雪菜Trueアフター「月への恋」第三十八話「眺めの良い部屋(2)」


8/23(日)広島ガルーダホール コンサート後の控え室


 かずさは春希に得意になって語っていた。
「…というわけだ。最終公演の京都では、私の自宅にあるスタインウェイを持ち込んで演奏する」
「すごいなあ。輸送代とかどうなんだ?」
「普通はしょぼいギャラなら吹っ飛ぶぐらいかかるが、いい運送会社を見つけた。母さんじゃなくわたしがな。
 面白い台車を使って運ぶんだ。これなら安くてピアノへの負担も少ない。火曜に輸送だから取材してやってくれ。運送会社には話してあるし、美代子さんに立ち会いお願いしてある」
 そう言ってかずさは資料と担当者の名刺の入ったクリアフォルダーを春希に手渡した。名刺を見た春希の表情が一瞬凍りついたがかずさは気付かなかった。

「これで練習さぼ…いや、思い通りの演奏ができる」
 ピアニストにとってコンサート会場にあるピアノがどんなピアノかは悩みのタネだ。他の音楽家は自分の楽器を持ち込めるが、ピアニストはそれが難しい。ちゃんと調律されているピアノであっても微妙に鍵盤の硬さや鳴りが違う。ピアニストは会場のピアノに慣れることに公演前の貴重な時間を消費することを強いられる。まして、次に別のピアニストが使うものなのであまり自分好みに調律する事も許されない。
 自前のピアノならそういった問題がすべて解消される。せいぜい長距離輸送後の調律の確認くらいだ。
「トラックもエアコン付きの精密機器用で、向こうでは公演までコンサート会場の練習室で管理してもらえる。調律はキンッキンのわたし好みの調律だ。京都では期待してくれ。とくに今度のリストはわたしも皆に聞いてもらうのが楽しみだ」
 春希はそれを聞いて嬉しさが溢れそうだった。ツアー開始時はあまり積極性がなかったかずさが、自分からここまで積極的に取り組んでいるとは…
「ま、わたしの最終講演に向けた取り組みの目玉はそれだ。他に質問はあるか?」
「いや、ありがとう。すごくいい記事になるよ。輸送の件は今からテレビ屋にも話して取材入れたいがいいかな?」
「わたしはいないから美代子さん友近さん通して好きにしてくれ。わたしの方は今日のホテルには戻らず直接広島空港だから、また来週な」
「ああ、またな」

 かずさは春希が去った後、荷物を確認した。
 飛行機のチケット、パスポート、問題なし。
 かずさは携帯を取り出し空港までのタクシーを呼んだ。



8/24(月)


 月曜日、ひさしぶりの休みを取った美代子の所に曜子から電話がかかってきた。
「はい。どうしました? 社長」
「かずさの予定、どう聞いてる?」
「今日と明日は休み。水曜日から先に京都入りではなかったですか?」
「詳しく」
「『遅くても水曜の朝イチには関空行きの便に乗る』でしたね。社長もそれでOKしませんでしたか?」
「自主練はともかく、京都でのベレンガリアのレッスンは?」
 美代子は聞かれてだんだんと不安にかられてきた。
「えーっと…木曜の夕からですね。自前のピアノですし、先生の確認はそれくらいからでも十分だと…」
「…やられた」
「え?」
「確かに水曜の朝一番には飛行機に乗ってもらわないとレッスンにも間に合わないよねぇ…」

 美代子は曜子から転送されてきたツイッターの投稿を見て目を丸くした。



同日 岡山の某レストラン


「春希、ひさしぶりだな」
「親父…ひさしぶり」
「大きくなったな」
「…親父は…老けたな」

 春希の前に立っている初老の男性の髪には白いものがかなり混じっており、精悍な顔には何本も皺が寄っていた。しかし、その眼光は鋭い猛禽類を思わせた。

「母さんから話は聞いている。立派に育ってくれてうれしい。…そして、側にいてあげられず、すまなかった」
 ここで謝らせておくと一生謝られ続けることになりそうだ。春希は全然気にしてないフリを装って軽口で答える。
「いや、私大に通わせてもらえるぐらいの楽はさせてもらったよ。親父は元気で留守がいいってね」
「…それでもお前や母さんに苦しい人生の道を歩ませたことには変わりない」
 力無くそう言う父親に春希はかける言葉はなかった。老け込んでしまった父親の顔を見てから春希の中では彼を責める気持ちは失せてしまっていた。しかし、たとえ自分や母が許してもきっとこの男は一生自分を責める。春希にはそれがわかっていた。

