第38話


春希 4月9日 土曜日



眠りが浅いというわけではない。むしろ深い方だと思っている。
普段からある意味では規則正しい生活をしていて、なおかつ、短い睡眠時間でも
日中はフル活動するようにしているおかげで、寝るときはぐっすりと眠れている。
それが起床時間が一定であっても、寝る時刻が不規則であろうと、
俺の生活リズムは規則正しく刻んでいた。
いつもの朝ならば、今の季節ならまだ薄暗い時間に目が覚めている。
これが夏であったら、今朝と同じくらいの陽の光を浴びてもおかしくはないが、
一晩で冬から夏まで寝過ごすなんてありえはしない。
やわらかな陽光が瞼をくすぐり、赤色に染まっていた瞼を開くと、白い陽光が瞳を出迎える。
朝日から顔を背けると、そこでも見知った顔が出迎えてくれた。
麻理さんは、柔らかい笑顔を浮かべたまま、じぃっと俺の顔を観察している。
俺が現状確認をする為に、頭の再起動を終えるのを待ってから、
麻理さんは艶やかな唇の形を変えながら、俺に朝の挨拶を囁いてくれた。

麻理「おはよう、北原」

春希「おはようございます、麻理さん」

耳の方はしっかりと麻理さんの声を聞きとったが、声の方はまだ試運転段階らしく
ややしゃがれた声で挨拶を返す。
一方、麻理さんの声はというと、けっして大きな声ではないのに、
一音一音はっきりと発声されていて、心地よい音色となって俺の鼓膜を振動させていた。
麻理さんは、いつから起きていたのだろうか。
麻理さんの様子からすると、寝起きというわけではなさそうだ。
顔をじっくり観察してみると、メイクをしていない生の麻理さんがそこにはいた。
もちろん昨夜、お風呂に入っているので、メイクを落とさないわけがない。
ずっと食事が十分出来ていない分顔色が悪いかと思いきや、
麻理さんの顔の肌艶は良好に見える。
本当に目の前にあるのだから、見間違えるはずもなかった。
麻理さんの目は、俺より早く起きていた事もあって、
芯がしっかりとしているいつもの強い視線を朝からはなっていた。
これは個人的な偏り過ぎた評価だが、メイクをしていない麻理さんは、
こうして朝から見惚れてしまうほどに美しかった。
メイクをしていなくともその顔の輪郭は繊細に構築されており、
メイクをしている時よりも華やかさがあるような気もしてしまう。
なんとなく仕事場では落ち着きがある上司を演じる為に地味にしている気さえ
してきてしまった。
むろん麻理さんが職場で落ち着きがあるわけでも、地味に働いているわけではない。
むしろ仕事の早さと正確さ、そして大胆な行動力をもって人を魅了しているのだから。
編集部では、麻理さんの綺麗すぎる顔は、おまけみたいなものでもあった。
世の女性が聞けば、恨み事を一日中言ってしまうほどのぜいたくなおまけではあるが。
はっきりいって、俺を見つめてくれている麻理さんの顔は、
見つめている行為を咎められない限りずっと見ていても飽きないほどである。

麻理「あのさ、・・・北原」

春希「はい、なんでしょうか?」

今までずっと俺の顔を見つめ続けていた瞳をおずおずとほんのわずかだけ斜め下にそらすと
はにかみながら俺に可愛らしい不満を訴えてきた。

麻理「さすがにじぃっと見つめられると、照れるというか・・・なんていうか。
   悪くはない。むしろ嬉しいんだけど、ね」

春希「すみませんっ」

俺は、声と同時に顔をそらす。
女性に対して顔をじろじろと見て観察するのはマナー違反だ。
それがいくら親しい間柄であっても、朝一番にしていい行動とは思えない。
朝じゃなくても、問題だが。
まあ、お互いさまじゃないかという意見もある。
なにせ、麻理さんも俺の事を見つめていたじゃないかという事実があるのだから。
でも、だからといって、その事実を麻理さんの目の前に突き付けるほど、
俺も女心がわかっていないわけではなかった。

