西の3つに分割する事を定めた条約である。
この条約によって成立した西フランク王国が後のフランス王国の原型となる。
中フランク王国は不安定であり、870年のメルセン条約によって東西フランクに分割された。この過程でロタリンギアを巡る継承問題が発生し、東フランク王国と西フランク王国が領土を分け合うこととなった。
その後、西暦987年に西フランク王家であったカロリング朝が断絶し、パリ伯ユーグ・カペーが即位する。これによりカペー朝が成立し、フランス王国としての歴史が始まった

絶対王政

17世紀後半、ルイ14世は王権を強化し、絶対王政の確立によってフランスを大きく栄えさせた。この時代の体制はアンシャン・レジームと呼ばれる。
諸外国の国民に広く知られるヴェルサイユ宮殿も宮廷政治の象徴としてアンシャン・レジーム中の1682年に建設されたもので、当時は宮廷にフランス貴族が集められ王権の統制下に置かれた。
しかし18世紀後半、ルイ16世の時代になると、財政危機と社会的不満が深刻化し、体制は揺らぎ始める。

フランス革命

革命前夜
  • 国家財政の悪化
ルイ14世以降の度重なる対外戦争や宮廷維持費、更にアメリカ独立戦争支援等の影響に加えて、当時の官僚の採用枠の大半を占めていた貴族が職権を濫用し国家予算の大半を横領した事によりフランス王国の国家財政は悪化の一途を辿り、1780年には負債が45億ルーブルに到達し、王家は財政破綻寸前となる。
財政再建のため、当時の国王ルイ16世はブルジョワ階級出身の銀行家ジャック・ネッケルを財務長官に任命した。彼は特権身分への課税を試みたが、貴族や高等法院の反発を受け失脚する。
その後、失脚したジャック・ネッケルに代わってブリエンヌ伯が財政改革を事となった。
  • ブリエンヌの悪政と三部会
1787年4月、財務長官に任命されたブリエンヌ伯爵は終身年金の創設による借款や印紙税の導入の提案等を行った。
これに反発したのがパリ高等法院であり、その有力者オルレアン公爵ルイ・フィリップ2世ジョゼフはブリエンヌの公債増発の発表に対し国王に直接抗議したもののルイ16世は財政健全化を重要視しオルレアン公爵ルイ・フィリップ2世ジョゼフをパリから追放すると共にパリ高等法院を抑圧。代わりに全権裁判所を新設するも、自由主義貴族の反対運動にブルジョアジーや下層市民が参加するだけに終わった。
このブリエンヌの政治は1788年8月初期に「国庫が空になりそう。」という報告から始まった現金の代わりに国庫証券を使用して支払うという発表やケース・デスコント紙幣の強制流通の発表等の失政の結果、国庫にあるお金が50万リーブル(2億2500万円程)になるまで続いた。
国王にブリエンヌの後を継がせようとされたネッケルはパリ高等法院の出した全国三部会のみが課税を行える権利が有るという主張の元、三部会招集を条件に財務総督となった。
パリ高等法院が第三身分を裏切りかけたりもしつつ、1789年1月24日に三部会の招集と選挙規則の交付が行われ同年5月5日にヴェルサイユで第一回三部会が行われた。
参加者は第一身分が300人、第二身分が270人、第三身分が600人となっていた。
しかし特に成果を出す事も出来ず、4ヶ月後には給料すら払われなくなった。
革命
  • バスティーユ牢獄占領

