雪菜Trueアフター「月への恋」第四十一話「眺めの良い部屋(5)」


「こっちだ!」
 エレベーターを乗換え7階に下りたかずさがチェロの聞こえた方角へと走る。
 ほどなく、チェロケースを持った女性が部屋に入るのが見えた。メフリ・ユルドゥズに間違いない!

「待って!」
 かずさが声をかけるとその女性は驚いてこちらを見た。
「えーと。わたしは冬馬かずさ。ピアニストで…」
 たどたどしいドイツ語なまりの英語で話しかけるとメフリからドイツ語で返事をしてきた。
「えっ! あなたが冬馬かずさ? ドイツ語話せる?」
「ああ。ドイツ語の方が得意だ…11月の『シルクロード・コンサート』の件でナーセル・サイさんに謝りたくて来た。サイさんに会わせてもらえないか?」
「ええ。もちろんいいわよ。隣の部屋よ」

 すぐにメフリは隣の部屋をノックし、かずさと麻理を中に招き入れた。
 人のよそうな初老のトルコ人、ナーセル・サイ氏がそこにいた。
「はじめまして。ナーセル・サイさん。ピアニストの冬馬かずさです」
「おやおや。ニューヨークに来ていたとは知らなかったよ。はじめまして。冬馬かずささん」
 かずさはサイ氏の機嫌が良さそうなのを見て、すぐに本題に入った。
「すいません。11月末のコンサート、お招きいただいたのに誠に申し訳ありませんが、どうしても外せない用事が出来まして…」
「ああ、聞いてるよ。友人の結婚式だってね。残念だが仕方ないよ」
 サイ氏は笑顔を崩さずに言った。

 かずさは拍子抜けした。「怒っている」と聞いていたのだが…
「なんだ、そんなことを気に病んでわざわざ訪ねに来てくれたのか。いいよ、また別の機会に一緒にやろう。
 そうだ、来年とかはどうかな? イスタンブールに来てくれるかい?」
「ええ! もちろん! 行かせてもらいます!」
「はっはっは。本当にいいのかい? ありがとう」
「…はあ。よかった」
 あまりにもあっけない解決にかずさは胸を撫で下ろした。

 その時だった。
 メフリの通訳で話を聞いていたファイサルが不機嫌になっていた。
「おい、この女は誰だ? 何の話をしている?」
「冬馬かずさだよ。冬馬曜子の娘。11月のコンサート出られないって謝りに来たんだよ」
「ああ。まったく。あのコンサートか。
 うちの社長に騙されたよ。あの冬馬曜子に会えると思ったから我慢して日本まで行くことにしたのに、実は来るのは冬馬は冬馬でも冬馬かずさとかいう娘で、冬馬曜子じゃなかったんじゃないか。
 しかも、用事が出来たから来ないって言ってるんだろう? いいじゃないか。社長に言ったようにおれも日本に行かない」
「ちょっとファイサル。落ち着いて…」
 トルコ語で話していたのでかずさや麻理には詳しくはわからなかったが、「冬馬曜子」「冬馬かずさ」という単語は耳に入ってきた。かずさも傍若無人な彼の態度に眉をひそめた。

 横で話していたサイ氏もこれには顔をしかめて咎める。
「おい、ファイサル。静かにしなさい」
 しかし、ファイサルは関係ないといった感じで続けた。
「冬馬かずさというこの娘は知らんが、やっぱりコンサートはキャンセルなんだろう? サイさん。おれの日本行きもキャンセルしていいよな? 『トウマが来るから日本に行かないか?』が最初の話だったんだから」
「まったく…社長に言って好きにしなさい」

 トルコ語なので会話の内容はわからなかったが、麻理は何となく事情がわかった。
 かずさが出ないなら日本に来ないと言っていたのはサイ氏でなくファイサルなのだ。
 招聘会社にせよサイ氏の事務所にせよ、アメリカでこれほど人気のファイサルを日本で売りたくないはずがない。
 「ヴァイオリニストのファイサルが、かずさが出ないなら日本に行きたくないと言っている」と正直に話したならば、冬馬曜子オフィスもかまわずかずさのキャンセルを通しただろう。
 招聘会社なり事務所がファイサルをなんとか日本に行かせるために、わざと冬馬耀子オフィスに「怒っているのはサイ氏だ」と誤解をさせ、かずさの翻意を狙っていたのではないか?
 「サイ氏側でかずさが出ないなら日本に行きたくないという声がある。なんとかならないか?」とか、わざと誤解を招くようにして…
 まあ、どうもファイサルが執心していたのは冬馬曜子でかずさではないようだが…

 一方、かずさはファイサルを睨みつけていた。
 アメリカで人気が出るルックスはわかる。ヴァイオリンの腕も相当なのだろう。
 しかし、気にいらないのはその目だ。明らかに自分を、冬馬かずさを見下している。
 そして、おそらくは「冬馬曜子と比べて」だ
 かずさは曜子を超えるために乗り越えなければならないものをそこに感じた。

