息が白く、肌を突き刺すかの様な寒さの中で、駅前で佇む男が一人。時計と駅から吐き出される人を交互に見比べている。待ち人は未だ来たらずという所か。だが、その表情には焦りも怒りも含まれていない。唯々、呆れと隠せぬ期待が滲み出ていた。
 何度駅から人が吐き出されたか。それでも男は忠実に待ち続ける。そして、その待たされた時間が漸く報われる。

「ごめ〜〜ん、遅れた」
「いいよ。そんなに待ってねぇし」

 男の顔に笑みが浮かぶ。男が目の前の女にしか決して見せる事のない穏やかな笑み。期待し裏切られ、それでも変わらぬ愛情を注ぐ表情は決して目の前の女にしか向けられることはない。その事を知ってか知らずか当たり前のように返す。

「ほんじゃま、飲みにいくとするか、依緒」
「朋は?」
「仕事で遅くなるってよ。もしかしたら来れないかもしれないって」
「あっちゃ〜。三人で飲もうって前々から決めてたんだけど。仕事じゃあねぇ」
「学生時代だったら押しかけてでも捕まえてたんだが、社会人になっちまうと無茶が出来ないよなぁ。あ〜あ、学生の頃が懐かしいぜ」
「まだ、二年って言えばいいのか、もう二年って言えばいいのか悩みどころよね」
「全くだ」
「来れないんじゃ仕方ない。明日は二人揃ってオフだし、梯子するわよ、武也」

 二人揃って御宿のいつもの居酒屋へと足を向ける。六年前よりも近くて、一年前よりもずっと近くなった二人の間にある距離。春希と雪菜が改めて恋人となり将来を誓い合ったあの一年前から二人の距離は徐々に近づいている。友達の様に少し離れている訳でもなく、恋人の様にぴったりとはくっついてはいない。手を伸ばさば簡単に触れ合えるもどかしい距離。それが今の二人の正しい距離。
 寒さで体が凍えているのか武也は足早に進む。その半歩だけ遅れて続く依緒は武也に気付かれないようにチラチラと武也の手に視線を寄せていた。何度も何度も武也のポケットの中に入っている手を見ては、相手に聞かれない小さな溜息をもらす。見ている者がいれば微笑ましくもいらだちを感じる、もどかしい姿。そして武也は依緒の反応を気づかれないように覗き見て忍び笑いを浮かべている。
 それが、二人の間柄を如実に証明していた。


「さてと、んじゃま、乾杯と行きますか」
「春希みたいな杓子定規みたいな言葉はいらないけど、今回ばっかりは少し気の利いた言葉を選びなさいよ」
「分かってるって。それじゃ、俺達の最愛の親友の挙式が決まった事を祝って、乾杯」
「乾杯――――なんだけど、武也、クサイ」
「俺だって言葉は選んだつもりなんだけどな…………」

 カチャンと二人の態度よりも静かなグラスを打ち合わせる音が響く。クサいと言いつつも、依緒も武也の言葉に否定の言葉はないのか苦笑とも微笑ともつかない笑みを浮かべている。


「それじゃ、私はほっけと串盛り合わせと牛肉コロッケ、後、出汁巻」
「俺はフライドポテトと冷奴と、からあげでいいか」

 オーダーを上げながら二人は一息でビールを飲み干す。余程嬉しいのか二人のピッチは速い。
 さもあらん。一年前から結婚目前としながらも挙式の日取りが決まらなかった春希と雪菜が漸く、挙式を上げる事が決定したのだ。これ程この場にいる二人にとって嬉しい事はない。六年前から、いやともすればそれよりもずっとずっと前から望んでいた日が来たのだから。

 揚げ物類が来ると同時に頼んでいた二杯目に手を付ける。

「挙式が決まったのは嬉しいけど、なんでわざわざ2月14日なんだろうな。春希のやつは六月に挙げた方が良いんじゃないかってこぼしてたけどさ」

 24歳になっても少女趣味というか乙女な部分が多いと多数からの人物評があげられる雪菜である。春希もそうだと思い六月の挙式を行おうと努力をしていたのだが、雪菜の頑なな態度により2月14日となった。

