「これが豚の丸飲みに匹敵するほど面白いこと……ですか?」

「ええそうよ。私にとってはね」

「僕にはそうは思えませんけど……」

「私、実は豚ってあまり好きじゃないのよね」

「なら最初から提案しないでください」

 曜子さんに連れられて来た場所は、この家の地下室。そもそも地下室なんてものがあるのが驚きだが、その地下室の電源をつけると、二十畳くらいの広めの白い部屋があり、そこにはピアノを始め、あらゆる楽器が転がっていた。

 けれど何よりも俺の目を点にしたのは、部屋の天井からぶら下がっている高価そうなマイクと、部屋の奥にある、ガラスで仕切られた狭い部屋。ガラス越しの隣室は、学校の放送室にあるものより、もう少し豪華な機材で埋め尽くされていて、それらがここの用途を如実に物語っていた。というか、武也たちがたまに使ってた近場のレンタルスタジオよりも遙かに上だ。

 この家は某スタジオミュージシャンの自宅兼スタジオと話には聞いていたけれど、実際に目にすると物珍しさに息をのんでしまう。

「まったく、なんであたしまでこんなこと……」

 ぶつぶつと文句を言いつつも大人しくピアノ椅子に座る冬馬。

 そして首からギターを提げている俺。

 曜子さんの言う余興とは、俺たち二人の演奏を聞かせて欲しいという、至極真っ当で拍子抜けすることだった。やっぱりアーティストって人種の思考は難解だ。

「えっと、じゃあまずはギターのチューニングを……」

「その必要はないわ、ギター君。さっきコーヒーを淹れに行ったときにしておいたから。初心者が演奏するのなんてレギュラーチューニングの簡単な曲でしょう?」

「……」

 最初から演奏させる気満々だったのか、この人。それこそ冬馬家でクリスマスパーティをやると決めたときからずっと。

……いや、考えすぎか。

 それにしたって、いきなり人の前で演奏するなんて。師匠である冬馬以外の相手がいるのは初めてのことだし、しかもそれがあの冬馬曜子ってのが緊張を更に高めている。

「北原」

 当惑する俺に冬馬が声をかけてくれる。

「こうなったら母さんはお前を家に泊めてでもやらせる。何でもいいから演奏しないと終電に間に合わなくなるぞ」

 脅しじゃなく警告であることを経験から知る。冬馬が本気で嫌がっていた今日のクリスマスパーティを強行したのは他ならぬ曜子さんだ。目的のためならどんな手段でも厭わない。自身の評価を落としてでも。この人はそうやって腕二つで金を稼ぎ、女手一つで冬馬を育ててきたんだから。

 それに俺だって、やりたいかやりたくないでいえば、久しぶりに冬馬と一緒に思いっきり演奏したい。近頃は試験でそれどころじゃなかったし、終わっても冬馬の追試に追われる日々だったし、卒業が決まった終業式の日は謝られっぱなしで冬馬は終始ローテンションだったし。後顧の憂いなく演奏するのは久々だ。

 覚悟を決める。別に笑われてもいいじゃないか、中途半端でもいいじゃないか。

 冬馬が一緒にやってくれるなら。

 冬馬の世界が守ってくれるから。

「よし」

 ともあれ失敗はしたくない。練習した曲目の中でも一番自信のあるもの。とすれば、選択肢は一つ。

 冬馬を見ると彼女も察してくれたようで、微笑んでからピアノに目を伏せた。

 その手が奏でた旋律は、時代遅れのポップス。十年近く前に発売された、ミーハーかつマイナーな曲。

――WHITE ALBUM

 あれからいろんなことがあったけど、この指は、体は、ちゃんと覚えててくれた。

 それだけじゃない。それからの練習の成果も感じられた。考えなくても指が動くし、冬馬の音を聞く余裕もある。確実に俺の腕は上達していた。冬馬と同じ土俵にはまだまだ上がれないけど、土俵際までは近付いている。そう確信できる。