 かずさはファイサルの前に出てファイサルを睨みつけて言った。
「わたしが冬馬かずさだ」
「? ああ、おまえは娘のかずさだな」
「わたしが『冬馬』だ」
 言葉が通じない2人だったがそのメッセージは明確に伝わった。




 ラウンジのピアノの前には人だかりができていた。
 何せこれから「スモーキング・ファイサル」がそのヴァイオリンの腕を見せてくれるというのだ。
 伴奏は名もない日本人だが、ファイサルと共演するのだからそこそこの腕だろう。
 通りがかったホテルの客はみな自分の幸運を喜んだ。

 にらみ合いになったかずさとファイサルにラウンジのピアノを使って協演することを提案したのはサイ氏だった。
「ファイサル。下のピアノで冬馬かずさの腕を見てあげようじゃないか」
「しかし…」
「なあに。どのみちマスコミにはかぎつけられてしまったしな…な、美しい女性記者さん」
「…!」
「マネージャーと一緒にホテルに言って準備整えてやってくれ。
 大丈夫。下のピアノの具合がいいのは知っているよ。よく手入れされていたからね。
 どうだい? 冬馬かずささん」
「いいだろう。もちろんやってやる」

 かくして急遽、ヴァイオリニスト、ファイサル・ホセインとピアニスト冬馬かずさの協演が行われることとなった。

 2人の傍ではメフリとサイ氏、マネージャーと麻理が控えている。
 撮影の許可を得た麻理はビデオカメラを設置してホクホク顔だ。

「じゃ、曲は僕の好みで選ばせてもらうよ。ドビュッシー『ヴァイオリンとピアノのためのソナタ』」
 サイ氏の出したテーマに2人はうなずく。
 ドビュッシーの最後の作であるこのソナタはヴァイオリンソナタとしては非常にポピュラーだし、ヴァイオリンとピアノのバランスも良く、双方に見せ場がある。
「わかった。問題ない」
「いいぜ。サイさん」

 かずさは今日の自分の武器となるピアノを観察した。
 メーカーはファツィオリ。曜子の評では「イッてるイタリア人」だ。
 4本ペダルという独自のギミックを備えており、キワものと言う者もいるがその楽器としての実力は本物である。
 そして、かずさの弾きなれたピアノの一つでもある。なにせジェバンニ国際ピアノコンクールで4つある公式ピアノのうち、かずさが入選した年に新たに採用となったピアノだった。かずさもこのピアノを弾きこなすために練習を積んだものだった。

 冬馬かずさの名を忘れられないようにしてやる…まずはこの男からだ。
 かずさは決意とともにピアノの前に着いた。

 第一楽章。始まってすぐかずさはこのヴァイオリニストの実力に驚いた。
 エネルギーが違う。ヴァイオリンが生きている猛獣のごとく唸っているようだ。
 かずさが硬質なピアノの音を返しても、躍動と熱情で飲み込まれてしまう。
 ちっぽけなナイフでライオンに立ち向かっているような畏怖を感じさせられた。

 かずさはその圧倒的なエネルギーの違いに飲み込まれそうになった。
 いくらかずさが追いすがろうとしてもあっという間に引き離されてしまう。
 どうする? どうする? どうすればいい?
 そのとき、かずさの脳裏に浮かんだのは母の姿だった。

 曜子なら、この猛獣のような男をどう扱うか?
 こう扱うだろう。

『ほう…』
 ナーセル・サイはかずさのピアノのスタイルが瞬時に変わったことに気付いた。
 さっきまでファイサルのヴァイオリンに肩を並べて競わなくてはと焦っていたピアノが4本目のペダルが踏み込まれると同時にすっと後ろに退き、ヴァイオリンの演奏を後ろから追いたてるようなスタイルに変わったのだ。

『なにっ!』
 驚いたのはファイサルだった。今までのかずさのピアノは自分の演奏の添え物にすぎなかったが、いつの間にか自分の演奏を煽り、掻き立て、さらに厳しい熱情を要求する扇動者になっている。
『さあ、もっと。もっとだよ…』
 かずさに追い立てられファイサルの演奏は躍動する。さながら硬質の音の鞭で打たれ、障害を跳び越して走る競技馬だった。

 やがて、観客は異変に気付いた。
「スモーキング・ファイサル」が煙を噴き始めた。
 びっしょりと流れ出す汗が彼の熱気でもうもうとした湯気となり、立ち上っているのだ。
「スモーキング」と彼が言われる所以はここにあった。演奏に熱が入ると彼の身体はこの蒸気を上げるのだ。
 しかし、彼のコンサートでもめったに見られるものではない。まして、この気温の高い夏場ならなおさらである。