麻理「ううん・・・、問題ないわ。ねえ北原」

春希「はい?」

麻理「ソファーで寝ちゃったけど、体大丈夫?
   飛行機もエコノミーで、体を伸ばして寝られなかったのに
   いつまでも北原を引き止めてごめんなさい」

春希「いいんですよ。俺の意思でこうしているんですから。
   それにソファーでも十分睡眠をとれましたよ。
   ・・・えっと、いま何時ですか?」

麻理「8時半くらいかしら」

麻理さんは時計も見ずにそう答えた。麻理さんが嘘やでたらめを言う必要がないので
時計で現在時刻を確かめなくともわかっていたのだろう。
麻理さんにはソファーでも休めたと見栄を張ってしまったが、やはり長旅の疲れもあって
体が硬くなってしまっている。
それでも今日一日活動する為の睡眠はとれているから問題はないはずだ。
ただ、体が硬くなって動けなくなってしまっている理由は、
ソファーで寝てしまった事だけではないのは、今の状態からすれば一目瞭然であった。
長時間ソファーで寝ていたことに加えて、現在進行形で目の前に、顔を少し動かせば
キスできるくらいの距離に麻理さんの顔がある。
つまりは、麻理さんが俺の二の腕を枕代わりにして寄り添っている状態が続いているわけで。
たしかに、日本にいた時も同じような夜を過ごした経験があった。
また、俺と麻理さんが各々使っていた毛布も、NYの夜の寒さに耐える為に
毛布を二枚重ねにして、二人で寄り添って一枚となった毛布を使っている。
だから、ちゃんとした理由があって今の現状にいたるわけだが・・・・・。
誰に言い訳してるんだよ、俺は!

麻理「大丈夫?」

俺が無言で考え事に夢中になって麻理さんを置いてけぼりにしていたせいで、
麻理さんは少し不安そうな声で俺に聞いてきた。

春希「えっと・・・時差ですか?」

麻理「・・・ええ、時差で頭が働いていないのかなって思って」

春希「それなら問題ないですよ。日本でも寝る時間が決まっているわけではないですから。
   麻理さんだって同じじゃないですか」

麻理さんが問いかけたかった質問は、おそらく違う内容だろう。
何が大丈夫か。そんなの決まっている。
俺が無言でいたから麻理さんは不安になってしまったのだろう。
だから、俺と麻理さんが寄り添って夜を過ごした事が大丈夫かって
聞きたかったに違いなかった。
麻理さんは、俺とかずさが復縁するだろうことは知っている。
俺がかずさの事を待つって曜子さんに宣言した事は教えてはいないが、
大学のヴァレンタインコンサートを聴きに来た麻理さんならば察しているはずだった。
俺はずるい。麻理さんが聞きたい内容をわかっていながら時差と内容をすりかえるのだから。
でも、今は仕方がない。そう思いこむことで、罪悪感に蓋をした。
かずさへの罪悪感。麻理さんへの罪悪感。
抑えれば抑えるほど罪悪感は膨れ上がるのに、
俺は罪悪感のインフレを止める手立てを持ち合わせてはいなかった。

麻理「たしかにこれは職業病ね。でもNYに来てからは、だいぶ決まった時間に
   寝られるようになったわよ。日本と違って治安がいいわけではないっていうのも
   影響しているけどね。日本だったら、何時であろうが帰宅できたけど、
   ここではちょっとした気の緩みで身の破たんを招いちゃうから」

春希「麻理さんの事だから、大丈夫だとは思いますけど、仕事優先で動くあまり、
   ここがNYだって言う事を忘れてしまいそうで不安です」

麻理「大丈夫よ。帰りはだいたいいつもタクシーだから」

もしかしたら、電車に乗ると気持ち悪くなってしまう事が起因しているのかなという
疑問もわいて出たが、おそらく治安と時間的な問題だろうと、すぐさま自己解決させた。

春希「それならいいんですけど、それでもタクシーを降りてからマンションまでの
   ほんのわずかな距離であっても危険なんですよ。
   しかも帰宅時間は夜中なわけなんですから、暗闇にまぎれてってことも
   十分考えられるんですから」