 そして、その先からは冬馬が導いてくれる。半人前の俺の音をフォローして一人前一歩手前くらいまで引っ張り上げてくれる。

 やっぱり、心地良い。

 冬馬の気遣いが、冬馬の優しさが、冬馬の音が。

 冬馬が、俺だけを見てるのが。

 ずっと俺に、笑顔を向けてるのが。

 なにもかもが、心地良い。

…………

 至福の時間が終わる。ノーミスで演奏できたけど、細かいことはわからない。でも満足のいく出来だったと自負できる。

 最後の余韻まで堪能したように曜子さんが遅れて拍手喝采をくれた。皆勤賞とかで表彰されたときなんかで拍手を受けたことはあるけれど、それよりもよっぽど嬉しく、気恥ずかしい。

 曜子さんが満面の笑みで俺に歩み寄る。

 そして、にっこりと。

「ギター君。あなたへたっぴね」

「試験でそれどころじゃなかったんです! ブランクのせいです!」

 真正面から言わなくったって……無邪気に言わなくったって……もっと言い方があるじゃない。

「そう言うなよ、母さん」

 心の中で半泣きの俺に、冬馬が援護射撃をしてくれる。

「北原に才能がないのはあたしが一番よくわかってる。これでも少しは上達した方なんだ。最初なんて本当に耳障りでイライラするくらいだった」

「……ありがとう、冬馬。お前の褒め言葉はいつも俺の心を突き刺してくれるよ」

 しかしその銃弾は俺の背中に命中した。

 この親子は人を貶めるスキルだけは随一だな……。曜子さんはそれを上手く活用できるし魅力の一つにさえしているけれど、娘の方はコミュニケーション能力が低いから、何も知らない人からすると勘違いされやすくて欠点にしかならない。

 同じような二人なのにこうも違うだなんて。

 どうして俺はこんな奴を好きになったんだろう。

「でも」

 曜子さんは笑顔を戻して、真剣な声色で言う。見透かされているような鋭い眼差しに一瞬たじろぐ。

「あなたのこと、かずさのこと、いろいろわかったわ。会話するよりよっぽどね。演奏してくれてありがとう」

「あ、いえ……どうも」

 今の遊びの演奏だけで何かを感じ取った曜子さんは、やっぱりプロのアーティストだなと実感する。外見の印象もあるけど、常人とは一線を画している気がして、よくわからないけどかっこいいと感じた。

「私の要望には応えてくれなかったけれど。選曲も古くて陰気で全然私好みじゃないし」

「ご、ごめんなさい」

……アーティストの言うことはやっぱり難しい。

「まあいいわ。それより私も混ぜてくれないかしら」

「え」

 俺と冬馬の声が全く同時に重なる。

……この人、今なんて言った?

 呆気に取られる俺たちをよそに、曜子さんは部屋に立て掛けてあったベースを手に取る。

「大丈夫よ。あなたたちの邪魔はしないから。後ろでリズム刻んでるだけの日陰の女でいるから」

 コード類を接続してチューニングをする。もちろんチューナーなんて使わない。

 そしてそれらが完了すると、腕ならしでベースを軽く弾く。

……いや、ちょっと待て。

 何だよこの上手さ。この人はどこの有名ベーシストだよ。

「ふぅ、五年ぶりくらいかしら……。もう見る影もないわね」

 夏休み、冬馬にギターを教えてもらったときにも屈辱的な思いをしたけれど、今のこの状況は、その時に勝るとも劣らない。

 もうやだこの親子。どれだけ一般人に絶望感を与えれば気が済むんだ?