「雪菜の我儘みたい。何でも、『私の誕生日なら春希君も、結婚記念日を忘れないし、休みを取れるように最大限努力してくれるよね』だってさ」
「相変わらずだよな。信頼してんのか、信頼されてないのかわかんないトコ」
「信頼してんでしょ。頼まれたり、仕事が乗ってると色々と張り切り過ぎて他が疎かになる春希の事を」
「さすがのアイツも結婚記念日までは忘れないだろ」
「十年後を見越してるんだって」
「………………相変わらず、微妙に黒いよな、雪菜ちゃん」
「後、ほら、バレンタインデーでしょ」
「あーあー、聞こえない、聞こえない。雪菜ちゃんの黒い所とか全くもって聞きたくない」

 大親友をネタに二人して盛り上がる。最も今日の集まりは乾杯の音頭にもあるように親友の挙式の祝い。ならば、それ意外をネタに上げるのは空気が読めていないと言えるだろう。

「でも、やっとだよな。六年、六年かかった」
「そうだね。六年だよ。色々と会ったね」
「今となっちゃ、こうして酒の席のネタに出来るけど、当時は苦労したよなぁ」
「徒労になった事の方が多いけどね」

 共に苦笑を浮かべる。あの三人の中から一人が去り、一人と一人が残された最初の三年間は酷かった。離れ、近づき、傷つけ、癒し、すれ違い合った三年間。武也も依緒も、二人が大好きだったから何度でも二人の仲が取り戻せるように努力した。筆舌に尽くし難い心が軋むような日々だった。何故なら、四年前の、三年の隔絶があった春希と雪菜の二人の関係は、言葉にするのならば硝子越しに想いを交わしあっているかの様だった。触れ合う事も出来ず、されど触れ合おうと距離を縮めるには硝子の壁を砕いて血を流しさねばならなかったのだから。

 だが、春希がやっと過去を見つめる事が出来るようになってからは、無邪気に祝い、無遠慮に二人を揶揄する事の出来た二年間。そして、最後の最後に傷つけ合い、苦しみ、それでも尚、取り戻した春希と雪菜と、そしてかずさ。お節介を焼いたが効果の程があったのかと聞かれると実は首を捻る。あの三人はきちんと自分達で解決した部分が多いのだから。
 

「まぁ、でもいいじゃないか。今が幸せなら」
「そだね。今が幸せなら」

 カツンともう一度、日本酒に変えたグラスを軽くあてる。

「そういや、武也、スピーチの方が順調?」
「全くもって。苦労してるよ。というか何で俺達なんだ。こういう場合は普通は上司とかじゃないか?」
「春希も雪菜も揃って指名してきて。こっちも苦労するって言うのに。ちなみに、私はもう原稿出来てるから」
「マジか。依緒、手伝って――「自分でしなさい。最愛の親友の門出の言葉でしょ」――はい、がんばります。全く、厄介な事を押し付けてくれるよ、俺の親友は」
「雪菜のお父さんも、春希のお母さんもやるんだからあんただけ怠けないの」
「はいはい。そっか。そうだよな。参列するんだよな、春希のお袋さん」
「雪菜の努力だけどね。付属の頃から知ってるからこそ余計に、感慨深いよね。春希とお母さんがきちんと向き合えてるっていうのは」
「雪菜ちゃん様々だよ。そう思うと本当に、春希のヤツ、雪菜ちゃんを選んでよかったよな」
「他の誰かだったら、きっと無理だっただろうね。春希と春希のお母さんを向き合わせるのは」

 二人同時に、思う。雪菜以外の誰かと言われて真っ先に思い浮かぶ、緑の黒髪をした、世界的ピアニストにして二人の友。怠惰で、頑固で、その癖周囲を焦がしかねない程の情熱を胸に秘めた女性の事を。
 六年前の事、一年前の事。当時では毛嫌いしていた、よく知らない女性だった。だが、日本に活動拠点を移したかずさとは依緒も武也も接する機会が多くなり、嘗ての様な忌避感は消え今では友好を育んでいる。


