大晦日のコンサートに向かったら 第十六話

『――かずさがウィーンに戻る日が決まったら教えてね、私も成田に見送りに行きたいんだ』

雪菜はそう言って、微笑みながら玄関のドアを開けていった。

春希はキッチンで先ほど使った食器の洗い物をしている。かずさはリビングでテレビを見ていた。かずさが自分からテレビを点けるのは、春希の家に来てから初めてだった。

三年間の溝を埋め、雪菜と親友に戻れたとしても、何か気を紛らわせるものが必要だった。

「――どうだ、日本のテレビは?」

洗い物を終えた春希が、かずさの隣に座った。

「この、二人の男と一人の女が街をブラブラする番組、おもしろいな。機械音声みたいなナレーションもいいよ」

「なんかいやらしい言い方だな。街を歩いているのは芸人とアナウンサーだよ。こういう番組がかずさは好みなのか?」

「今までまともに見たことなかったけど、そうなのかも。いや違うかな、こうして誰かと楽しそうに街を歩いているのが羨ましいのかもな。小さい頃から母さんと町へ出かけるときはハイヤーだし、これまでピアノばっかりで、友達と街に出て遊ぶ暇も無かったからさ」

「そうか…」

春希はさみしそうに話すかずさを胸元に抱き寄せ、一緒にベッドで横になる。

「春希、あたし、あさってウィーンに戻ろうと思う」
ぼそっとかずさが呟いた。

「そうか、もう少し一緒に居たいけどな…」
春希は事も無げに話すが、かずさを抱きしめる力は強くなる。

「今あたし、モチベーションすごく高いんだよ。最高の演奏を聴かせたい相手がまた増えたから…」
それは小木曽雪菜という、自分の事を親友と呼んでくれるかけがえのない人…

「それなら仕方ない、マネージャーになる身として、練習の邪魔はできないな」

「でもまだ明日一日空きがある。だからさ春希、明日はあたしとデートしてくれよ」

多分、雪菜の言葉に触発されたのだろう。自分たちは普通に街を歩いて良いのだという、親友からの優しい言葉に…

「ああ、いいよ。どんなデートがしたい?」

「春希の考えた普通のデート、普通の大学生がしていそうなデートがしてみたいな」

「普通?」

「そう、普通のデート」

「普通の…デート…か……よし、分かった」

「ふふふ、楽しみだなぁ……春希がどんなプランを立てるのか」

かずさは顔をほころばせながら枕をぎゅっと抱きしめた。かずさは自分が『普通』と言った時、春希が一瞬悲しい表情をしていた事に気がついていなかった。

「――分かった、普通のプランを立ててみるよ、普通のな。でももしかしたら、かずさの言う『普通のデート』が日本でできるのもこれが最後になったりしてな」

「どういうことだ?」

「次に日本でデートするときは、かずさに変装してもらわなきゃいけないかも。マスコミ対策としてさ」

「マスコミを騒がす自信はあるさ、優秀なマネージャーが来年から着いてくれるからね」

「頑張るよ…」

「ふふ、頼むよ。でも変装ってあたしはどんな格好させられるんだ?」

「定番だと、メガネに帽子だな。かずさは綺麗で長い黒髪が特徴だから、結ったりするのもいいな」

「あたし、自分で髪結えないよ」

「え?」

「自分で結ったこともあるけど、めちゃくちゃになっちゃってさ。母さんに呆れられた。だからいつもこの髪型なんだ。もしも結うことになったら春希の仕事になる」

「俺が、この髪をか…」

春希はかずさの髪を優しく撫でた。冬馬曜子が娘かずさに残した最高のものはピアノの才能として、2番目はこの美しい黒髪だろう。
かずさがずっとこの髪型だった理由も衝撃的だったが、変装することになったら自分がこの黒髪を結わなければいけなくなる事に緊張してしまった。

このままやることが増えていっったらもしかしたらいつか、お風呂場でかずさの髪を洗うなんてこともあるかもしれない…

「ふふっくすぐったいよ…春希ぃ…」
春希はかずさの髪を自分の指に巻き付けたり、毛先を鼻の近くに持って行き香りをかいだりしていた。

「本当に…本当に綺麗な髪だ。」

「…………ばかやろう」
かずさの声が、少しまどろみを帯びていた。

「眠くなってきたか?」

「――うん」

「眠いなら寝て良いぞ」

「春希はまだ寝ないのか?」

「明日のデートのスケジュールを決めたら寝るよ」

「そうか…楽しみに…してるよ」

それから少しして、かずさから寝息が聞こえてきた。

春希の胸の中で眠るかずさを起こさないように、ゆっくりゆっくり体をずらして、かずさの頭を枕の上にのせた。

「ふぅ…」

春希はパソコンを立ち上げ、明日のデートプランを考える。

「(今考えると、雪菜と二人で会うときはいつも武也と依緒のお膳立てがあって、俺が一からデートプランを考えるのってこれが初めてなのか…)」

春希は様々なサイトを巡りながら、睡眠時間を削ってデートプランを練る。

――天才ピアニストが望む『普通』のデートのために。

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