バスティーユ牢獄の襲撃
第三身分は1789年6月10日に自身の事を国民議会と名乗り、国王に対し「国王に国民議会の決定を拒否する事は出来ず、国民議会を否定する権力も無く、また国王が新しく税金をかける事は国民議会の許可がない限り不可能で有る。」と通達した。
しかし国民議会は国王の命令の元、軍隊によって物理的に閉鎖されてしまった。
国民議会議長ジャン=シルヴァン・バイイは偶然隣にあったテニスコートで国民議会を開き「国民議会は憲法が制定されその憲法が強固な基盤の上に確立されるまで決して解散せずどこででも国民議会を開催する。」というテニスコートの誓いを議決した。
その後ブルジョワジーを破産させる為の政策が施行されたりしつつも1789年7月11日に株式取引所と国庫、バスティーユ、廃兵院に軍隊が展開された。
国民議会は軍の撤退を要求するも国王は外出と集会の禁止を行った。
これに対抗する為市民と給料が払われる事のなかった軍隊達によってバスティーユ牢獄が占拠された。
軍隊もクーデターを起こした為ルイ16世は諦めて和解を宣言した。
尚宮廷貴族は処刑されるか逃亡した為最後に残ったのはルイ16世だけだった。
  • 国王逃亡
バスティーユ牢獄占領後、特権身分へ課税が行われたり、農民が暴動を起こしたりフランス人権宣言が制定されたりしつつも1790年10月に国王は国民議会との妥協は不可能だと考えオーストラリアへ逃亡しようとした。
しかし国境近くの街ヴァレンヌで捕まってしまい結果的に王家への不満が高まっただけとなった。
なおこの事件によって亡命者が大量に出た。
  • 帝政への移行
1792年、王政は廃止され第一共和政が成立。翌1793年、ルイ16世は処刑され、革命は急進化した。ジャコバン派による恐怖政治の時代を経て、1799年のブリュメール18日のクーデターにより、若き将軍ナポレオン・ボナパルトが実権を掌握する。
1804年、ナポレオンは皇帝に即位し第一帝政を開始。ナポレオン戦争を通じてフランスはヨーロッパ大陸の広範囲を支配したが、1812年のロシア遠征失敗を契機に衰退。1815年のワーテルローの戦いで敗北し、帝政も崩壊した。
  • 王政復古と七月王政
ナポレオン失脚後、ウィーン体制のもとでブルボン家が復位し王政復古が始まる。だが、旧体制への回帰は社会の反発を招いた。1830年、七月革命が勃発し、ルイ・フィリップが「フランス人の王」として即位、七月王政が成立した。これは立憲君主制を掲げたが、選挙権は制限され、産業化の進展とともに社会的不満が蓄積した。
  • 第二共和政と第二帝政
1848年、二月革命により七月王政は崩壊し第二共和政が成立。普通選挙が導入され、ルイ=ナポレオン・ボナパルトが大統領に選出された。しかし1851年、彼はクーデターを起こし、翌1852年に皇帝ナポレオン3世として即位。第二帝政が始まる。産業発展とパリ大改造が進められ、近代化が進展した一方、外交面では不安定さを抱えていた。

普仏戦争

  • 普仏戦争の経過
1870年、フランス第二帝政はプロイセン王国との対立を深め、同年7月に開戦した。これが普仏戦争である。
当時の皇帝はナポレオン3世であったが、軍制改革を終えたプロイセン軍に対し劣勢に立たされる。9月1日のセダンの戦いで皇帝自らが捕虜となり、第二帝政は事実上崩壊した。
9月4日、パリで共和政が宣言され、臨時政府(国防政府)が樹立される。しかしドイツ軍はパリを包囲し、厳しい籠城戦が続いた。1871年1月、休戦が成立し、同年5月のフランクフルト条約によってフランスはアルザス=ロレーヌをドイツ帝国へ割譲し、多額の賠償金を支払うこととなった。
  • パリ・コミューン
敗戦と講和に反発した急進派市民と国民衛兵は、1871年3月、パリに自治政府「パリ・コミューン」を樹立した。コミューンは社会改革や自治拡大を掲げたが、同年5月、政府軍によって武力鎮圧される(「血の一週間」)。多数の死者・流刑者を出し、革命的運動は大きな打撃を受けた。
  • 第三共和政の確立
戦後の国民議会では王党派が多数を占めたが、王位継承問題や王権の性格を巡る対立により王政復古は実現しなかった。その結果、暫定的体制として始まった共和政が次第に定着する。
1875年、憲法的法律が制定され、議会中心の体制が整備される。これにより第三共和政が正式に成立した。
第三共和政はその後、政教分離政策や教育制度改革を進めるとともに、植民地拡張を推進し、第一次世界大戦期まで続く長期政体となった。

第一次世界大戦

19世紀末から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパ列強間の軍拡競争と同盟体制の固定化が進み、フランスはロシア帝国、後にイギリスと接近し三国協商を形成した。1914年のサラエボ事件を契機に欧州全体が戦争へと突入し、フランスはドイツ帝国と再び対峙することとなった。しかし、パリの直前までドイツ軍が進撃してきた為講和によって終了した。

第二次世界大戦

第二次世界大戦は1937年の日中戦争から始まった。
フランスは第二次フランス革命により当時は赤化しており、その後第一次世界大戦の雪辱を果たす為にドイツへソビエト連邦と共に侵攻するも、ドイツ軍の電撃作戦により1ヶ月で降伏する事となり赤化フランスの戦いは終わった。
第二次世界大戦はその後1946年末に講和で終わった。