 実力も、さっきの俺の言い訳も、こうやって完全に打ちのめされると羞恥プレイに近いものがあるよな……。

「準備オッケーよ。それじゃやりましょう」

「ちょっと待ってくれよ、母さん」

 ほいほいとどこまでも自分のペースで進行していく曜子さんに、冬馬が堪らず抗議の声を上げる。

「急にそんなこと言われたって、こっちとしても困るというかなんというか……」

「気にしないでいいわよ。あなたたちは普段通りにやってればいいから。そこに私が飛び入り参加するだけのことよ」

「でもでも……ずっと二人で演奏してただけだし……それにほら、北原も困ってるし」

「そうなの? ギター君」

 唐突に水を向けられても困却する。そんなの、しがない一般人の俺に言われてもどうすればいいのやら……。

「私と一緒にするの、嫌?」

「えっと……でも、俺は今まで練習してきたことしかわからないんで」

「そんなこと訊いてないわよ。私が好きか嫌いか、それだけを正直に答えてくれればいいの。ね?」

 知らず知らずの内に距離を詰められていた。曜子さんの顔が三十センチくらいにまで近寄る。ずっと思ってたけど、この人本当に綺麗だな。こんなに近くで見ても皺の一つもないし、二十代って言われても不思議じゃないくらい――

「母さん!」

 冬馬の怒声で我に返る。同時に曜子さんも危機を察した小魚のように離れた。

 すかさず冬馬がずかずかと間に入る。

「あんた、娘の彼氏に……しかも目の前で何しようとしてるんだ!」

「別になーんも?」

「この狸!」

「どちらかというと猫じゃないかしら」

「やっぱりそのつもりだったんじゃないか!」

「私はただギター君と一緒にやりたいって望んだだけ。さっきはその気持ちを確かめようと思ったの」

 述語を省いてるのはわざとだろうか。わざとなんだろうな。

 冬馬は一の挑発に十の反論で言い返すし、曜子さんは曜子さんでそれを楽しんでるし、このままでは埒が明かない。

「冬馬」

 可能な限り冷静な声で、冬馬の肩に手を乗せる。

「ちょっと落ち着けよ。曜子さんは俺たちと一緒に音楽をしたいだけだって。ただ純粋に」

「北原! お前は――」

「それに、俺も曜子さんと一緒にやってみたいと思ってる」

「〜〜〜っ! このイエスマン! 風見鶏! 玉虫野郎!」

「俺は流されてなんかないから」

「だって、だってだって!」

「冬馬はやりたくないのか? 曜子さんと――憧れの母親とのセッション」

「っ……別にやりたくないし、そもそも憧れてなんかない」

「俺は見てみたい。世界的ピアニスト冬馬曜子と、俺のクラスメイトで師匠で……恋人の、冬馬かずさ。二人の夢の共演。まあ余計なオマケもいるけど」

「……」

 冬馬は嫌がってない。むしろ曜子さんと和解したいと望んでいるはずだ。曜子さんと触れあえる時間を、理解する時間を。ただ、今はいつもの意地っ張りが邪魔をしているだけで。

「俺のために、やってくれないか?」

 それなら俺は、いつものお節介で強引に押し通す。本人にその気があるのなら、俺が依頼したという形なら、冬馬は絶対に首を縦に振ってくれる。

「北原がそこまで言うなら……しかたない」

「ありがとう、冬馬」

――やっぱりこいつは、冷たさも、素っ気なさも、どうしようもなく中途半端だ。

「曜子さん」

「……あっ。な、なに?」

 ふてくされた冬馬から曜子さんに目を移すと、なぜだか少しぼうっとした様子だった。

「そうわけで許可がおりました」

「どうもご苦労様、ギター君。それじゃさっそくやりましょう。かずさ、お願い」

 曜子さんの合図で、不機嫌な顔をした冬馬が渋々ピアノを弾く。その旋律に俺のギターが乗り、次いで曜子さんのベースが重なった。

 天才ピアニストのポップスに世界的ピアニストのベースと素人ギター。料理にオリジナル調味料を合わせるかのように混沌とした一夜限りの夢のステージが、開幕した。

 結果から言って。

 曜子さんのベースは誰よりも前面に出ていて、主旋律を完全に乗っ取っていた。

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