「親父こそわざわざトラブルまみれの実家に戻って、わざわざ苦しい人生の道選んだように見えるけど?」
 春希の父の従兄にあたる岡山電鉄の重役、大嶋薫一が背任の上失踪した事件は地元のみならず大きなニュースとなった。
 桃太郎パークグループより薫一に嫁いでいた「あの女」がどんな苦境に立たされたかは想像に難くない。
 帰省した春希の父は苦労の末、傾いていた桃太郎パークの経営を立て直し岡山でも一目置かれる男となった。
「他人の苦境と割り切れればこんなことにならなかっただろうな…」
 春希の父の述懐は自嘲にまみれていた。

「…あんな女の行く末に責任感じる必要なかっただろう?…って聞いたら怒るかい?」
「………」
 春希の父はしばらくの後に答えた。
「…踏みとどまれなかった。お前や母さんが怒るのも無理はない」
「新しい奥さんは?」
「…立ち直って薫一君に代わって良くやってくれている」
 春希が次の疑問を口にしようとしたとき、グラフ編集部の浜田さんからの着信があった。
「ごめん。上司からだ」
 父親にも無言で促され、春希は電話を取った

『その女が欲しかったからって動機はなかったのかい?』
 その疑問を聞く機会はこの着信により永遠に失われた。

「おい、北原」
「はい? 何ですか? 浜田さん」
「お前、冬馬かずさの今日の予定知ってるか?」
「? 昨日のうちに東京への便に乗り今日はオフだと」
「何か隠してないか? お前」
「隠すって、何ですか?」
 電話の向こうからはしばらくの沈黙の後のため息があった。
「今からツイッターの投稿送るわ」

 まもなく送られてきたツイッターの投稿を見て春希は目を丸くした。記事にはスマホで撮ったと思しき空港のかずさの写真にこうコメントしてあった。
『ナマ冬馬かずさ発見! 国際線でニューヨークに行くみたいです』
 リプライには『冬馬かずさアメリカ進出!?』『ツアー中だし人違いだろ』などとあったが、春希には一目見て本人とわかった。

「本人だよな?」
「ええ、本人だと思います。この私服は見覚えありますし、間違いありません」
「本人、ツアー中だよな?」
「ええ。今週末は最終公演で日曜公演のみ、自前のピアノの分余裕あると思いますが…」
「冬馬曜子オフィスに確認取れ。お前から」
「はい」

 春希は電話を切ると父親に断りを入れた。
「ちょっと仕事で…」
「構わない、そちらを優先しなさい」

 春希が曜子に電話をかけると、まず自分の関与を疑われた。
「じゃあ、ギター君はかずさの行き先に全く心あたりないわけね?」
「もちろんです」
「どこかに押し込めて手込めにしているとかない? 今、隣にいるのは?」
「父です」
「あらそう? それはごめんなさいね。
 でも変ねぇ。あの子英語もまるでダメだし、ホントに一人で行ったのかしら? 東京の真ん中でも行き倒れる子が」
「………」
「ねえ、今からでも正直に言ってくれない? ホントは雪菜ちゃん捨ててかずさとアメリカへ駆け落ちしたいんなら生暖かく見守ってあげるけど…」
「勝手に話作らないでください。最終公演までちゃんと取材させてもらう約束です。京都公演は気合い入ってましたし、かずさは投げ出したりしません。
 とりあえず、こちらでも足取り追いますが…本当にそちらは全く心当たりございませんね?」
「ええ。話して役立ちそうなことは何も」
 やや引っかかる言い回しだが、追及しても無駄だろう。
「わかりました。こちらで何かわかりましたら連絡します。そちらも何か思い出しましたらお願いします」
「期待してるわ。あの子に振り回されるのはまあいつものことだけど」
「こちらにとってもいつものことにしないでください」