八月革命

設立
1988年5月4日、ジャン・ムーラン・リヨン第3大学哲学部のジョルジュ・ガエタン・モリゾー教授の影響を受けたレナ・ガッデーニョによって実践的な行動によるキリスト教義の実践による精神的共同体の再生を唱えるアイリスの花・真人十字教が設立された。
この頃の教団の活動は、慈善活動や社会奉仕を中心としており失業率の増加や移民問題等によって社会不安が増大していた当時の状況も相まって設立時から多大な人気を誇っていた。

設立当初は、失業者支援・移民家庭への教育援助・地域清掃活動などを原因にフランス国内で高まっていた社会不安と宗教的空白により、短期間で信者数が急増。設立2年目でフランス全土に支部を展開する。
対外治安総局の関与
1990年頃、フランス対外治安総局(DGSE)は当時の大統領であるノルベール・ドゥグルターニュが
「アフリカにおける影響力を保つ為に国家のリソースを注ぐ必要は無い。」
として進めていた軍縮に反発しこれを抑制する為の工作として当時国内で急成長していたアイリスの花・真人十字教に注目し、闘争の防止や福祉の拡大等で類似する主張を唱える教団を利用して大統領派の支持基盤を弱体化させる為に秘密裏に資金援助と広報支援を行った。
当初DGSEは、教団の傀儡化も望んでいたものの教団は「神の秩序に基づく社会再建」という独自の政治的言説を発展させていった。
信仰の自由運動
1990年代に入り諸外国で発生した紛争と経済格差を原因とする異常な景気後退によってフランス国内の失業率が戦後最悪の水準に達すると、教団は「経済が悪くても幸福になれる」という標語のもと、失業者共同作業キャンプの設立や炊き出しを実施。
地方自治体よりも迅速に援助を行った事によりフランス国防省内の一部将校を含む200万人以上の信徒の確保に繋がった。その多大な信徒数を背景にガッデーニョは政治的な活動を活発化させていき1993年フランス議会選挙では68議席の確保に成功した。

大統領派の支持基盤の弱体化には成功したものの異常な政治集団が国政に深く関与出来る立場になった事を受けDGSEは教団の幹部を通じてガッデーニョに政治的行動を控えるよう通告したもののガッデーニョは「国家による抑圧」として「信仰の自由運動」と称する暴動を煽動した。
信徒と治安部隊の衝突が頻発する様になった時点でDGSEは自らが支援した宗教組織を完全に制御不能と判断し、教団の排除に動いたものの効果は全く無く、当時の局長補佐も
「我々は怪物に恩恵を与えた」
と述懐した後、自殺している。
8月革命
1994年8月1日8時、教団がヨーロッパ・外務省と軍事省に電話で宣戦布告を行うと共に国防軍内の信徒を中心とする部隊がダッソー ミラージュ2000やAS 565を使い大統領を誘拐。制圧したエリゼ宮殿に大統領を運び込みフランス国国家福音書を発表した。
信徒になった軍人よって構成された正規軍の部隊とI号兵器を中心に武装した一般信徒によるゲリラ戦は全国での同時多発的な戦線構築に成功し8月10日にはフランス本土全域の制圧に成功した。
熱狂的再征服
  • 海外領土の独立
八月革命直後、本土の政情混乱に呼応する形で、カリブ海・インド洋・南太平洋の殆どの海外領域では旧共和国憲法の継続を宣言する評議会が成立した。これらの地域では、教団による中央集権化への警戒や経済的自立志向を目的に中央政府の任命した統治官の受け入れを拒否した。
  • 再征服作戦
1995年初頭、統制司教府は「熱狂的再征服」を発令し、教団系将校団を中心に、空挺部隊・海軍機動部隊を独立を宣言した海外領土に派遣した。
この再征服作戦で大規模な正規戦闘は限定的なものとなったが、都市部では散発的なゲリラ抵抗が続いた。1996年末までに主要拠点は制圧され、事実上の軍政下に置かれた。
再征服完了後、教団政権は従来の「海外県」「海外準県」制度を廃止し、新たに外洋県を設置した。これにより国家の領域的一体性は回復した一方、革命政府は国際社会からの強い非難を受けた他一部地域では長期間に渡って地下抵抗運動が行われた。