「あの三人、結婚式でも一曲やるらしいよ。新曲」
「なんて豪華な。世界の冬馬かずさと東京一円における大人気ボーカルのセッションなんて、金を払っても中々見れないのに」
「一人抜けてる、一人抜けてる」
「いや、でもな、春希のヤツは休日になればチョコチョコ触ってるけど一向に腕が上達しないんだぞ。他の二人はプロなのに」
「あははっ」

 乾いた笑いしか浮かばない。プロとセミプロとアマチュアの共演なのだから、一人だけ本当に場違いとしか言いようがない。最も春希以外の二人は、真面目に誰かの為に一曲奏でる時に春希を外したら、出演辞退になりかねないのだが。

「なぁ、酒の席だから聞くけどさ、冬馬ってさ。未だに春希の事好きだよな」
「未だに春希以外の男から声を掛けられてしつこく言い寄られたら蹴りを入れてるよ」
「…………いいやつなんだけどな。こうして一年付き合ってみると」
「いい奴だよ。春希の事を諦めてくれたから。あの時、諦めてくれてなかったら、きっと私達はかずさとは肩を並べられなかっただろうな」
「複雑だな」
「複雑だよ。女心も、恋も」

 二人同時に思う。もしも、もしもあの時春希が雪菜を選ばずにかずさを選んでいたのならば、武也も依緒も春希とは絶交し、絶縁していただろう。そう簡単に想像できる。だから、そうならなくてよかったと本心から思う。

「それでも足しげく二人の愛の巣に足を運んでるかずさの事見てるとちょっと辛いな。諦めてるのは分かってるから安心して見てられるけど、大好きな二人の置いてけぼりにされてるかもしれないって思うと」
「大丈夫だろ。あの三人に限って。でなきゃ、結婚式にセッションしないさ」
「そだね」

 長い時間をかけて育みなおした三人を祝して武也と依緒はまた乾杯した。

「そういやさ、小春ちゃん、就職先決まったんだってな」
「早いね。何処だっけ」
「開桜社だってさ。今年の頭からバイトで入ってて、それでそのままって流れらしい」
「あの子、文学部だったもんね。っていうかさ、その流れって春希まんまじゃん。正に小春希だ」
「本当に似てるよな、あの二人。兄妹かっての」
「いいじゃない。可愛い後輩の輝かしい未来が決まって」
「そうなんだけどな。いや、春希に聞いたんだけど、前の春希の上司とさ、似てるらしいんだ小春ちゃん。まぁ、正確にいうと春希に似てる上司って話なんだが」
「そなの?」
「バリバリのキャリアウーマン。三年たってアメリカから帰ってきて30歳目前にして編集長勤めの人に似てるらしいんだよ小春ちゃん」
「いい事じゃない」
「独身の上に彼氏もいなんだそうだ。仕事が恋人みたいな人に似てるらしいんだよ、小春ちゃん」
「………………………………ノーコメント」
「卒業間近なのに今も可愛らしさを残している小春ちゃんが、30台になっても仕事しか目に入らないとか可哀そうな事になってほしくないんだけど」
「ノーコメントだってば」

 痛いほどの沈黙が二人を包んでいた。

「話を変えて、小春ちゃんって本当に春希と同じバイト先に行くよねぇ。グッディーズに関しては偶然にしても開桜社とか最初から春希がいるの分かりきってるのに。やっぱり、あれかな。一度指導を受けた人の方がやりやすいのかな」
「そういう理由以外だったりしたら笑え…………ごめん、睨むなって」
「笑えないでしょ、完全に。春希は意外な所に人気があるんだから」
「あぁー、あったなぁ。そういや、大学時代にも二度も告白されてたし、別のバイト先で」
「あんたと違って純情そうな子から人気あったみたいだし」
「あっ、あははっ。だけど、あいつに好意を寄せるのってなんでか知らないけどレベル高いよな。具体的には雪菜ちゃんと冬馬」
「そうだねぇ。何であんなのを好きになっちゃったのか未だに教えてくれないのよ。雪菜もかずさも」
「胸の内に秘めて大事にしておきたいんだろ」
「そだよね。その気持ち、私も分かるし…………」
「…………」