麻理「本当に心配症ねぇ」

春希「当然です」

嬉しそうに目を細める麻理さんを前に、声のトーンがダウンしてしまう。
それ、反則です。こっちは心配しているっていうのに、それなのにその笑顔はなんなんですか。
・・・まあ、その理由は、うぬぼれではないと思うけど、おそらくそうなのだろう。

麻理「でも、マンションのエントランスには、24時間勤務の警備員が立っているし、
   意外とセキュリティー面ではしっかりしているのよ、このマンション」

たしかに昨日このマンションのエントランスを通るときに、映画に出てくるような
屈強なガードマンが不審者がいないか目を光らせていた。
どうやら麻理さんは、その警備員と顔見知りらしく、しばらくここに滞在する俺を
紹介もしてもらった。
これでも一応英会話は出来る方ではあるが、まだ耳が慣れていない事もあって
二人がかわす会話についていけず、あぁ、NYに来たんだなって、
今さらながら実感した瞬間でもあった。
本来ならば空港で感じるべき実感であるはずだが、それは全て麻理さんとの再会で
塗りつぶされてしまっていた。

春希「それは頼もしいですけど、油断だけはしないでくださいよ」

麻理「わかってるわ。これ以上北原に心配はかけられないから」

日だまりにいたかと思えば、一瞬で寒空の下に放り出されてしまう。
麻理さんの表情が陰っていくのがまじまじとわかる。
けっして麻理さんが情緒不安定だというわけではない。
普段はしっかり仕事をしているらしいし、食事面と電車を除けば、
いたって普通に生活をおくれている。
問題があるとすれば、それは北原春希の事に関する事についてのみだ。

春希「俺は、そういうことに首を突っ込む為にNYに来たんですよ。
   心配するなって言う方が無理な注文です。
   心配させてください。頼って来てください。不平不満をぶちまけてください。
   全てを解決することなんてできないってわかっていますけど、
   それでも俺は、麻理さんの隣にいたいんですよ」

全てを解決する事はできない。
これは、俺と麻理さんの共通認識だろう。
お互いわかっているから、依存できる。
踏み越えられない境界が明確に線引きできているから、
俺達は許された範囲内で触れ合っていられるんだ、と、言い訳をする。

麻理「うん、ありがとう。・・・もう少しだけ寝ててもいいかな?
   今日と明日は休みだし、もう少しだけ寝ていたい気分なの」

春希「構いませんよ。もう少し寝てから朝食にしましょう」

麻理「うん、北原の朝食、期待してるわ」

そう麻理さんは小さく呟くと、俺の腕に体重を預け直す。
麻理さんの重みが俺の腕を通して信号となって脳に運び込まれ、
今まで蓄積されていた記憶に、新たな麻理さんを上書きしていく。
俺のもう片方の手に自分の指を絡ませてきた麻理さんは、
最後の最後で手を握るかどうかで迷っているらしい。
毛布の中でごそごそとするその動きに、俺は隠れて笑みを洩らす。
だから俺は、ちょっと強引に麻理さんの手を奪う。
一瞬麻理さんの体が膠着するが、俺の手に握られている事を認識すると、
おずおずと握り返す力を増していく。
それがなんだかくすぐったくて、どうしようもなく愛おしく思えてしまう。
今度は麻理さんと逆の立場になって、隣に寄りそう大切な人をそっと眺め続けることにした。