デジタル国家化


1990年時点の中央経済司令室
  • Providenceの整備
1988年の革命直後、フランス経済は資本逃避とハイパーインフレ、そして西側諸国による経済制裁によって壊滅的状況に陥った。旧体制の市場メカニズムが完全に機能不全となる中、統制司教府は経済再編の為、1960年代にソ連のヴィクトル・グルシコフが提唱した”OGAS”(全国家経済自動化システム)や1970年代にチリのスタッフォード・ビーアが主導した”サイバーシン計画”をモデルに、生産量や在庫、消費量、労働力などを日次で入力する為に教区や工場と言った生産拠点と各家庭に設置された改良型ミニテル端末”パロワス”から成る末端端末網・パロワス層、データの統合と一次分析を担う為各司教区に設置された地域集計センター・ディオセーズ層、国家全体の需給バランス最適化と配給や価格・輸送を決定する為に統制司教府の置かれたエリゼ宮殿の中央経済司令室・プロヴィダンス中枢層によって構成される三層構造で設計されたコンピュータネットワーク・”Providence ”(プロヴィダンス)の整備を開始した。Providenceの整備は当時フランス国内で普及していたビデオテックスシステム”ミニテル”を改良する形で行われた為、ソフトウェアの改良が中心となった事もあり、革命から丁度半年後が過ぎた1989年2年には必要最小限の機能が整備された。
パロワス層から日次で送信される生産・在庫データがリアルタイムで中央のプロヴィダンス中枢に送られる様になった事でリアルタイムな需給状況の把握が可能になり、統制司教府は限り有る食料や燃料といった基礎物資の適正な配分や在庫を抱え込む拠点への供出命令を即時に行うと共にプロヴィダンスによる評価単位の設定による需給に応じた配分優先度の変化でハイパーインフレによって機能を失った市場価格の調整機能を実質的に復活させる事に成功した。
  • スマートフォンの普及とデジタル・フラン
革命直後のハイパーインフレ以降、フランス国の資源配分、即ち誰がどれだけ優先的に食料や燃料を受け取れるかはProvidenceが定める評価単位によって決定される様になり、最早市場価格とフランス・フランは社会の調整機能としての価値を失い形骸化していた。そこで統制司教府は2000年代後半の世界的なスマートフォンの普及に合わせてフランス政府が開発・配布を開始した国産スマートフォンParoisse Mobile-パロワス・モバイルに搭載されたウォレット機能を通じて、フランス・フランの仮想通貨化を開始した。

Paroisse Mobileの普及による情報伝達速度の向上は地域毎の細かな需要の差異や個人の嗜好に即座に対処出来ないといったProvidenceの持つ経済の柔軟性と現場適応力の欠如の問題を明確化した。これらの問題に対処する為統制司教府はこの時点でProvidenceによって厳格に用途と配分が調整される配給票として扱われており、個人の裁量による交換や蓄積の余地はほとんど存在しなかったフランス・フランに自由枠制度を導入し、一定割合のみ個人の裁量に委ねられるフランス・フランの各利用者のウォレットへの付与を開始した。
総量はProvidenceによって厳密に管理され、取引の全てはネットワーク上に記録・監視されるとしても用途や交換相手、更に使用時期についてかなり自由な選択が認められた自由枠フランス・フラン、所謂デジタル・フランの導入は個人間での小規模な交換やサービス提供の再開を促し、停滞しかけていたフランス末端経済に一定の活力を齎した。

エロイーズ・バンレ政権と教皇庁の勢力拡大

エロイーズ・バンレ?

新復古王制

  • フランス国国法典
2027年4月25日にフランス国の第2代統制司教であるエロイーズ・バンレ?が、ノストラダムス・ノートを焚書した責任をとって辞任し、第3代にアシア・オレリア・ノートラダム統制司教が就任した。
彼女は、フランス国国法典の制定による嚮導司教の設置に代表される政教分離を目標とした政策を実施した。
  • ジャン5世
アシア・オレリア・ノートラダム嚮導司教は、2027年に国民議会がフランス革命を否定しジャン4世を正式なフランス国王として認める議決を行った際、国民議会の代理としてジャン4世に謝罪した。
その際、ジャン4世は「フランス革命は当時の暴徒が行った事で現在の政府に責任はない。」
とした上で
「ミシェル・ド・ノートルダムの次女のアンヌ・ド・ノートルダムの昆孫とマリー・テレーズ・シャルロット・ド・フランスの隠し子の子孫であるアシア・オレリア・ノートラダム嚮導司教は血筋的にも人格的にもフランス国王となるべき人間だ」
としてアシア・オレリア・ノートラダム嚮導司教にフランス国王位を譲る事を認めた。この時からアシア・オレリア・ノートラダムはジャン5世を名乗る様になったという。

スルピシウス2世暗殺事件

コメントをかく


「http://」を含む投稿は禁止されています。

利用規約をご確認のうえご記入下さい

メンバーのみ編集できます

広告募集中