 静かに痛くはない沈黙が二人を包む。想いを馳せるのは過去。春希とも雪菜とも出会っていない、付属時代よりも前の二人だけの物語。
 春希と雪菜、そしてかずさ達の様に、真摯に向かい合いながらも傷つけ合い、すれ違い、一度は離れてしまったあの日々を。

 それが例え、思い出せば胸を掻き毟りたくなるほどの痛みを伴う過去だとしても、それは武也と依緒にとって今を象る為に必要な大切な過去。

 その日々があるからこそ武也は別の女に逃げた七年間があった。春希と雪菜がもう一度手を取り合えたから、向き合う為の勇気を手に入れられた三年間がある。だから、

「…………そっ、そういえばさ、朋のヤツ連絡遅いよね。来ないなら来ないで連絡くれればいいのに」

 その空気にまた耐えきれずに依緒が逃げに走る。勇気を持てればいいのに未だに武也程に割り切れない。そんな自己嫌悪を胸の内に秘めながら依緒は今日も逃げる。だけど、

「来ない。元からそういう話になってる」
「………………えっ?」
「初めから朋には話だけって事を頼んでた」
「どういう………………」

 今日は、武也が逃がさなかった。
 意味を問いかけながらも依緒の表情には僅かな恐怖が浮かんでいた。急な展開。来ることを望みながらも来ない事を望んでいた展開。まっすぐな体育会系の依緒らしく不意打ちには何時だって弱い。

 そんな恐怖を滲ませる依緒を真剣な瞳で見つめる武也は言葉を止めそうになる。だが、それでは何の為に朋に頼み込んだのか。

(春希、今だけでいい。勇気くれよ)

 心中で親友に希う。あの杓子定規で、でも実は弱くて、だけど最後の最後には決断できた、武也にとって最高の親友に。

「今日、そういう話をしたくて朋に遠慮してもらった」
「………………武………………………………也」
「今度は間違えない。今度は、お前だけを見つめる。だから、だから」

 この一年。恋人に最も近い時間を過ごしてきた。一緒にショッピングに行き、映画を見て、小洒落た店にディナーに行った事もある。だが、その前提である言葉を囁いた事はなかった。腕を組んだ事も、手を握り合った事もまだ、ない。その後に続く行為など以ての外。

「いいか。この後、有海のホテルを予約してる」
「武也」
「だから、今度こそ」

 まっすぐに力を込めた瞳で依緒を見つめる。眼光から逃がさないという言葉と逃げないでと二つの言葉を発している。決意と懇願が混じった強さと弱さをそろえた瞳。
 その瞳から依緒は、熟した林檎のように頬を染め、童女の様に感情を持て余して視線を切った。

「依緒」
「……」
「依緒」
「…………」
「依緒、答えをくれ」

 強さと弱さを浮かべる瞳から逃げきれずに依緒は目線を合わせる。武也の瞳の力に気圧されているのか、依緒の瞳に力は無くぼうっとしている。だが、それは一瞬の事で、武也と同じかそれ以上の力を込めて睨み返す。

「武也。言葉が足りないよ」
「………………………………」
「私、まだ、大事な言葉を貰ってないよ。私は、私は………………ホテルとか、上等な酒とかよりも先に、その言葉が欲しい」
「………………ごくっ」

 真摯な問いに真摯な答え。女にかんしては百戦錬磨と呼んで過言ではない武也だが、本気の恋は依緒以外にはしていない。だから、最後の最後で躊躇していて、だけど、その言葉を求めれて。
 だから、もう一度だけ、心の中で親友に頼む。ただ一度だけ、この時だけでいいから、勇気をくれ、と。

「依緒………………好きだ。俺と、俺の恋人になってほしい」
「最初から、そう言えば素直に答えたのに。喜んで、なってやるよ。バカ」

 居酒屋だという事も忘れて二人は長い長い時間切望していた行為を、そう、唇を重ね合った。

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