俺達が朝食を食べ始めたのは、あれから1時間ほど経ってからである。
食事の準備をするといっても、サラダやパンの用意をする程度で、
大して手間暇をかける必要もない労力なのに、俺が準備をしている最中ずっと麻理さんは
俺が料理をする姿を眺めていた。
昨夜も同じように俺の料理姿を眺めている。
そして、昨夜の経験を生かして俺の姿が一番見やすい位置に椅子を用意してじぃっと
眺めていた。
そんな経験を積んだとしても役に立つとは思えないが、それを言ったところで
かえってくる言葉は想像できるので、あえて口に出す事はない。
まあ、昨夜の最初のうちは、俺の斜め後ろから眺めていて、邪魔というわけではないが、
ぶつかったり、材料をこぼす危険があった為に、ちょっとした注意はした。
その注意をしたときの悲しげな瞳。今でも忘れられない。
犬を飼った事はないが、愛犬の餌の準備をして、目の前に餌を差し出しながらも
「待て」の命令をし、そのまま「待て」の指示をしたまま餌を片付けてしまったら、
もしかしたらこんな表情になってしまうのではないかと、
麻理さんには悪いとは思ったが考えてしまった。
やや麻理さんに甘いかなという思いはあるが、それが心地よくもあるのだが、
麻理さんが喜んでくれるならばという気持ちが優先して、
注意の直後に囁いてしまった。

春希「包丁を使っていますし、火だって使っています。
   だから、麻理さんの綺麗な肌に万が一の事があったら、俺が困るんです。
   麻理さんが邪魔なんじゃなくて、麻理さんの安全の為に
   少し下がったところで見ていてくれると、俺も安心して料理に集中できます。
   でも、見られていると調子に乗って失敗してしまう事もあるかもしれないですけど、
   そこんところは、好きな女の子の前ではりきってしまう男子だと思って
   見逃してくれると助かります」

こんな発言ばかりしているから、俺と麻理さんとの絆は離れることが出来なくなってしまう。
それじゃあいけないってわかっているのに、どうしても麻理さんの喜ぶ顔を望んでしまう。
それが、かずさへの裏切りだってわかっているのに。



夕食に続いて朝食も無事に終了する。
ある意味拍子抜けな気分になってしまうのもしょうがない気がした。
なにせ佐和子さんから、そして麻理さん本人からも、麻理さんの病状を聞いていたのだから。
もちろん心因性味覚障害によって、今も味がわかっていないのかもしれない。
麻理さんの事だから、俺に心配させまいと、味がわからない事を隠す事は十分に考えられた。
しかし、食後に訪れる吐き気だけは隠せないはずだ。
こればっかりは、いくら気持ちが悪いのを隠そうとしても顔に出てしまうはずだ。
しかし、夕食時も、そしてさきほど終了した朝食においても、まったくというほど
吐き気の様子は見受けられなかった。
むしろ麻理さんの機嫌は良く、饒舌なほどだ。
吐き気を催している人物が、自分から積極的に話しかけはしないだろう。
だから、どうしても麻理さんが心因性味覚障害であると思えなくなってしまう。
そんな気の緩みが、俺を大胆な行動に移してしまい、
その結果として、大きな後悔をするはめになってしまった。
ただ、後悔はしたけれど、どちらにせよ通らなくてはならない道ではあったので、
踏ん切りがつかないでいた自分にとってはちょうど良かったかもしれないが・・・。

春希「昨日今日と、調子がいいみたいでしたから、これはいい傾向なのでしょうか?
   今すぐ全快とはいかないでしょうけど、俺に出来る事は何でも言って下さいね」

俺に振りかかかっている症状ではないから気軽に聞いてしまった。
実際苦しんでいる本人からすれば、言われたくない言葉であったはずだ。
デリカシーがないとか、相手を思いやる気持ちがないどころではない。
いくら相当な覚悟を持ってNYに乗り込んできて、
思っていたような最悪な状態を見ていないからといって、
それが安心できる状態だと、誰が保証したんだ。
今までニコニコして微笑んでいた麻理さんの笑顔が、すぅっと消え去っていく。
ゆっくりと視線を左右に揺れていた瞳が、
明らかに動揺しているとわかるほどに揺れ動きだす。
もはや俺など見てはいなかった。
両手で自分の腕を爪が食い込んでいるのではないかと思うほどに強く握りしめ、
呼吸も乱れ始めている。
嗚咽のような、吐き気を抑えるような呼吸を前にして、
事の重大さを、今になって実感してしまった。