 熱気とともに揺れる浮遊感ある協演がラウンジを満たしていた。

 続いての第二楽章では二人の演奏は闘牛のような鋭いやり取りを見せた。矢継ぎ早に繰り出されるスタッカートが猛牛のようなヴァイオリンと華麗な剣技を見せるピアノの戦いのようであった。
 ファイサルが弦をはじくたびに観客の背筋をヒヤリとするものが走るが、かずさのピアノはそれを優雅にかわし、突きを繰り出す。観客たちの両耳(ドス・オレハス)はこの2人に惜しげなく捧げられた。

 第三楽章ではもう、ファイサルはピアノにしっかりとリズムの主導権を握らせていた。複雑なリズムをこなしてテーマの周回を重ねていく二人の姿は歓喜に満ちており、まさに人馬一体の様相を見せていた。速く駆ける時もまどろむ時も常に息のあった2人の演奏は長年連れ添った騎手と競技馬を思わせた。

 演奏が終わった時、ホテルの最上階まで達せんばかりの拍手がホテルの窓を揺らした。

「いい演奏だったな」
 かずさが笑顔でファイサルに握手を求めると、ファイサルはかずさの前でひざまずいた。
 え?、と呆気にとられるかずさにファイサルは詫びた。
「素晴らしいピアニストにさっきは非常に無礼な態度をとってしまった。お詫びしたい」
 ああそうか。さっきはこいつに見下されにらみ返したからこうやって腕比べする羽目になったんだった、と、かずさは思い出したが、そんなことはもうかずさにとってどうでもいいことだった。
「そんなことはどうでもよくなった。素晴らしい演奏ができた。あなたに感謝したい」
 かずさはファイサルの肩に手を置きつつ握手した。




 演奏の一部始終の画像とインタビューを編集部に送信し終えた麻理はホクホク顔だった。
「いやあ、これは最高だよ。もう、いくらお礼を言っても足りないぐらいだ。『スモーキング・ファイサル』の演奏とその後の独占インタビュー。うちの次号がいくら売れるか楽しみだ」
 演奏の後、興奮冷めやらぬファイサルは麻理のインタビューにも快く応じ、かずさへの激賞と今後の音楽活動への抱負を述べてくれた。
 その後、サイ氏とファイサルはかずさと別れを告げて部屋を引き払い、マネージャーを連れて別のホテルへと行方をくらませた。

「で、なんであんたはここにいるの?」
 かずさがメフリに聞く。メフリだけこのホテルに残ったのだ。
「だって、明日はヴァイオリンソナタのレコーディングだけだから、あたしオフだし。
 あなたといれば退屈しないかなって。それとも忙しい? 明日はオフ?」
「いや、別に忙しくはないが」
 かずさとしては用事を済ませた以上、一刻も早く日本に戻りたい。飛行機の予定を早めようかとも思う。
「ねえねえ、とりあえず今日の演奏成功を祝って、上のバーで祝杯でもあげない?」
「あ、いいねぇ。行こうか」
「それはいいな。ひと弾きして喉が渇いている」
 かずさも麻理も「とりあえず一杯」には賛成だった。

 バーに入るとかずさはグラスのシャンパンを、メフリと麻理はビールを注文した。
「それでは、今日の夜と、あたしたちの出会いにかんぱーい」「乾杯」「乾杯!」
 なぜかメフリが仕切って乾杯が行われた。

 ほどなく、3人が注文したつまみ類がテーブルに並ぶ。
 そのとき、かずさは気になっていたことを聞いた。
「ねえ、メフリ。あなたはイスラム教徒?」
「そうだよ。でも、お酒は飲むよ」

 ああ、そうだな、小春の言っていたとおりだ。かずさは納得した。
 小春はかずさにトルコ人について詳しく教え込んでいた。
 トルコ人のほとんどはイスラム教徒だが政教分離も進んでおり、他の国のイスラム教徒とは違って教義に寛容で古い因習にもとらわれたりしない。
 一夫一妻だし、宗教施設の近くでなければお酒も飲める。女性も肌を隠すような格好をせずおしゃれを楽しんでいる。日課の祈りを欠かさず豚肉を禁忌とするところは他のイスラム教徒と変わらないが。

「いやあ、仕事の後のビールは最高! この気持ちが共有できるのはうれしいねぇ」
 上機嫌の麻理にメフリも笑みを浮かべ、答える。
「マリさんはビール好きなんだね。わたしも好きなのはビールかな。特に外国で飲むビールは最高だよ」
 そう言って、メフリはテーブルの上のつまみをビールで流し込む。

 麻理とかずさは呆気にとられた。そして、このチェリストがなぜ妹から毛嫌いされているかを瞬時に理解した。
 
 メフリは口を拭いつつこともなげに言った。
「ぷはーっ。やっぱりビールにはソーセージだね」

 メフリ・ユルドゥズは背教者なのだ。



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