「すまん。親父。仕事だわ」
「行ってこい。タカ伯父さんにはこちらから言っておく」
「悪い…それじゃまた」
「ああ、またな」




 春希はまずは東京への空の便を取りつつ、友人関係にあたりをつけた。とはいえ、武也や依緒が知るわけもなかった。
 もちろん雪菜も。
「うん、わたしもツイッターの記事見てびっくりしたよ。かずさ、ニューヨークに行っちゃったの?」
「ああ。まだわからないけど、たぶん」
「ひとりで? 美代子さんとかは?」
「誰にも言わずに」
「大丈夫かなあ? かずさ、英語できたっけ?」
「高校の時よりひどいらしい。それにかずさの場合、英語ができてもなあ…」
「心配だね…」

「…。 あの…雪菜。ちよっとかずさの担当として、追わなきゃならないから…」
「うん。大丈夫だよ。ちよっとくらい平気だし、気にしないで」
「悪い…」
 婚約以来『一週間ルール』のことを口にすることはなかったし、口にするまでもなく毎日のように雪菜と会っていたが、明日、火曜日のうちに会わないと『一週間ルール』を破ることになる。
「わたしの事は気にしないで。危ない目にあってないか見てあげて」
「ああ」
「……怒らないから、ね」
「っ!?」
「ふふっ。お仕事がんばってね」
「わかった。手早く済ませるよ」

 電話を切った後で、雪菜は自分に言い聞かせていた。
「大丈夫、大丈夫だよ…」
 きっと何もない。いや、例えかずさと春希の間に何かあったとしても…
 その時は…怒ろう。
 怒って、そして許してあげよう。




 春希が最後に電話をかけたのは千晶だった。
「なあ、和泉。今時間いいか?」
「春希の方からかけてくるなんて珍しいねえ。いいよ。何?」
「ツアー中のはずのかずさがニューヨークに行っているらしい。何か聞いていないか?」
「ん〜。直接は聞いていないけど心当たりはあるなぁ」
「本当か!? なんだ?」
「あのコが悩んで突飛な行動とる理由なんて、あなたの事以外にありえるわけないじゃん」
「〜っ!!」
「ねえ、春希。あなたかずさのこと心配なだけで…っと、もしもし…切られたか」

「瀬之内さん。何携帯いじってるんですか? もうすぐ本番ですよ」
「わたくしになにか? 囚われの身とはいえゲール族の名誉まで捨て去ったわけではありません」
「大丈夫そうですね。では移動お願いしまーす」



8/23(日)夜 ニューアーク・リバティ国際空港


 麻理は小春の言葉を思い出した。
『たぶん、かずささんは北原さんの事がまだ好きなんだと思います。
 だからこそ、北原さんの結婚式にこだわっているんです。自分の気持ちに整理をつけたいから…
 麻理さんにこんなことお願いするのもおかしいのはわかっていますが、かずささんにお力添えお願いできませんか?』

 到着する日本からの飛行機を見つつ、麻理はひとりごちた。
「杉浦ちゃん。おかしいよ。本当におかしいさ。…私に頼むなんてな。私だって…」
 麻理の脳裏に春希の顔が浮かんだ。
 麻理はかぶりひとつふって到着口へと向かった。




 機から降りた冬馬かずさはまず小春から紹介された人物を探した。
 到着口でグリーンがかった紺色のスーツ姿で待っている日本人女性。すぐ見つかった。
「うっ!?」
 かずさは息を飲んだ。
 控えめながら上品なスーツに身を包みきりりとまとめあげられた美貌は働く女性としての凛とした美しさを感じさせるものであった。それでいて成熟した女性としての、人に安心感を与える母性的な雰囲気をまとっていた。
 誰もが直接目を引きつけられるような美貌ではない。しかし、雪菜や母とは違う、「自分ならこうなりたい」とかずさが思える美しさの一つがそこにはあった。

 かずさが呆気にとられていると、麻理の方から近づいてきた。
「冬馬さんですね? 杉浦より紹介ありました風岡です」
「あ、ああ。冬馬だ。風岡さん、世話になる」
「? わたしの顔に何か?」
「あ、いや。何でもない」
「ここで話すと目立ちます。ホテルに向かいましょう」
「ああ…」
 二人は空港からタクシーで夜のニューヨークへ向かった。



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