春希「麻理さん!」

俺は椅子を蹴り倒して麻理さんの元へ駆け寄る。
麻理さんは、椅子に座りながらも、いつ椅子から転げ落ちてもおかしくないほどに
体をくの字に曲げて、必死に俺が引き金をひいてしまった症状と戦っていた。

春希「麻理さん」

大丈夫ですかなんて、聞けやしなかった。
俺がしむけてしまったのに、なにが大丈夫だ。
だから、俺は繰り返し麻理さんの名前を呼ぶことしかできなかった。
何度麻理さんの名前を呼んだのだろうか。
ようやく俺の呼び声に気がついて顔をあげてくれた時には、
どのくらいの時間がたったかなんてわかるはずもなかった。
実際には、5分もたっていない。
けれど、心が乱された俺にとっては、長く、果てしない後悔の時間であった。

春希「麻理さん」

麻理「北原・・・」

俺を見つめる目には涙が溜まり、頬には太い涙の線が刻まれ続けている。
顔はゆがみ、さっきまで笑顔だった面影は、
全くと言っていいほど見つけることができなかった。

麻理「ごめんさない。・・・ごめんなさい。ごめんなさい、冬馬さん、ごめんなさい。
   春希を借りちゃって、ごめんね。・・・ごめんなさい。許して・・・」

俺と重なる視線さえも拒絶するように視線を外す。
再び俯いた麻理さんは、許されないとわかっても懺悔を繰り返すしかなかった。
かずさがどう裁きを下すかは、俺だってわかるはずはない。
今こうして謝ったとしても、意味があるとは到底思えもしない。
けれど、激しい後悔が、俺以上の後悔が、麻理さんを苦しめている事だけは理解した。

春希「麻理さん」

俺の声など届いてはいないのだろう。
麻理さんは、何度も、何度も、かずさに向かって懺悔を続けている。
俺こそ懺悔をしなければいけないのに、懺悔することさえ許しを得られそうもなかった、
俺は、激しく揺れる麻理さんの肩を、恐る恐る手を伸ばし、掴み取る。
俺の右手が麻理さんの左肩に触れると、電気が走ったかのように麻理さんの肩が震えた。

麻理「だめっ!」

そう激しき拒絶する麻理さんは、俺が寄り添う事さえ許してはくれなかった。
俺の隣で料理を眺めることも、ソファーで寄り添う事も、
全てが幻だった気さえしてしまう。
しかし、俺の後悔と懺悔は後回しだ。
今は、激しく蒸せ返している麻理さんを助けなければいけなかった。
麻理さんは、吐き気をこらえるようにして蒸せ返すのを繰り返していた。
もはや躊躇などしている時ではない。
今目の前にいるのは、かずさではなく、麻理さんなのだ。
俺が今、助けるべき人は、麻理さんただ一人だって決めてここまで来た。
だから俺は、躊躇なんてすべきではなかったんだ。

春希「麻理さん。・・・俺はここにいたいから、NYに来たんです。
   今さら日本に送り返さないでくださいよ」

俺は、麻理さんの気持ちなど考慮せずに、麻理さんを抱きしめる。
嗚咽に苦しむ麻理さんの事情なんて無視して、俺の事情で麻理さんを包み込んでしまった。
それでも麻理さんは、俺を拒絶しようとする。
吐き気に苦しみながらも、俺から逃れようとする。
元々麻理さんはしっかりと椅子に座っていたわけではない事もあって、
そこに俺が強引に力を加えたものだから、バランスを崩して床に落ちるのも当然だった。
椅子の上からだとしても、麻理さんを下にして落とすわけにはいかない。
このまま何もしないで落ちてしまえば、麻理さんと共に横向きのまま床に衝突してしまう。
だから俺は、力いっぱい右腕で麻理さんの背中を抱き寄せて、麻理さんが床に衝突する事を
回避しようとした。
普段の俺ならば、考えてから行動を起こすのに、この時ばかりは考える前に行動を
起こせたおかげで、どうにか難を逃れることができた。
二人分の重みを背中に受けて、ほんのわずかだけ息が詰まったが、
有難い勲章として今回は受け取っておくとした。
麻理さんは、床に落ちた衝撃もあったことで、俺への抵抗はやめていた。
そもそも、力の差は歴然なのだ。俺は男で、麻理さんは女性なのだから。
基本スペックからして違うのに、ましてや麻理さんは、俺がNYへ来るまで
まともに食事をしていなかったわけで、
力をふるえるほど体力は残ってなどいなかった。

春希「俺と一緒にやっていきましょう。
   俺にできることなんてたかが知れていますけど、
   少なくとも普通に食事をして、普通に食事を楽しんで、
   今までみたいに仕事に熱中できるくらいまでは、なってもらいます。
   俺のせいだって自覚しています。
   許してもらえないって、わかっています。
   ずうずうしくNYまで乗り込んできたとも自覚しています。
   でも、俺は、麻理さんの側にいたいんです」

俺の一方的すぎる演説を聞いていた麻理さんから力が抜けていく。
あんなに激しく拒絶反応を見せていた麻理さんの腕はおとなしくなり、
今やおずおずと俺の服を探り始め、そして、そっと俺の腰に腕をまわして
抱きしめ返してくるところまで来ていた。

春希「えっと・・・、側にいてもいいってことですよね?」

麻理「もう少しだけこのままでいさせて」

春希「それは構わないのですが、吐き気とか大丈夫ですか?」

言ってしまった後に、再び後悔の念が押し寄せろ。
またしても麻理さんが本当に聞きたい事をすり替えてしまった。
おそらく麻理さんは、「自分が一人で歩けるようになるまで」
もう少しだけこのままでいさせてと、言いたかったに違いなかった。
さっきも俺の軽すぎる一言がトリガーになったというのに、俺は成長していない。
たしかに、さっきの今では成長しろという方が無理かもしれないが、今は緊急事態であり、
無理やりにでも成長すべきだったといえる。

麻理「なんか、色々頭の中がごちゃごちゃになって、訳がわからなくなったんだけど、
   ・・・とりあえず今は、吐き気はないかな」

春希「・・・そうですか」

麻理「だから・・・、でも、気分が落ち着くまで、もう少しだけ、このままでいさせて。
   ・・・ね、お願いします」

俺は返事の代りに麻理さんを抱きしめる腕の力を強める。
それが合図になったのか、麻理さんは俺を抱きしめる力を強め、
俺の頼りない胸に頬を擦りつけた。
麻理さんに無理やり「気分が落ち着くまで」もう少しだけ、このままでいさせてと、
言わせてしまった事に、激しい怒りを覚えながら、俺は麻理さんの重みを噛み締めていた。




第38話 終劇
第39話に続く








第38話 あとがき


文章量は、毎回だいたい7500字を目安に書いているのですが、
たまに文章量が増えたりするのは、アップ前にチェックを入れたときの修正分のせいです。
ごく稀にですが、修正入れることで12000字とかになってしまうことがありまして、
その時は次の話以降の文章と結合しながら、話を再分割していきます。
とりあえず、今までの修正作業で文章量が減った事がないのは救いなのでしょうか?


来週も、火曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので
また読んでくださると、大変うれしいです



黒猫 with かずさ派

このページへのコメント

原作でのかずさとの同棲生活を思い出しますね。
ええ、こんな可哀想で可愛い麻理さんを見ていると春希もますます放って置けなくなりますね。

読み進めるのが辛くまた面白くなってきました。
続きが楽しみです。

0
Posted by N 2015年03月17日(火) 23:37:09 返信

更新お疲れ様でした。
心の葛藤が素晴らしく描けています(涙)かずさ派な私ですが、麻里さんネタは心に響きます。次回も楽しみにしています。

0
Posted by バーグ三世 2015年03月17日(火) 10:18:05 返信

更新お疲れ様です。
春希も麻里さんも今の関係はとても居心地が良いけれどいつかは終わらせなければならない、でもいつ迄も続いて欲しいという気持ちの間で揺れている感じですね。これから始まる2人の生活がどうなるのか次回以降も楽しみですね。

0
Posted by tune 2015年03月17日(火) 02:58:00 返信

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